日本海軍砲艦保津

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保津(ほづ)は、大日本帝国海軍砲艦で、安宅型の発展型として建造された。主に中国大陸の河川域における警備活動に従事し、日中戦争から太平洋戦争にかけて重要な役割を担った。

概要[編集]

保津は、1930年度の艦艇補充計画に基づき、揚子江における日本権益の保護と警備を目的として計画された。従来の砲艦よりも大型化され、居住性や航洋性の向上が図られた。建造は藤永田造船所で行われ、1930年12月1日に起工、1931年5月29日に進水、1932年2月1日に竣工した。

船体は平甲板型で、艦首には揚子江の急流に対応するための強いシアが設けられていた。武装は、当初から対空戦闘を考慮し、8cm高角砲2門を主武装として搭載した。これは、当時の砲艦としては比較的強力な武装であった。

艦歴[編集]

竣工後、保津は第三艦隊隷下の揚子江方面特別根拠地隊に編入され、揚子江流域における警備任務に就いた。主な任務は、日本商船の保護、密輸取り締まり、抗日運動に対する監視、そして内陸部への輸送支援などであった。

1937年日中戦争が勃発すると、保津は上海南京攻略作戦に支援艦艇として参加した。特に、揚子江上流への日本軍の進出に伴い、兵員や物資の輸送、上陸支援、そして艦砲射撃による地上部隊への火力支援など、多岐にわたる任務を遂行した。その後の戦局拡大に伴い、保津は揚子江上流域における最前線の警備を担い、中国軍部隊との小規模な交戦も経験した。

太平洋戦争開戦後も、保津は引き続き中国大陸方面での任務に従事した。1942年以降、連合国軍による航空攻撃が活発化すると、保津も度々空襲に晒された。その中で、対空兵装の強化が行われ、25mm機銃や13mm機銃が増設された。

戦争末期の1945年、保津は上海に停泊中に連合国軍の激しい空襲を受け、損傷着底した。1945年8月15日終戦時、保津は損傷した状態で上海に係留されていた。戦後、1945年9月20日中華民国に引き渡され、中華民国海軍の砲艦「中権」として再就役したが、まもなく除籍された。

豆知識[編集]

保津の艦名は京都府を流れる保津川に由来する。日本海軍の砲艦は、多くが日本の河川名にちなんで命名されている。

関連項目[編集]

参考書籍[編集]