江戸城
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江戸城(えどじょう)は室町時代から江戸時代まで江戸(現在の東京都)に存在した城郭である。現在は皇居となっている。
概要[編集]
日本100名城の一つである。室町時代の扇谷上杉家の重臣太田道灌によって1457年(康正2年)に築かれた。その頃は石垣はなく、土塁の城であった。子城、中城、外城と三重構造で、外濠も作られた。さらに太田道灌は現在も残る日枝神社、平河天満宮などを江戸城の周囲に造営した[1]。城下町も発達していたが、太田道灌は1486年、主君の扇谷上杉定正の刺客である曽我兵庫に暗殺された。 上杉定正・上杉朝良・上杉朝興の三代の間、江戸城は小田原城の支城のひとつになり、江戸城はさびれた。
江戸時代[編集]
北条氏が豊臣秀吉に滅されたあと、1590年(天正18年)に「徳川家康」が江戸城に入城し、再び活気を取り戻す。家康は江戸城の改修工事を計画し、天下普請により全国の大名を召集し、改修工事を行った。築城の名手藤堂高虎が江戸城の設計を行い、加藤清正、福島政則らが土木工事を担当した。江戸城は当時の日本で最大規模の城となった[2]。
江戸無血開城[編集]
江戸城無血開城は、幕府側の勝海舟と新政府側の司令官西郷隆盛の会談により1868年、江戸城を平和的に明け渡した出来事である。勝海舟は、幕府のためではなく、江戸城と周辺に暮らす庶民の命を守ることを最優先とし、西郷と談判した。いきさつは1868年3月9日、勝海舟の使者として山岡鉄舟が駿府にいた東征軍参謀の西郷隆盛と会見し下話をした。3月12日には勝海舟は池上本門寺の新政府軍本営に来た西郷を訪れ会談を行った。翌日には高輪にあった薩摩藩下屋敷で両者は会談した。江戸総攻撃の前日の14日、薩摩藩蔵屋敷(田町)で両者は三度目の会談(最終会談)をし、 江戸の総攻撃中止が決定した。
脚注[編集]
- ↑ 太田道灌の登場と江戸城
- ↑ 千田嘉博(1993)「集大成としての江戸城」国立歴史民俗博物館研究報告 50,pp.239-260