よみもの:亡くなったヒップホップアーティスト
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ヒップホップは1970年代前半にニューヨークで始まった、大衆音楽の中では比較的歴史の浅いジャンルの音楽になります。ギャング間の喧嘩を、殺し合うのではなく音楽をすることで勝負しようというのがヒップホップの始まりなわけなので、当然暴力や薬物などかなりアウトローな問題が存在し、その中で亡くなってしまうアーティストも存在します。ここでは追悼の意を込め、USヒップホップの全盛期である1995年以降に亡くなった世界中の代表的なヒップホップアーティストを紹介します。
90年代[編集]
95年[編集]
- Eazy-E
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- 死去:3月26日
- Eazy-E(イージー・E)はアメリカ西海岸のギャングスタ・ラップを形作ったクルーN.W.Aのメンバーであり、ヒップホップを語る上で忘れてはいけないアーティストの1人です。N.W.Aはアイス・キューブやドクター・ドレーら5人が所属していて、先ほど述べたように西海岸のギャングスタ・ラップの土台を作ったクルーでした。1991年にメンバーの金銭トラブルで解散しましたが、解散後アイス・キューブなどは単独活動で大きく成功しました。イージー・Eはというと解散後ドレーとビーフ(ヒップホップでの喧嘩)になり、ドレーのディスに対し「Real Compton G’s」でアンサーしました。この曲は彼の代表曲で、ヒップホップカルチャーの中で「ビーフ」が定着する要因にもなりました。イージー・Eは95年2月に喘息で入院した際にHIVとの合併症と診断され、その後3月26日にエイズによって30歳という若さで死去しました。イージー・Eはさっきも言いましたがヒップホップ史にかなり大きい影響を与えた人物で、スヌープ・ドッグやビーフ相手のドレーにまで影響を与えたとされています。彼の所属していたN.W.Aを題材にした映画「ストレイト・アウタ・コンプトンの劇中には、彼が所属していた際の楽曲でありクルーのファースト・アルバムに収録されている「Boyz-N-The-Hood」が流れているシーンがあります。ヒップホップ好きならぜひこの映画は観ていただきたいです。
96年[編集]
- 2Pac
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- 死去:9月13日
- 2Pac(トゥー・パック)はアメリカ西海岸で活躍したラッパーで、ヒップホップカルチャーに最も影響を与えたアーティストの1人です。現在もサンプリングなどを通して世界中で人気で、筆者も彼の曲「Changes」で生まれて初めてヒップホップを知りました。92年にソロデビューし、ドクター・ドレーがフューチャリングした「California Love」や、「Dear Mama」、「Life Goes On」など、異常な速さで数多くのヒット曲を出しました。そんな彼は94年に何者かによって腕などに5発被弾し、その場にパフ・ダディーとノトーリアス・B.I.Gが居合わせたことから彼らのレーベルBad Boy Recordが大きく関与していると疑われ、西海岸のトゥー・パックと東海岸のビギー(ノトーリアス・B.I.Gの通称)とでビーフになりました。この際に彼がディスとして出した楽曲「Hit 'Em Up」は代表曲の一つです。彼らのビーフが終結しないまま96年9月13日にトゥー・パックはラスベガスで何者かによって銃撃を受け、4発被弾し25歳という若さで亡くなりました。犯人は2023年に逮捕されています。その後97年にはビギーも何者かによって銃撃を受けて死亡しました。
97年[編集]
- Notorious B.I.G.
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- 死去:3月9日
- Notorious B.I.G.(ノトーリアス・B.I.G)はアメリカ東海岸で活躍したラッパーです。2Pacと同じようにヒップホップに対し最も影響を与えたアーティストの1人になります。ペンネーム「B.I.G」からも分かるようにかなり大柄で、体重は136kgです。力士だと大関の安青錦や関脇の若隆景と同じくらいの重さになります。幼少期からストリートで育ち、薬物の売人として青年期を過ごします。ビギー名義では93年にデビューし、94年のデビューアルバムに収録されている「Big Poppa」はYouTubeで5.7億回再生と、死後のアップロードではありますが当時の楽曲としては驚異的な再生数を誇っています。先ほど述べたように94年から2Pacとのビーフが白熱し、2Pacのディスに対しビギーは「Who Shot Ya」でアンサーしています。こちらも代表曲です。97年にLAでのライブのアフターパティー後に、何者かによって銃撃され死去しました。
99年[編集]
- Big L
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- 死去:2月15日
- Big L(ビッグ・エル)はアメリカ東海岸のラッパーで、当時のヒップホップカルチャーの中でもかなり影響力を誇っていたアーティストでした。1995年のアルバム「Lifestyles ov da Poor & Dangerous」でデビューし、当時無名だったJAY-Zを客演に迎えた「7 Minutes Freestyle」やその他有名プロデューサーとコラボした事で話題になっていました。しかしやっと頭角を表し始め期待と希望に満ち溢れていく最中、彼は2月15日に銃撃によって24歳の若さで亡くなります。原因ははっきりしていませんが、薬物に関するトラブルなど色々な説があるようです。
2000年代[編集]
04年[編集]
- Mac Dre
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- 死去:11月1日
- Mac Dre(マック・ドレー)はカリフォルニア州ベイエリア出身のラッパーで、ベイエリア発祥のヒップホップジャンル「ハイフィー」の発展に貢献した人物です。ハイフィーはその名の通りテンションが高いことを意味する「ハイ」が語源で、エレクトロをベースとした電子音のループが特徴になっています。歴史が浅く多くのヘッズにも定着していないサブジャンルではありますが、ドレーはその「ハイフィー」が成立する土台を作った才能の塊のような人物でした。彼は11月1日に車の運転中に何者かによって銃撃を受け、亡くなりました。もし亡くなっていなかった場合、ハイフィーは大きな成長を遂げていたかもしれません。
- Ol' Dirty Bastard
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- 死去:11月13日
- Ol' Dirty Bastard(オール・ダーティー・バスタード、通称ODB)はアメリカ東海岸出身のラッパーで、マライア・キャリーとも共演した事のあるラッパーです。95年に「Return To The 36 Chambers」でデビュー後急速に名を上げていった期待の新人でしたが、03年にロカ・フェラ・レコードと契約後にドラッグを過剰摂取し始め、翌年11月13日に後遺症で亡くなりました。
- TOKONA-X
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- 死去:11月22日
- TOKONA-X(トコナ・エックス)は神奈川県横浜市生まれ愛知県常滑市育ちのラッパーで、AK-69や般若などと同世代です。愛知に移住する前から不良の番長だったようで、OZROSAURUSのMACCHOは隣町に住んでいましたが彼はとても有名だったと話しているそうです。移住後にレコードショップでヒップホップと出会い、17歳ごろから本格的に音楽活動を始めます。デモテープの頃から他のラッパーとはスキルが段違いと話題になっていたようで、96年にはMaster Of Skillz(後のM.O.S.A.D)を結成し、98年にはアメリカのメジャーレーベル「Def Jam」と契約を結ぶことになるほど著名になりました。Def JamはKanye WestやNas、後にAK-69も契約することになる超大手レーベルで、当時日本人のオファーは3人目でした。同じ愛知県出身のAK-69とも交流があったようです。04年の1月にファーストアルバム「トウカイxテイオー」シングル「知らざあ言って聞かせやSHOW」をリリース、オリコンでは84位を獲得し今後の日本語ラップシーンに火を灯す存在として期待されていましたが、8月のライブの後に車内で倒れているのが見つかり救急搬送され、熱中症での体力低下により心肺が停止し、同年11月22日に26歳で亡くなりました。TOKONA-Xが日本語ラップに与えた影響は大きく、死去から8年後の2013年10月には廃盤となっていたシングル「知らざあ言って聞かせやSHOW」と「Who are you?」が再販され、後者はT-Pablowなどにもフューチャリングされた日本語ラップ界の中で最も重要な楽曲の一つとなりました。
07年[編集]
- Pimp C
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- 死去:12月4日
- Pimp C(ピンプ・C)はルイジアナ州出身のラッパーで、サザン・ラップの土台を作ったクルー「UGK」のメンバーです。また、ヒップホップ用語で本物を意味する「TRILL」という言葉を作った事でも有名です。1987年にデビューした彼は1992年にジャイヴ・レコードと契約した後、同年にUGKのアルバム「Too Hard to Swallow」がアメリカのヒップホップアルバムチャートで37位にランクインした事で有名になります。2002年からソロ活動も開始し、さらに2007年8月7日にはUGKの5thアルバム「Underground Kingz」がビルボードチャートとヒップホップアルバムチャートで1位にランクインした事で、UGKのみならずピンプ・Cの名はアメリカ全土のヘッズに知られる事になりましたが、約4ヶ月後にコデインの過剰摂取で33歳の若さで亡くなりました。