フィリップ4世
フィリップ4世(英:Philippe IV)とは、カペー朝11代目のフランス国王。整った顔立ちのため端麗王とも呼ばれた。
生涯[編集]
即位まで[編集]
1268年春頃、フィリップ3世と最初の妻イザベルの次男として生まれる。1276年に兄ルイが死亡したため王位継承順が繰り上がり王太子となった。1284年、ナバラ女王フアナ1世と結婚。これによりナバラ王位の継承権も獲得し、以後カペー朝断絶までフランスとナバラは同君連合を組むこととなる。
フランドルとの戦争[編集]
1285年、父王の崩御に伴いフランス国王に即位。フィリップ4世は毛織物産業が栄え経済的に豊かだったフランドル地方に狙いを定め、フランドル伯とそれを支援するイングランドと戦争を繰り返した。しかし、1302年の金拍車の戦いでフランス軍は大敗し、以後も満足のいく戦果は得られなかった。
アナーニ事件[編集]
一連の戦争の戦費を調達するため、フィリップ4世はフランス中で徴税を行い、教会への課税も実施した。これはローマ教皇庁の収入が減ることを意味していたため教皇ボニファティウス8世は激怒し、1302年フィリップを破門に処した。しかし、フィリップは先手を打って平民・貴族・聖職者で構成される三部会を招集し、フランスの国益のためと愛国心に訴えることで世論を味方につけていたので効果は無かった。
翌1303年9月、フィリップは腹臣ギヨーム・ド・ノガレをアナーニに派遣し、休養で滞在中のボニファティウスを捕縛した。ギヨームは異端審問で両親が処刑されたことから教皇庁を恨んでおり、老体のボニファティウスを暴行した。教皇は住民の手で救出されたが、翌月屈辱のうちに憤死した。
教皇を支配[編集]
ボニファティウスの死後ベネディクトゥス11世が新たなローマ教皇として即位したが在位8ヶ月で急死した(フランスに毒殺されたとの説がある)。1305年、フィリップは後釜にクレメンス5世を擁立。クレメンスはフランスの傀儡であり、1308年教皇庁は南フランスのアヴィニョンに移した。俗に言う教皇のバビロン捕囚である。
1311年にはその財産を目当てにテンプル騎士団を異端として弾圧し解散させ、総長ジャック・ド・モレーらを火刑に処した。この際モレーはフィリップとクレメンスに呪いの言葉を放ったとされ、実際同年11月29日にフィリップは脳梗塞で崩御した。享年46。長男のルイがルイ10世として後を継いだ。
人物[編集]
苛烈な印象を受けるが、実際は寡黙で美しい容姿の持ち主だったという。また、キリスト教を嫌っていたわけではなく寧ろ敬虔で、祖父ルイ9世の列聖に尽力している。信仰と国益を明確に区別できていたと言う点で彼は模範的な君主と評価できよう。