春秋時代

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春秋時代(しゅんじゅうじだい)は、中国古代の時代区分の一つ。周王室が洛邑(現在の洛陽)へ都を移した紀元前770年に始まるとされ、東周の前半にあたる。後続の戦国時代と合わせて春秋戦国時代と呼ばれる。周王室の力が衰え、有力な諸侯が争った時代である[1]。

名称と時代区分[編集]

名称は、魯の年代記である『春秋』に由来する。同書が記す期間は紀元前722年から紀元前481年までだが、時代名としての「春秋時代」はその前後も含む。

戦国時代との境界には諸説がある。晋の有力氏族であった韓・魏・趙の三氏が諸侯として認められた紀元前403年を区切りとする説や、三氏が晋を事実上分割するに至った紀元前453年を区切りとする説などがある[1]。

歴史[編集]

周王室の衰退と覇者[編集]

周王室の東遷後、各地の諸侯は周王を尊ぶという建前を保ちつつ、同盟や戦争によって勢力を広げた。周王を尊び、周辺の異民族を退けるという理念は「尊王攘夷」と呼ばれる[1]。

諸侯の同盟の中心となった有力な君主を覇者といい、諸侯が集まって盟約を結ぶ儀式を会盟という。斉の桓公や晋の文公は、代表的な覇者として知られる。

こうした君主のうち、後世に代表的な五人を挙げた呼び名が春秋の五覇である。斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉の闔閭、越の勾践を挙げる説があるが、呉・越の二人に代えて秦の穆公と宋の襄公を入れるなど、誰を五覇とするかは一定していない[2]。

呉と越の争い[編集]

後期には、長江下流域の呉や越も勢力を伸ばした。呉では闔閭とその子の夫差が越と戦い、最終的に紀元前473年、越王勾践が呉を滅ぼした[3]。

戦国時代への移行[編集]

諸侯の国の内部でも、有力な家臣である卿大夫が力を持ち、従来の身分秩序や礼制が揺らいだ[4]。

晋では、紀元前453年に韓・魏・趙の三氏が智氏を滅ぼし、実権を分け合った。紀元前403年には三氏が諸侯として認められ、韓・魏・趙が成立した。この晋の分裂は三家分晋と呼ばれ、戦国時代への移行を示す出来事とされる[5]。

社会と文化[編集]

春秋時代は、周以来の身分秩序が変化する一方、工芸や生産技術も発達した時代である。各地の墓からは、青銅製の礼器や楽器、玉器などが出土しており、貴族の生活や地域ごとの工芸の特色を知る手がかりとなっている[4]。

春秋時代には製鉄技術が知られるようになり、続く戦国時代には鉄器の生産と農業での使用が広がった。また、春秋戦国時代を通じて都市や商業が発展し、各国で金属貨幣が鋳造されるようになった[6]。

思想史では、春秋時代末期に魯の孔子が活動した。孔子は仁や礼を重んじ、弟子たちへの教育を行った。その教えは後世の儒家・儒教の基礎となり、言行は『論語』などに伝えられている[7]。

脚注[編集]

  1. ↑ a b c 春秋時代 コトバンク(『デジタル大辞泉』『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ほか)、2026年10月22日閲覧。
  2. ↑ 春秋五覇 コトバンク(『日本大百科全書』)、2026年10月22日閲覧。
  3. ↑ 呉(ご) Historist(山川出版社『山川 世界史小辞典 改訂新版』)、2026年10月22日閲覧。
  4. ↑ a b 東周文化 中央研究院歴史語言研究所歴史文物陳列館、2026年10月22日閲覧。
  5. ↑ 三晋 コトバンク(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ほか)、2026年10月22日閲覧。
  6. ↑ 古代中国・春秋戦国時期 中国国家博物館、2026年10月22日閲覧。
  7. ↑ 孔子 コトバンク(『日本大百科全書』ほか)、2026年10月22日閲覧。

関連項目[編集]