建物疎開
建物疎開(たてものそかい)とは、第二次世界大戦中の日本で行われていた作業で、空襲で発生する火災の延焼を防ぐ目的(防火帯を作り出す目的)で、建物を取り壊して空間をつくっておく作業のこと[1][2]。
概要[編集]
日本では、1937年(昭和12年)に防空法が定められ、空襲に備そなえて、各地域、工場、官庁ごとに組織された防空組織で、待避訓練、バケツリレーといった消火訓練が行われるようになった[1]。
1942年には、10府県に建築禁止・制限の区域が指定され、建物の疎開作業が始まった[3]。
各地の状況例[編集]
東京都港区[編集]
1943年3月には、現在の東京都港区に含まれる芝区、麻布区、赤坂区などあわせて1万8000坪が防空空地の対象として指定された[3]。
同年9月には、上述の指定では不足であると、官庁舎の疎開方針が出され、同年10月には重要工場周辺や企業整理で不要となる建築物、勧奨などにより転出する会社や個人の住居などを対象として疎開・転出を進めることが定められた[3]。同年12月には「都市疎開実施要項」が閣議決定されたため、東京都区部は疎開実施の対象地区に指定され、建物疎開を施設疎開(学校、団体、工場などを統合整理し地方に転出させる)と、建築物疎開とに分類し、指定地区内の建築物は除去することが定められた[3]。
1945年1月26日には、「内務省告示第18号」によって第一次強制疎開の対象地区が指定されて、同年2月1日には渋谷駅前の密集地帯十数軒の取り壊しが開始されるようになり、同年2月15日には、都区内でのあらゆる新築・増築が禁止となった[3]。
同年3月10日の東京大空襲もあり、3月中には第6次強制疎開が実施されることになった[4]。
港区での補償・援助[編集]
芝区、麻布区、赤坂区についての建物疎開事業に関する行政資料は膨大に残されているが、全体を照合できる状況にないため、残存状況は正確に把握されていない[5]。
建物本体の価格の補償が行われており、店舗の場合は商品の補償も行われた[5]。移転費用や立退料が、東京都疎開事業損失補償審査委員会による査定額に基づいて審査・決定され、承諾書も交わされている[5]。
疎開地区に指定された範囲の建物には1棟ずつ「建物調査票」が作成され、調査票の申告内容に基づいて、建物価格の査定が行われた[5]。世帯ごとに「疎開地区居住者調査票」も作成されている[5]。
縁故による地方への移転が奨励されてはいあたが、職業の都合上で難しい場合は、住宅が優先的に斡旋される制度もあった[5]。
しかしながら、永井荷風の日記『断腸亭日乗』の昭和19年7月13日には、麻布区霞町で疎開の対象に指定されたアパートの家主は、25万円での売却を検討していたところ、補償額が5万円と宣告され、家主が「驚愕のあまり発狂」したと記されており、補償額が歓迎される金額ではなかったことも推測される[5]。
広島市[編集]
広島県広島市では、1944年(昭和19年)11月に告示が出され、建物疎開が開始されるようになった[1]、
1944年末から1945年8月にかけて、6次に渡って建物疎開が行われた[1]。最後となる第6次建物疎開では地区特設警備隊、地域・職域国民義勇隊、学校報国隊などによる大規模な動員が行われ、作業に従事した[1]。
第6次建物疎開作業期間中となるの1945年8月6日には、現在の平和大通り一帯に防火地帯を作る目的で大規模な建物疎開作業が実施予定されており、当時の国民学校高等科や中等学校1・2年生を中心とする多くの生徒たちが作業に従事するために動員されていた[1]。このため同日午前8時15分(日本時間)に行われた広島市への原子爆弾投下では多くの犠牲者を生むことになった[1]。広島の動員学徒の原爆死亡者は約7200人であるが、この内の82%が建物疎開作業の従事者であった[1]。
原爆が落ちたあとの広島市内において、建物疎開によって作られた空き地が、避難路の役割を果たしていたことも指摘されるが、上述のように作業従事者に多くの被爆被害者を出した事実である[2]。