立川キ-54 一式双発高等練習機
一式双発高等練習機(いっしきそうはつこうとうれんしゅうき)は、第二次世界大戦中に大日本帝国陸軍が開発・採用した双発の高等練習機である。略符号はキ54。後に輸送機、連絡機、偵察機としても運用され、多用途機としてその堅実な性能から幅広い任務に用いられた。
概要[編集]
一式双発高等練習機は、三菱重工業製九七式司令部偵察機などに代表される高性能な双発機の増加に対応し、操縦訓練の効率化を図る目的で開発された。それまでの双発練習機が単発機からの改造であったり、本格的な高等訓練には不十分であったのに対し、本機は当初から高等練習機として設計され、双発機の操縦特性を習熟させることに重点が置かれた。
開発経緯[編集]
1939年(昭和14年)、陸軍航空本部は立川飛行機に対し、新型双発高等練習機の開発を指示した。要求性能としては、安定した飛行性能、整備の容易さ、そして多用途への転用を考慮した設計などが盛り込まれた。これを受け、立川飛行機は遠藤良吉技師を主任設計者として開発を開始した。
試作機は1940年(昭和15年)7月に初飛行し、その安定した性能と良好な操縦性から陸軍の評価を得た。同年10月には審査が完了し、1941年(昭和16年)に「一式双発高等練習機」として制式採用された。
特徴[編集]
一式双発高等練習機は、双発低翼単葉機であり、当時の日本の航空機としては珍しく引込脚を採用していた。これは、実戦機への移行をスムーズにするため、より実戦機に近い操縦環境を提供することを目的としていた。機体構造は、主に木金混合構造であり、生産性と整備性を両立させていた。
主翼に2基の日立ハ13甲エンジン(空冷星型9気筒、出力450hp)を搭載し、最大速度370km/h、航続距離1,200kmを実現した。操縦席は密閉型で、教官と訓練生が並列で座る形式であった。これにより、教官は訓練生の操作を直接指導しやすかった。
バリエーション[編集]
一式双発高等練習機は、その堅実な設計から様々な派生型が開発され、多岐にわたる任務に投入された。
- キ54甲(一式双発高等練習機):初期生産型。高等練習機として使用された。
- キ54乙(一式双発輸送機):後席を撤去し、貨物室を拡大した輸送機型。人員輸送や物資輸送に用いられた。
- キ54丙(一式双発連絡機):VIP輸送や連絡任務に使用された型。内装が豪華に改装され、一部の機体は大日本帝国海軍でも運用された。
- キ54丁(一式双発練習偵察機):偵察任務に対応するため、機体下部にカメラを搭載した偵察機型。
- キ54戊(一式双発爆撃練習機):爆撃機への搭乗員訓練用に、爆弾倉と照準装置を追加した型。ごく少数のみ生産。
戦歴[編集]
一式双発高等練習機は、陸軍の航空部隊において、搭乗員養成の要として終戦まで活躍した。特に、航空士官学校や飛行学校での高等訓練に不可欠な存在であり、多くの熟練パイロットを輩出した。
また、その安定性と多用途性から、練習任務のみならず、中国戦線や太平洋戦争の各地で、輸送、連絡、偵察といった補助任務にも従事した。特に、戦局が悪化し、輸送機や連絡機が不足するようになると、本機がその穴を埋める役割を担うことも多くなった。武装は基本的に施されていないが、末期には急造で自衛用の機関銃が搭載された機体も存在したとされる。
現存機[編集]
現在、一式双発高等練習機の実機はほとんど残存していない。国立科学博物館に機首部分が保存されているほか、ニュージーランドのオークランド戦争記念博物館に、戦後に現地で発見された残骸を基に復元された機体が展示されている。
豆知識[編集]
- 一式双発高等練習機は、その操縦のしやすさから「天山(てんざん)」の愛称で呼ばれることもあった。
- 戦後、一部の機体は連合軍によって接収され、テスト飛行に用いられたり、民間航空会社で旅客機や貨物機として短期間運用された例もあった。
- 第二次世界大戦終結後、フランス領インドシナ(現在のベトナム)において、独立運動に利用された機体も存在したとされる。