孔子
孔子(こうし、紀元前551年ごろ - 紀元前479年)は、中国の春秋時代末期の思想家・教育者。儒家の祖とされる。名は丘(きゅう)、字は仲尼(ちゅうじ)。「孔子」の「子」は尊称である。魯の出身で、生年を紀元前552年とする説もある[1]。
生涯[編集]
魯は現在の山東省曲阜付近にあった国である。孔子が生きた時代には、周王朝の権威が衰え、諸侯や有力な家臣が争っていた。孔子は周の文化や制度を学び、周公旦を理想の人物として尊敬した。
魯で官職に就いたのち、政治改革に失敗して国を離れ、衛・陳・蔡・楚などの国々を訪れたとされる。諸侯に自らの政治理念を説いたが、その実現には至らなかった。晩年は魯に戻り、弟子の教育に力を注いだ[2]。
思想[編集]
仁と礼[編集]
孔子の思想では、仁と礼が重要な位置を占める。仁は他者への配慮や人間としての徳に関わる考え方であり、礼には祭祀の作法や人間関係を整える行動の規範が含まれる。孔子は、礼や音楽の実践を通じて人の心や振る舞いを育てることを重んじた[3]。
『論語』の衛霊公篇には、子貢から生涯にわたって実践できる一言を尋ねられ、「恕」と答える問答がある。その説明として挙げられるのが「己の欲せざる所は、人に施すこと勿かれ」で、自分が受けたくない扱いを他人にもしない、という教えである[4]。
徳による政治[編集]
政治では、為政者が自ら徳を身につけ、礼と道徳によって人々を導くことを理想とした。このような考え方は徳治と呼ばれる。また、親への孝行や兄弟の間の敬愛など、身近な人間関係における徳を重視した[1]。
弟子と資料[編集]
弟子には顔回・子路・子貢らが知られる。孔子や弟子たちの言行を伝える代表的な書物が『論語』であり、孔子の死後、弟子やその後継者たちによって編まれたとされる[1]。
孔子の生涯は、司馬遷の『史記』「孔子世家」などにも記されている。ただし、これらの記録には後世に成立した伝承が含まれ、官歴や逸話の細部には資料による違いがある[3]。『詩経』『書経』などの古典を孔子が整理したという伝承もあるが、本人がどこまで関わったかは議論されている[1]。
後世への影響[編集]
孔子は後世に聖人として尊ばれ、その思想は儒教・儒学の伝統の中心となった。儒教は中国の政治・教育・倫理に深く関わり、朝鮮・日本・ベトナムなどにも影響を与えた。
曲阜には孔子をまつる孔廟、孔子とその子孫の墓地である孔林、子孫の住居であった孔府があり、合わせて「三孔」と呼ばれる。これらは1994年に「曲阜の孔廟、孔林、孔府」として世界遺産に登録された[5]。
日本にも孔子をまつる施設があり、東京都の湯島聖堂はその一つである。孔子をまつる祭祀は釈奠(せきてん)と呼ばれる[6]。
脚注[編集]
- ↑ a b c d 孔子 コトバンク(『日本大百科全書』ほか)、2026年10月22日閲覧。
- ↑ 孔子(こうし) Historist(山川出版社『山川 世界史小辞典 改訂新版』)、2026年10月22日閲覧。
- ↑ a b Mark Csikszentmihalyi, Confucius, Stanford Encyclopedia of Philosophy、2026年10月22日閲覧。
- ↑ 衛霊公第十五 23 子貢問曰有一言而可以終身行之者乎章 Web漢文大系、2026年10月22日閲覧。
- ↑ Temple and Cemetery of Confucius and the Kong Family Mansion in Qufu UNESCO World Heritage Centre、2026年10月22日閲覧。
- ↑ 大成殿に祀られているもの 公益財団法人斯文会、2026年10月22日閲覧。