ミロシュ・オブレノヴィッチ

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ミロシュ・テオドロヴィッチ・オブレノヴィッチ(セルビア語:Милош Теодоровић Обреновић/Miloš Teodorović Obrenović、1780年/1783年3月18日-1860年9月26日)とは、1817年からのセルビア公国公爵である。

概要[編集]

1815年から1839年までと、1858年から1860年の二度にわたってセルビアを統治した。第一次セルビア蜂起では、戦士として戦闘で活躍し、その功績で公爵に昇格した。1813年の蜂起失敗後、セルビア国内に残る数少ない公爵の一人となり、困難な時代の中多くの信頼を得た。

短期間でオスマン帝国による恐怖が強まった後、ミロシュは1815年にタコヴォ第二次セルビア蜂起を起こし、主導権を握った。ミロシュは最も重要な戦闘に参加し、トルコとの交渉を自ら主導し、オスマン帝国のセルビア総督のマラシュル・アリ・パシャとの口頭協定を締結した。彼の最初の統治の間、粘り強い外交によりセルビアはオスマン帝国の自治公国となり。封建制は廃止された。その後、自由農民という新しい社会階級が出現した。ミロシュ公は独裁的に統治し、常に権力の制限や共有を拒否したため、ミロシュの統治に対していくつかの反乱が起こった。特に有名なのはミレティナの乱で、その結果、短命ながら自由主義的な憲法が採択され、セルビア公国の法秩序の基礎が築かれた。ミロシュは最初の統治においてセルビアで最も裕福な人物であり、バルカン半島有数の富豪だった。ただし、亡命生活をしている間は他の商人に追い抜かれた。彼は文盲であったが、最初の統治中に82の学校、準ギムナジウム、ベオグラード高等学校などを設立し、セルビアの高等教育を確立した。

ミロシュは1839年から1859年まで19年間を亡命生活で過ごし、ウィーンワラキア公国で過ごした。聖アンドレイ議会の後、彼はセルビア公に復帰した。死亡するまで短命に終わった第二の統治期間では、長年の亡命生活の責任を負っていると考えた政敵の粛清を命じたが、同時に議会制度を確立する法を制定した。セルビアに帰国した際はグルグソヴァツを経由して戻り、そこをクニャジェヴァツと名付けた。

関連項目[編集]