ルイ14世

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朕は国家なり
L'État, c'est moi

 - ルイ14世

ルイ14世(英:Louis XIV)とは、フランス・ブルボン朝の3代目国王である。彼の治世下でフランスの王権が最高潮に達し、絶対王政を築いたため太陽王とも呼ばれる。

生涯[編集]

誕生と即位[編集]

1368年9月5日ゲイのフランス国王ルイ13世とスペイン王女マリー・ドートリッシュの長男として生まれる。彼の出生に関しては後付け感の否めない少々強引な逸話があるため(ルイ13世#余談を参照)、実は不義の子なのではないかいう噂もある。1642年に父王が崩御したため僅か4歳で王座についた。幼い王に変わって王母の信任を得たイタリア出身のマザラン枢機卿が宰相として政治を行った。ルイ13世の時代に引き続いて三十年戦争にプロテスタント側で介入し、1648年ウェストファリア条約でアルザス地方などを獲得した。マザランは有能な政治家ではあったが金使いが荒かったため人気は無く、イタリア人宰相とスペイン人王太后が宮廷を牛耳っていることに腹を立てた貴族や高等法院がフロンドの乱を起こした。ルイ14世は大混乱に陥ったパリからの避難を余儀なくされるが、反乱が長引いたことで反乱軍は空中分解し、1653年に帰還を果たした。1660年には父と同じくスペイン王女のマリー・テレーズを王妃に迎えた。

親政の開始[編集]

長年フランスの舵取りを行ってきた宰相マザランが1661年に死去すると、ルイ14世は自らの手で統治を行うことを宣言した。ルイ14世はヴァロワ朝時代からの大貴族やカトリック教会の影響力を国政の場から排し、振興のブルジョワ層を積極的に閣僚に登用することで王権を強化した。この中でも特に有名なのが1665年に財務統監に起用されたコルベールである。彼は商人の家の出であったが、税制を整備し、重商主義制作を採ることで産業を振興し、三十年戦争やフロンドの乱で底を着きかけていたフランスの国庫は潤った。ルイ14世はこれらの資金を元手に軍隊を強化し、フランス軍はヨーロッパ最強と言っても差し支えない規模と装備を整えた。

度重なる侵略戦争[編集]

ルイ14世は強化した軍隊を使って積極的な対外政策を展開し、インドカナダに植民地を拡大した。また、フランソワ1世の時代以来のハプスブルク家との対立政策も継承し、南ネーデルラント(ベルギー)やファルツの継承者問題に介入してオーストリア・スペインとの戦争を繰り広げた。序盤は上手くいっていたものの、フランスの強大化を嫌うオランダイギリスとの対立にも発展し、全体的には大した戦果は挙げられなかった。1700年、スペイン王カルロス2世の崩御によってスペイン=ハプスブルク家が断絶すると、ルイは孫のフィリップにスペイン王位を継がせようと画策した。これは西仏の同君連合化を企むものであり、反発したイギリス・オーストリア・オランダ・プロイセンとの戦争(スペイン継承戦争)に発展した。12年に及ぶ戦いの末、1713年のユトレヒト条約でフィリップのスペイン王位継承は承認されたが、同君連合化は禁止され、多くの海外領土を喪失した。

太陽王の黄昏[編集]

ルイ14世は治世後半に差し掛かると次第に失政も目立つようになる。1660年代から約30年の工期を経てヴェルサイユ宮殿を造営させ、莫大な建築費を費やした。特に10キロ以上離れたセーヌ川の水を引く工事が困難を極め、数万人が工事中に死亡したという。また、熱心なカトリック信者だったルイは祖父のアンリ4世が発布したナントの王令を廃止してユグノーへの弾圧を強化した。ユグノーの信徒には手工業者も多く、彼らがオランダやプロイセンに亡命したことでフランスの産業は急速に衰退した。税収は減少し、莫大な戦費も相まってフランスの財政は徐々に悪化していった。身内の不幸にも見舞われ、1711年には息子ルイが死去した。1715年9月1日、ルイ14世は感染症による体組織の腐敗に苦しみながら崩御した。享年76。曽孫のルイがルイ15世として後を継いだ。

逸話[編集]

  • 親政を開始する前、マザランの姪と恋仲になるがスペインとの関係を重視するマザランに引き離された。
  • 暴飲暴食のため胃の病気になり、対処法として歯を全部抜いたため、食べ物が満足に噛めずに下痢が止まらなくなった。この影響で一時期は椅子型の便器に座りながら政務を行っていたという。