東濃鉄道モハ100形電車

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モハ100形電車(モハ100がたでんしゃ)とは、東濃鉄道が導入した電車である。ここではペアを組んでいたクハ200形電車についても記述する。

概要[編集]

駄知線の電化開業時に東芝車輌で2両が製造された。なお東芝は電気機関車の製造が中心で、構体・電装品・台車までを全て内製した電車は本形式のみである。後に輸送力増強用として日本国有鉄道からいわゆる買収国電のクハ101・102・104の3両の払い下げを受け、クハ200形201 - 203として導入した。なお後年クハ200形のうち1両が電装化されてモハ100形へと編入されている。

モハ100形は全長14m級の小型車体で、両運転台構造。クハ200形も全長14m級の両運転台車だが、リベット組み立てを多用し、広い腰板を持つ古典的な外観となっている。

運用[編集]

全車両が駄知線に導入されたが、電動車2両に制御車3両と釣り合わない状態であったことから、1952年(昭和27年)にクハ202・203は運転台機器を撤去して車番をサハ200形へと変更。サハ202は笠原線へと転じて客車代用となった。翌年にはサハ203が両運転台の電動車へ改造され、モハ100形103号へ改称。笠原線で客車代用となっていたサハ202も1959年(昭和34年)に駄知線へ復帰し、運転台機器も再取り付けしてクハ202に戻った。

1972年(昭和47年)7月に発生した集中豪雨昭和47年7月豪雨)で駄知線は橋梁流失などの甚大な被害を受け、輸送人員も減少していたことからすぐに復旧とはならず路線休止。1974年(昭和49年)10月を以て駄知線は廃線。車両も除籍された。

高松琴平電気鉄道へ譲渡[編集]

路線休止中から屋外に留置され、荒廃が進んでいたがモハ100・クハ200の全5両が高松琴平電気鉄道へと譲渡された。琴電ではモハ100型は70形、クハ200形は80形と形式を改めた。

入線に際しては台車を71号は形鋼組立型釣り合い梁式台車MT-100B、72号は鋳鋼組立型釣り合い梁式台車KS-30Lへと換装。73号と81・82号は立型釣り合い梁式台車BW-78-25-AAを履いた。また主制御機器の手動進段型への換装、主電動機の換装も行われている。

琴電では71 - 81・72 - 82で半固定編成を組み、73は主に増結用として扱われた。ただし車体が14m級と小型なことから収容面で難があり、より大型の3代目30形(元京急230形)の増備が進むとラッシュメインの使われ方となった。1983年(昭和58年)に三岐鉄道からモハ120・クハ210形を譲り受けて1013形が導入されると、状態が悪かった73・82の2両が廃車。ペアを失った72は新たに81と編成を組み、71は休車。1994年(平成6年)の志度線分断時に72・81は志度線へ転出して運用された。

その後元名古屋市交通局の600形・700形が導入され、これらに置き換えられる形で70・80形の全車両が廃車となった。