織田信治
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| 織田 信治 おだ のぶはる | |
|---|---|
| 改名 | 九郎(通称) |
| 名の由来 | |
| 性別 | 男性 |
| 時代 | 戦国時代 |
| 生年月日 | 天文14年(1544年) |
| 没年月日 | 元亀元年9月19日(1570年10月19日) |
| 死没地 | 近江・宇佐山城付近 |
| 死因 | 戦死 |
| 国籍 |
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| 武器 | |
| 口癖 | |
| 名ゼリフ | |
| 子供 | 柘植正俊 |
| 親 | 父:織田信秀、母:不詳 |
| 家族構成 | 信広、信長、信行、信包、信治、信時、信興、秀孝、秀成、信照、長益、長利、お犬の方(佐治信方室→細川昭元室)、お市の方(浅井長政継室→柴田勝家室) |
| 補足 | 織田信長の弟 |
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織田 信治(おだ のぶはる)は、戦国時代の武将。織田氏の一族で家臣。織田信長の弟。尾張野夫城主[1]。
生涯[編集]
織田信秀の5男、あるいは7男とされる。諸系図などでは5男とされている。通称は九郎[1]。
『寛永譜』『系図簒要』では尾張野夫城主と記録され、現在の野府のことと見られ、現在の尾西市開明町の開明小学校の敷地が信治の城だったと見られる[1]。
兄の信長に仕え、元亀元年(1570年)6月に浅井長政の近江小谷城や横山城攻めに参加する。9月に信長が主力を率いて摂津に出陣している隙を突かれて浅井長政・朝倉義景の連合軍に宇佐山城を攻められ、森可成らと共にわずかな軍勢で防ぐも遂に戦死した(宇佐山城の戦い)。享年26といわれる[1]。
子は伊賀出身の柘植氏の養子となり、柘植正俊と名乗って江戸幕府の旗本となった[1]。
脚注[編集]
参考文献[編集]