イアン・カーティス
イアン・カーティス(Ian Curtis, 1956年7月15日 - 1980年5月18日)は、イギリスの歌手。ジョイ・ディヴィジョンのボーカルで、作詞を担当した。
生涯[編集]
マクルズフィールドで育つ。両親と4歳下の妹との4人家族。労働者階級出身。家族仲は良く、読書家で大人しい少年だった。音楽に熱中するようになり、デヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、ルー・リードに憧れ、高校時代には音楽で成功することへの志を強く持つようになる。
1975年、19歳の時にデボラと結婚。公務員となり、障害者のための職業安定所で勤務する。
バンド結成を目指し、メンバー探しにマンチェスターのパブやクラブを巡る中で、バーナード・サムナーとピーター・フックに出会う。1976年7月20日、セックス・ピストルズのマンチェスターで行われてたギグを見て大きな衝撃を受け、サムナーとフックが結成したバンドにボーカルとして応募する。1977年に初めてバンド名は「ワルシャワ」としてライブに立つ。イアンの母校の後輩であったスティーヴン・モリスがドラマーとして加入し、メンバーが固定する。1978年初頭にバンド名を「ジョイ・ディヴィジョン」に変更する。その後、インディーズ・レーベル、ファクトリー・レコードと契約し、徐々に活動の幅を広げていく。
1979年4月、娘のナタリーが誕生。同年6月に1stアルバム『アンノウン・プレジャーズ』をリリース。家庭との溝は深まり、また、持病のてんかんと鬱病にも悩まされるようになる。同年10月、ジョイ・ディヴィジョンはベルギーで行われたアート・イベントに参加する。イベントの興行主であったベルギー人女性アニック・オノレと愛人関係になる。
1980年、ヨーロッパ・ツアーを経て、2ndアルバム『クローサー』をリリース。プレッシャーと妻と愛人の間での苦悩などから、4月7日にてんかんの治療薬を大量に飲み、自殺未遂を起こす。メンバーや関係者の家を転々とし、実家の両親のもとへ戻る。5月17日、妻デボラと離婚の話し合いをするため自宅へ戻る。離婚についての話し合いは決着しないまま、デボラは娘を連れて自分の両親の家へ帰る。18日未明に台所で首を吊り自殺。午前11時頃、戻ってきたデボラにより発見される。23歳没。これにより、ジョイ・ディヴィジョンの活動が停止し、残されたメンバーはニュー・オーダーを結成する。