山口二矢
七生報国 天皇陛下万歳(留置場の壁に書いた遺書より)
山口 二矢(やまぐち おとや、1943年2月22日 - 1960年11月2日)とは、日本の右翼活動家である。
生い立ち[編集]
1943年に会社員(戦後に陸上自衛隊へ入隊)の父と大衆作家村上浪六の三女夫妻の二男として出生。名前は父が姓名判断で、「二の字に縁が多い」と言われたことに由来する。学生時代は家庭の事情で全国を転々としており、友人は少なかった。右翼活動に身を投じていた兄に影響され1959年5月に大日本愛国党へ入党。党総裁の赤尾敏の演説に対して野次を飛ばす者に殴りかかっていくなど左派の集会解散と右派人士保護を積極的に行っており、入党から半年の間に10回検挙されている。しかし、翌年に考えの違いから愛国党を脱退した。
1960年6月17日、日本社会党(現・社会民主党)顧問の河上丈太郎が衆議院議員面会所で右翼青年に右肩を刺され負傷する事件が発生。この事件に対し、山口は「自分を犠牲にして売国奴河上を刺したことは、本当に国を思っての純粋な気持ちでやったのだと思い、敬服した。私がやる時には殺害するという徹底した方法でやらなくてはならぬ」と強い感銘を受ける。
同年10月4日頃に父親が護身用として持っていた脇差を自宅で見つけたことにより事件を起こすことを決意。直後に明治神宮を参拝し、小林武日教組委員長、野坂参三日本共産党議長宅に面会客を装って電話したが双方とも留守にしており襲撃には失敗。その後、10月12日に東京都千代田区の日比谷公会堂で開催される自民党・社会党・民社党の3党首立会で日本社会党委員長として演説を行う予定だった浅沼稲次郎を殺害する計画を立てた。
浅沼稲次郎刺殺事件[編集]
10月12日午後3時頃に登壇した浅沼は「議会主義の擁護」を訴える演説を行なっていた。演説を始めて5分程が経過した所で山口はステージ上へ乱入し、浅沼を正面から襲った。持っていた脇差でまず浅沼の左脇腹を深く、次に左胸を浅く突き刺したが一度目の刺突で大動脈を切断しており、浅沼は内出血による出血多量で死亡した。なお、この立会演説会にはNHKが共催として参画しており事件の一部始終が映像として残されている。山口はその場で自殺を試みるたが、駆けつけた警官によって現行犯逮捕された。事件当時は17歳で少年法 により実名非公開対象だったが、事件の重大性から実名での報道が行われた。なお、山口が所持していた斬奸状(犯行声明)の文面は次の通りである。
汝、浅沼稲次郎は日本赤化をはかっている。自分は、汝個人に恨みはないが、社会党の指導的立場にいる者としての責任と、訪中に際しての暴言と、国会乱入の直接のせん動者としての責任からして、汝を許しておくことはできない。ここに於て我、汝に対し天誅を下す。 皇紀二千六百二十年十月十二日 山口二矢。
最期[編集]
山口は未成年だったが、逮捕後の取調べに対し理路整然と受け答えしていたという。しかし、事件から3週間後の11月2日夜に収監されていた東京少年鑑別所の単独室の壁に白い歯磨き粉を溶いた液で「七生報国 天皇陛下万歳」と書き残した後、シーツを裂いて縄を作り首を吊って自死。右翼団体は山口をこぞって英雄視し、12月15日には事件現場となった日比谷公会堂で「烈士山口二矢君国民慰霊祭」と題した慰霊祭が執り行われた。また、かつて山口が所属していた大日本愛国党は現在でも祭壇に彼のデスマスクを祀っている。