日本海軍給糧艦 間宮

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間宮(まみや)は、大日本帝国海軍給糧艦。当時としては画期的な設備と機能を持ち、将兵の士気維持、健康増進に多大な貢献をした。その役割は単なる食料補給に留まらず、海軍の遠洋行動を支える上で不可欠な存在であった。

概要[編集]

間宮は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて日本海軍が保有した、世界でも類を見ない給糧艦である。艦内には大規模な調理施設冷蔵設備、さらには製菓製パン設備、豆腐製造、こんにゃく製造、ラムネ製造、アイスクリーム製造といった特殊な設備まで備え、一度に数千人分の食事を調理・提供することが可能であった。また、医療設備理髪施設も充実しており、洋上における艦隊の生活基盤を支える役割も担っていた。その設計思想は、長期間にわたる洋上行動において将兵の士気と健康を維持するためには、食事の質の確保が極めて重要であるという認識に基づいていた。

建造に至る経緯[編集]

第一次世界大戦後、日本海軍はワシントン海軍軍縮条約による主力艦の保有制限を受け、質的な向上と効率的な運用が求められるようになった。この時代、艦隊が長期間洋上行動を行う場合、食料の補給は大きな課題であった。寄港地での調達は時間と労力がかかり、また生鮮食品の品質維持も困難であった。このような背景から、洋上で艦隊に新鮮な食材や多様な食事を提供できる専門の補給艦の必要性が認識され、間宮の建造計画が具体化した。設計にあたっては、欧米諸国の事例も参考にされつつ、日本海軍独自の運用思想が色濃く反映された。

艦歴[編集]

間宮は1922年(大正11年)に神戸川崎造船所で起工され、1923年(大正12年)に進水、1924年(大正13年)に竣工した。就役後は主に連合艦隊に属し、演習や遠洋航海の際には常に艦隊に随伴し、食料補給の中核を担った。その高性能ぶりは海軍内部で高く評価され、将兵からは「動く料亭」と称されるほどであった。

日中戦争期には、中国沿岸での作戦行動に従事する艦隊への補給を行った。太平洋戦争開戦後は、南方作戦ガダルカナル島の戦いなどの激戦地へ赴く部隊への補給支援に奔走した。特に、補給線が延び、物資輸送が困難を極める戦況下では、間宮の存在は極めて貴重なものであった。しかし、その貴重さゆえに、敵潜水艦の格好の標的ともなった。

間宮は幾度となく潜水艦による攻撃を受けながらも、その堅牢な船体と乗組員の懸命な努力により、数々の危機を乗り越えた。しかし、1944年(昭和19年)12月21日、仏印沖においてアメリカ海軍潜水艦シーライオンの雷撃を受け、沈没した。その最期まで、間宮は将兵の胃袋と士気を支え続けた。

特徴的な設備[編集]

間宮の艦内には、当時の日本の技術の粋を集めた画期的な設備が多数設置されていた。

  • 製パン工場:大型のオーブンを備え、一度に大量のパンを焼くことができた。
  • 製麺機うどん蕎麦などの麺類を製造する設備。
  • 豆腐工場:新鮮な豆腐を製造し、供給した。
  • 製氷機を製造し、生鮮食料品の保存に貢献した。
  • 製菓設備羊羹饅頭など、日本式の菓子を製造する設備もあった。
  • 牛乳処理設備:牛乳の殺菌・加工を行う設備。
  • その他散髪室、洗濯室、病室なども完備されており、洋上での生活環境の維持に貢献した。

これらの設備は、単に食料を供給するだけでなく、将兵に故郷の味を提供し、心理的な安定をもたらす上でも重要な役割を果たした。

評価[編集]

間宮は、その画期的な機能と貢献により、日本海軍の歴史において特異な存在として評価されている。将兵の士気維持と健康管理において果たした役割は大きく、長期間の洋上行動を可能にする上で不可欠な存在であった。また、その設計思想や設備の充実ぶりは、当時の日本の造船技術の高さを示すものでもある。戦後はこのような専門的な給糧艦の概念は、より多機能な補給艦へと発展していった。

豆知識[編集]

  • 間宮の艦名は、間宮海峡に由来する。
  • 間宮の調理場は非常に広く、専門の調理師が多数乗り組んでいた。
  • 間宮の進水式には、高松宮宣仁親王が臨席した。
  • 間宮は、しばしば遠洋航海で疲弊した将兵にとって「オアシス」のような存在と見なされていた。

関連項目[編集]

参考書籍[編集]

  • 『日本海軍艦艇写真集 第13巻 補助艦艇』光人社、1997年。
  • スペシャル No.130 日本海軍の給油艦・給兵艦・給糧艦』潮書房、1987年。
  • 『歴史群像太平洋戦史シリーズVol.56 補助艦艇 激闘の脇役たち』学習研究社、2007年。