B-29「エノラ・ゲイ」
B-29「エノラ・ゲイ」(B-29 "Enola Gay")は、第二次世界大戦末期の1945年に、アメリカの陸軍航空軍が運用したB-29スーパーフォートレス戦略爆撃機の1機である。1945年8月6日に広島に原子爆弾「リトルボーイ」を投下したことで知られる。機名は、機長であるポール・ティベッツ大佐の母親の名前に由来する。
概要[編集]
「エノラ・ゲイ」は、B-29爆撃機の中でも、原子爆弾投下任務のために特別に改造された15機からなる「シルバープレート作戦」機の一員であった。これらの機体は、通常型B-29が装備する多数の機関銃や爆弾倉の装備が撤去され、原子爆弾を搭載するために爆弾倉の扉が改造されるなど、軽量化と原子爆弾搭載に特化した改修が施されていた。
「エノラ・ゲイ」は、ユタ州のウェンドーヴァー陸軍飛行場で訓練を受けた第509混成部隊に配属された。この部隊は、原子爆弾投下任務を専門とする部隊として編成された。
広島への原爆投下[編集]
1945年8月6日午前2時45分、B-29「エノラ・ゲイ」は、マリアナ諸島のテニアン島にあるノースフィールド飛行場を離陸した。機長はポール・ティベッツ大佐、副操縦士はロバート・ルイス大尉、爆撃手はトーマス・フィアビー少佐であった。
「エノラ・ゲイ」は、広島への原子爆弾投下を主目標としており、天候偵察機が先行して広島の天候を確認した。午前8時15分、広島上空に到達した「エノラ・ゲイ」は、高度約9,600メートルから原子爆弾「リトルボーイ」を投下した。投下から約43秒後、原子爆弾は広島市上空約600メートルで炸裂し、広島市は壊滅的な被害を受けた。
戦後の「エノラ・ゲイ」[編集]
広島への原爆投下後、「エノラ・ゲイ」はテニアン島に帰還し、その後アメリカ本国へ戻った。 1946年7月、ビキニ環礁で行われたクロスロード作戦(核実験)に参加した後、退役した。
退役後、「エノラ・ゲイ」は分解され、保管された。その後、スミソニアン協会によって復元され、2003年からはワシントンD.C.近郊の国立航空宇宙博物館別館(ウドヴァー・ハジー・センター)で展示されている。
豆知識[編集]
- 「エノラ・ゲイ」という機名は、機長であるポール・ティベッツの母親、エノラ・ゲイ・ティベッツにちなんで名付けられた。彼は、この任務が母親を誇りに思わせるものだと信じていた。
- 広島への原爆投下任務の際、「エノラ・ゲイ」には、核物理学者ウィリアム・スターリング・パーソンズ海軍大佐と、その助手であるディーク・パーソンズ陸軍少尉が搭乗しており、原子爆弾の最終的な組み立てと武装化を担当した。
- 「エノラ・ゲイ」は、1945年8月9日の長崎への原爆投下作戦にも予備機として参加する予定だったが、出撃することはなかった。
- 展示されている「エノラ・ゲイ」は、その歴史的意義と、戦争の悲惨さを伝える象徴として、現在も多くの人々が訪れる場所となっている。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- リチャード・ローズ 『原子爆弾の誕生』 サイエンス社、1986年。ISBN 978-4781907727。
- ロバート・マンチェスター 『エノラ・ゲイ: 広島原爆投下作戦の真実』 早川書房、2008年。ISBN 978-4152089408。