近藤隼雄

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

近藤隼雄(こんどうはやお、1834年(天保5年)-)は幕末の新選組の隊士である。

経歴[編集]

江戸幕府旗本の井伊谷近藤家の父・近藤是用、母・近藤三輪の長男として、1834年(天保5年)に生まれた[1]。近藤家は金指(現静岡県浜松市)を本家とする分家4家筆頭の家柄で、井伊谷5000石の石高であった。父は大御番を勤め、二條城在番頭であっが、1862年(文久2年)の土佐藩過激派による暗殺騒動の責任を取らされ、お役御免となる。 近藤隼雄は当初、幼名・近藤隼人であった。安政頃に結婚して1857年に長男の近藤彦九郎(慎用)が生まれている。1865年に家督を継いだ。新選組の近藤芳助(芳輔)とは遠縁の親戚であり、兄弟ではない。

甲陽鎮撫隊[編集]

近藤勇改め大久保大和が引き入る甲陽鎮撫隊は、五兵衛新田(現 足立区綾瀬)[2]幕府歩兵隊を率いていた近藤隼雄と合流した。証拠としては、金子家文書「覚」に大久保大和(近藤勇)、土方歳三近藤芳輔、近藤隼雄の名前が記載されている[1]。大久保大和が捕らえられた後は、白河を経て会津に向かい、新選組が約130名で再結成された。会津で藩主の松平容保に4月5日に拝謁し、隊長は斎藤一(山口次郎)、近藤隼雄は「歩兵指図役頭取改兼帯」の役職であった。日野市土方家所蔵「新撰組同志名簿」に「辰閏四月廿七日大谷地村ニ而戦手負、軍目 島田魁、歩兵頭取 近藤隼雄」とある。近藤隼雄らは「新遊撃隊」と隊名を変更し、[仙台]]で政府軍に投降した。

明治以後[編集]

近藤隼雄は明治維新後は「静岡藩御預」の謹慎処分を受けた。1870年(明治3年)に謹慎が解け、木挽町の自宅に戻った。その後、木挽町から神田猿楽町1丁目6番地に移転した[1]。翌年、近藤隼雄を「近藤是用」に改めた。学区中総代を務め、1878年(明治10年)自宅を区立明十学校に自宅用地を提供した<ref name=asakura></ref>。 その後小石川区諏訪町から1883年に牛込区東五軒町35番地に移転した。川村文書に隼雄あての「近藤勇書簡」が残る。近藤隼雄は1887年から1889年の間に逝去したようである[1]

人物評[編集]

参考文献・注[編集]

  1. a b c d あさくらゆう(2009)『慶應四年新撰組隊士伝』崙書房
  2. 近世初頭に金子五兵衛家直により元和年間(1615年―1624年)頃に開拓された