豊川海軍工廠

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豊川海軍工廠(とよかわかいぐんこうしょう)とは、愛知県豊川市(開設時は宝飯郡豊川町、牛久保町、八幡村に跨る地)にあった大日本帝国海軍の工廠である。

概要[編集]

主に機銃・弾丸の製造を行っており、東海地区だけでなく東陽随一の規模とされた。
計画段階では豊川町などの他、海軍鈴鹿航空隊に近いという利点があった三重県の河芸郡(現・鈴鹿市)も候補に挙げられていたが、河芸郡は予定地の起伏が嫌われてた一方、豊川町などは姫街道沿いながら、本野ケ原と呼ばれた広大な森林が広がった未開発の地だったため選ばれたという経緯がある。

最盛期には5万人以上の人間が勤務して月産450万発以上の弾薬を製造し、周辺に寄宿舎が10箇所以上設置された他、工員輸送のため国府から名鉄豊川市内線が建設された。
生産品の搬出のため、既存の姫街道(本坂通)を拡張し、新たに豊橋市へ抜ける県道が敷設された。更に専用鉄道も引き込まれ、工廠近辺に西豊川駅が設置された。
工廠は完工時2町1村に跨ったため行政上の要請で合併し、1943年(昭和18年)に豊川市が誕生した。

空襲

1945年(昭和20年)8月7日午前、アメリカ軍のB-29による大規模な空襲を受け、工廠は壊滅した。空襲による犠牲者は少なくとも2,500人に上った。空襲によって壊滅した工廠は機能を停止し、同年10月に廃止された。

跡地[編集]

戦後直後は、焼け残った寄宿舎なとが活用され、空襲被害を受けた岡崎市から官立岡崎高等師範や愛知第二師範が移転し、岡崎高等師範は戦後の学制改革で名古屋大学豊川分校となったが、まもなく瑞穂区の瑞穂分校(のちの教養部)に合併されている。
1950年代には跡地の一部が日本国有鉄道に払い下げられ、浜松工場豊川分工場が設置された。国鉄豊川分工場は1963年(昭和38年)に廃止され、日本車輌製造の鉄道車両工場となって今に至っている。
工員や原料・生産品の輸送に用いられていた専用鉄道も日本車輌の専用鉄道として健在である。また日本車輌の正門は海軍工廠の正門跡に位置している。

1950年(昭和25年)には現在の自衛隊の前身となる警察予備隊が発足し、同時に第61連隊が駐屯を開始。3年後の1953年には千葉県から保安隊第500建設群が移駐し、後に陸上自衛隊豊川駐屯地となって今に至っている。

その他工廠跡地は広大な平地という地形を活かし、新東工業旭テック熊谷組など複数の民間企業の工場が立地する工業団地となっている他、名古屋大学太陽地球環境研究所の太陽風観測施設も立地している。

2018年(平成30年)、名古屋大学が研究施設の敷地の一部を提供し豊川海軍工廠平和公園が開園した。毎年空襲のあった8月7日には慰霊祭と見学会が開かれる。2月終わり頃の日曜日にも見学会が行われ、夏の見学会に比べてより深い部分まで見ることが出来るという。

関連項目[編集]

  • 林家彦六 - 長男が豊川海軍工廠で勤務しており、空襲の犠牲となった。
  • 黒部の太陽 - 出水シーンは豊川の熊谷組で作られたセットで撮影された。