紡績

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紡績(ぼうせき)とは、繊維の状態に変える(糸を紡ぐ)こと。広義ではカイコワタ(綿花)、アサなどの繊維を紡いで糸にすることを指すが、狭義ではそのうち綿花に対するものを意味する。また、それを主とした産業を、軽工業のうちの紡績業(ぼうせきぎょう)という。

カイコの繭に対する特称については、製糸を参照されたい。

歴史[編集]

発展[編集]

紡績は西暦紀元の開始よりはるか前、約二万年以上前から行われてきたとされており、ホモ・サピエンス(新人)の原始産業のひとつであった。かつては手と簡単な道具のみによって糸を紡いでいたが、10世紀糸車が発明されると中国中東インドヨーロッパへと広がっていった。

のちに、ヨーロッパの英国では綿織物の人気が上昇し、その需要に応えるため紡績機が誕生した。この紡績機によって効率は各段に上昇し、綿花の紡績がより盛んとなり、さらには産業革命にも大きな刺激を与えた。さらなる効率を求めるために紡績機は巨大化していき、手を動力とすることができなくなったため、水力を用いた紡績機も登場した。

日本では[編集]

日本においても、開国後の明治時代に訪れた文明開化において紡績業が重要視され、世界恐慌前は日本の主要な輸出品目であった。1867年慶応3年)5月には薩摩藩が日本初の紡績工場として鹿児島紡績所が開設され、1872年明治5年)11月4日には、日本で初の官営模範工場として富岡製糸場が設立されるなど、明治期のその勢いは大きかった。

日本全国で紡績業が盛んとなった背景には、各国の・地域でもとから綿花栽培が盛んであったことによる。例えば畿内大坂周辺では、江戸時代に行われた大和川の河道変更工事により、当時から平野郷などの旧大和川流域で綿花栽培が盛んであったことが大きく影響している。日本全国で誕生した紡績会社はその後統合に進んでいき、尼崎紡績平野紡績との合同による摂津紡績を中心とし、最終的には大日本紡績(現在のユニチカ)や日本綿花などの大企業が誕生した。

このころの日本は英国(インド)と熾烈な紡績業競争を繰り広げていたが、結局は安価なインド綿に駆逐された。現在の日本では、ユニチカが繊維業・紡績業から撤退するなど、紡績業は衰退の一途をたどっている。