九試艦上攻撃機
九試艦上攻撃機(きゅうしかんじょうこうげきき)は、大日本帝国海軍が九〇式艦上攻撃機の後継機として開発した艦上攻撃機である。後に九六式艦上攻撃機として制式採用された。日本海軍初の全金属製低翼単葉の艦上攻撃機であり、その後の日本の航空機開発に大きな影響を与えた。
開発経緯[編集]
1934年(昭和9年)、日本海軍は老朽化しつつあった九〇式艦上攻撃機の後継となる新型艦上攻撃機の開発を広海軍工廠に指示した。これが「九試艦上攻撃機」の開発指示である。海軍は要求性能として、最高速度135ノット(約250km/h)以上、航続距離は雷撃装備時で450海里(約830km)以上、爆弾搭載量800kg(魚雷1本または250kg爆弾2発)などを提示した。
当時、欧米では既に単葉機が主流となりつつあったが、日本ではまだ複葉機が主流であった。しかし、海軍は将来を見据え、単葉機としての開発を広海軍工廠に求めた。広海軍工廠はこれに応じ、中島飛行機、三菱重工業、川西航空機の各社に対し、設計案の提出を求めた。
最終的に広海軍工廠は、自社で設計した機体を主とし、中島、三菱の各社の案も参考に開発を進めることになった。特に、三菱の堀越二郎技師が設計した七試艦上戦闘機(九六式艦上戦闘機の原型)の設計思想が、九試艦上攻撃機の開発に少なからず影響を与えたと言われている。
設計[編集]
九試艦上攻撃機は、広海軍工廠の山名正夫技術少佐らが設計を担当した。機体は日本海軍機として初の全金属製低翼単葉機であり、主翼には空気抵抗の少ないテーパー翼を採用し、後方に引き込む引込脚を装備するなど、当時としては非常に先進的な設計であった。密閉式操縦席が採用された点も、特筆すべき点である。
エンジンには、当初中島「寿」エンジンや三菱「金星」エンジンの採用が検討されたが、最終的には広海軍工廠が開発した液冷式エンジンである広廠九一式水冷エンジンが搭載された。このエンジンは当時としては高出力であり、九試艦上攻撃機の高性能化に貢献した。
武装は、機首に7.7mm固定機銃1挺、後席に7.7mm旋回機銃1挺を装備し、胴体下には八〇番魚雷1本、または250kg爆弾2発を搭載可能であった。
生産と運用[編集]
九試艦上攻撃機は、1935年12月に試作1号機が完成し、試験飛行が開始された。初期の試験飛行では、エンジンの振動やプロペラの効率など、いくつかの問題が指摘されたものの、全体としては良好な性能を示した。特に、従来の複葉機と比べて速度性能と航続距離が大幅に向上したことは、海軍から高く評価された。
試験飛行の結果を受けて、1936年には「九六式艦上攻撃機」として制式採用された。生産は、主として広海軍工廠、三菱重工業、中島飛行機で行われ、総計205機が生産された。
九六式艦上攻撃機は、日中戦争において実戦投入され、その性能を発揮した。特に、長大な航続距離は、中国大陸奥地の爆撃任務において威力を発揮した。また、空母での運用も行われ、真珠湾攻撃で活躍する九七式艦上攻撃機の基礎を築いた。しかし、生産数がそれほど多くなかったことと、その後の九七式艦上攻撃機の登場により、1940年には前線での運用を終え、練習機として使用されることが多くなった。
評価[編集]
九試艦上攻撃機は、日本海軍初の全金属製低翼単葉の艦上攻撃機として、その後の日本の航空機開発に大きな影響を与えた画期的な機体であった。従来の複葉機と比較して大幅に向上した性能は、当時の日本海軍の航空戦術に新しい可能性をもたらした。
しかし、液冷式エンジンの信頼性や整備性の問題、そして後に登場する九七式艦上攻撃機の高性能ぶりにより、その活躍期間は短かった。それでも、本機で得られた単葉機の設計・製造技術は、九七式艦上攻撃機、零式艦上戦闘機などの開発に引き継がれ、日本の航空技術の発展に大きく貢献したと言える。
豆知識[編集]
- 九試艦上攻撃機の開発にあたっては、当時既に完成していた三菱九六式艦上戦闘機(七試艦上戦闘機)の設計思想が、特に空力的な面で参考にされたと言われている。
- 試作機の一部には、広海軍工廠で開発された「広廠九一式」液冷エンジンではなく、輸入された外国製エンジンを搭載して試験された機体もあったらしい。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 碇義朗『日本海軍航空隊全史』(光人社、2000年)
- 酣燈社編集部『世界の傑作機 No.109 海軍艦上攻撃機』(酣燈社、2005年)
- 歴史群像編集部『決定版 日本の軍用機』(学研プラス、2006年)