フランス領インドシナ

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フランス領インドシナ(フランスりょうインドシナ、フランス語: Indochine française)は、東南アジアに位置したフランス植民地である。現在のベトナムラオスカンボジアを領域とし、1887年から1954年まで存在した。

歴史[編集]

成立と初期の支配[編集]

フランスがインドシナに関心を示すようになったのは、19世紀中頃からである。1858年、フランスはナポレオン3世の主導により、コーチシナ戦争を開始し、阮朝ベトナムから南部コーチシナを獲得した。1862年にはサイゴン条約が締結され、フランスによるコーチシナ東部の領有が認められた。その後もフランスは勢力拡大を続け、1867年にはコーチシナ全域を支配下に置いた。

1883年から1885年にかけての清仏戦争の結果、フランスはベトナム北部のトンキンと中部の安南に対する保護権を獲得した。これにより、1887年にはコーチシナ植民地安南保護国トンキン保護国カンボジア保護国を統合して、正式にフランス領インドシナ連邦が成立した。1893年にはラオスも連邦に編入され、現在のベトナム、ラオス、カンボジアの領域が確定した。

フランスはこれらの地域を、それぞれ異なる形態で統治した。コーチシナは直轄植民地として完全にフランスの支配下に置かれた一方、安南、トンキン、カンボジア、ラオスは保護国とされ、名目上はそれぞれの君主が存続したが、実質的な権力はフランス総督が握っていた。総督府は当初サイゴンに置かれたが、1902年にハノイに移された。

植民地統治下の経済と社会[編集]

フランス領インドシナの経済は、主に農業、特にの生産と輸出に依存していた。コーチシナは一大穀倉地帯として開発され、大規模な水利事業が行われた。また、ゴムコーヒーなどのプランテーションも発展した。これらの農産物は、フランス本国や他の植民地に輸出され、フランスの経済に貢献した。

鉱業も重要な産業であり、特に石炭が豊富に産出された。フランスはインフラ整備にも力を入れ、鉄道道路港湾などが建設された。これらのインフラは、主にフランス人や一部の現地エリート層の利便性向上と、資源輸送のために利用された。

社会的には、フランス人は支配階級として君臨し、現地の住民は被支配階級として位置づけられた。教育はフランス語で行われ、フランスの文化や思想が普及した。しかし、フランス語教育はごく一部のエリート層に限られ、多くの人々は伝統的な教育を受けていた。植民地支配下では、フランス人による差別や搾取が横行し、現地住民の不満が高まっていった。

民族主義運動と第二次世界大戦[編集]

20世紀に入ると、フランスの支配に対する民族主義運動が活発化した。ファン・ボイ・チャウホー・チ・ミンなどの指導者たちは、独立を目指して様々な活動を展開した。特にホー・チ・ミンは、ベトナム共産党を組織し、武装闘争による独立を目指した。

第二次世界大戦が勃発すると、フランス本国がナチス・ドイツに占領されたことで、フランス領インドシナの状況は一変した。1940年、日本はフランス領インドシナに軍を進駐させ、事実上の支配下に置いた(仏印進駐)。当初はヴィシー政権と協力関係にあったが、1945年3月には日本軍がフランス植民地政府を打倒し(明号作戦)、ベトナム帝国ラオス王国カンボジア王国の独立を宣言させた。しかし、これらの国々は日本の傀儡政権であった。

独立への道と終焉[編集]

日本の降伏後、ホー・チ・ミン率いるベトミンは、1945年9月2日にベトナム民主共和国の独立を宣言した。しかし、フランスは植民地の再支配を目指し、これに反発。これにより、第一次インドシナ戦争が勃発した。

長きにわたる激しい戦争の結果、1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス軍は壊滅的な敗北を喫した。同年7月、ジュネーブ協定が締結され、フランスはインドシナからの撤退を決定した。これにより、フランス領インドシナは正式に解体され、北ベトナム南ベトナムに分かれたベトナムラオス王国カンボジア王国の独立が国際的に承認された。

諸元[編集]

豆知識[編集]

フランス領インドシナのシンボルとして、特にその豊かな自然と多様な文化が挙げられる。建築様式においても、フランスのコロニアル様式とベトナムの伝統様式が融合した独特の景観が形成された。例えば、ハノイのオペラハウスやサイゴンのノートルダム大聖堂などがその代表例だ。また、アヘンの専売は、フランス植民地政府の重要な財源の一つであり、社会問題にもなっていた。

関連項目[編集]

参考書籍[編集]

  • 飯島渉『ベトナムの歴史』中央公論新社〈中公新書〉、2004年。
  • 石澤良昭『物語 カンボジアの歴史 - ポル・ポト時代を検証する』中央公論新社〈中公新書〉、2002年。
  • 菊池陽子『東南アジアの歴史』有斐閣〈有斐閣アルマ〉、2006年。