潜水母艦「迅鯨」
迅鯨(じんげい)は、日本海軍の潜水母艦であり、同型艦の長鯨とともにそのネームシップである。日本海軍初の潜水母艦として設計・建造され、潜水戦隊旗艦として運用された。
概要[編集]
迅鯨は、ワシントン海軍軍縮条約締結後の1920年代に、潜水艦部隊の行動範囲拡大と運用効率向上を目的として計画された。それまでの潜水艦は、基地からの行動が主であり、遠隔地での整備や補給に制約があった。そこで、潜水艦の洋上拠点となる専門の艦艇として潜水母艦の建造が決定された。
迅鯨は三菱長崎造船所で建造され、1923年(大正12年)8月30日に竣工した。排水量約8,500トン、速力18ノットを有し、多数の潜水艦乗員を収容できる居住設備、魚雷や真水、燃料の補給設備、修理工場などを備えていた。また、潜水戦隊司令部を収容する旗艦設備も有しており、潜水部隊の作戦行動を統括する役割も担った。
艦歴[編集]
竣工後、迅鯨は主に第一潜水戦隊、第二潜水戦隊の旗艦として、訓練や演習に従事した。1930年代に入ると、日本海軍の潜水艦部隊は拡充され、迅鯨はその中核として重要な役割を果たした。特に、日中戦争においては、中国沿岸での作戦行動を支援した。
太平洋戦争開戦後は、主に南西方面の戦域において、潜水艦部隊の支援任務に就いた。しかし、戦局が悪化するにつれて、その巨体と低速が仇となり、敵潜水艦や航空機からの攻撃目標となりやすくなった。このため、主として後方での補給・修理任務に回ることが多くなった。
1944年(昭和19年)以降は、戦局の悪化に伴い、特設運送艦や工作艦としての任務に就くこともあった。度重なる損傷を受けながらも、終戦まで生き残った数少ない大型艦の一隻となった。
終戦後、1945年(昭和20年)10月29日にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)により武装解除および解体が指示され、その艦齢を終えた。
特徴[編集]
迅鯨は、潜水母艦としての機能に特化した設計がなされていた。その大きな特徴としては、以下の点が挙げられる。
- 充実した居住設備:多数の潜水艦乗員を収容できるよう、従来の軍艦にはない広々とした居住スペースが確保されていた。
- 補給能力:魚雷、真水、燃料といった潜水艦が洋上で必要とする物資を大量に搭載・補給する能力を有していた。
- 修理能力:小規模な損傷であれば洋上で修理できるよう、工作機械や各種工具を備えた修理工場を有していた。
- 旗艦設備:潜水戦隊司令部を収容する司令部室や通信設備を備え、潜水部隊の指揮・統制を担った。
これらの特徴により、迅鯨は日本海軍の潜水艦部隊の行動範囲と持続性を飛躍的に向上させることに貢献した。
豆知識[編集]
- 迅鯨という艦名は、文字通り「素早い鯨」を意味し、潜水艦を従える母艦にふさわしい名前として命名された。
- 竣工当初は、水上機を搭載する設備も検討されたが、最終的には見送られた。
- 太平洋戦争中には、何度か空襲や魚雷攻撃を受けたが、その度に修理され、驚異的な生命力を見せた。