八九式艦上攻撃機
八九式艦上攻撃機(はちきゅうしきかんじょうこうげきき)は、大日本帝国海軍が1930年代前半に運用した艦上攻撃機である。愛知航空機が開発した八七式艦上攻撃機の後継機として、広海軍工廠で開発・生産された。九〇式艦上攻撃機が実用化されるまでの繋ぎとして、限定的に運用された機体であり、制式採用から短期間で退役した。
開発と背景[編集]
大日本帝国海軍は、ワシントン海軍軍縮条約以降、限られた予算の中で航空戦力の強化を図っていた。その中で、空母運用の主力となる艦上機、特に魚雷攻撃や爆撃を行う艦上攻撃機の開発は喫緊の課題であった。八七式艦上攻撃機は、海軍初の全金属製単葉艦上攻撃機として期待されたが、性能面で満足のいくものではなかった。特に、搭載能力や速度性能、そして着艦時の安定性などに課題を抱えていた。
このような状況下で、海軍は1928年(昭和3年)に次期艦上攻撃機の開発を広海軍工廠に指示した。この新型機は、八七式艦上攻撃機の欠点を補いつつ、より高い性能を持つことが求められた。広海軍工廠は、八七式艦上攻撃機の経験を踏まえ、着実な性能向上を目指した設計を進めた。開発は比較的スムーズに進み、1929年(昭和4年)には試作機が完成、初飛行に成功した。
設計と特徴[編集]
八九式艦上攻撃機は、複葉機でありながら、従来の艦上攻撃機よりも洗練された設計が特徴であった。機体構造は、当時の艦上機としては一般的な金属骨格に羽布張りであった。主翼は、下翼を上翼よりも短くした異型複葉を採用しており、空母上での取り扱いやすさを考慮し、主翼は折りたたみ式であった。
エンジンには、当時の日本製航空機としては比較的高出力であった広廠「ひろ」式五号エンジン(水冷W型12気筒、公称600馬力)を搭載した。これにより、八七式艦上攻撃機よりも速度性能と上昇性能が向上した。武装は、機体下部に魚雷1本、または最大500kgの爆弾を搭載可能であった。防御武装として、後部座席に旋回機関銃1挺を装備していた。
着艦装置には、当時の艦上機で主流であったアレスターフックを装備し、空母への着艦に対応していた。全体的に、極端な新技術の採用よりも、既存技術の熟成と安定性、運用性を重視した堅実な設計がなされていた。
運用[編集]
八九式艦上攻撃機は、1931年(昭和6年)に「八九式艦上攻撃機」として制式採用された。しかし、採用された時点で既に、より高性能な九〇式艦上攻撃機の開発が進められており、八九式艦上攻撃機はあくまで繋ぎの機体として位置づけられた。
主な配備先は、航空隊や空母部隊であり、短期間ながらも訓練や演習に使用された。しかし、1932年(昭和7年)には九〇式艦上攻撃機が制式採用され、八九式艦上攻撃機は急速に後方任務へと回された。生産機数は約200機と、比較的少数に留まった。
実戦投入の機会は限定的であった。満州事変や第一次上海事変の際には、一部の機体が偵察任務などに使用された可能性が指摘されているが、本格的な戦闘行動に参加した記録はほとんどない。その短命な運用期間と、次世代機の早期登場により、日本海軍の航空戦力の中での存在感は薄いものとなった。
退役[編集]
八九式艦上攻撃機は、九〇式艦上攻撃機の配備が進むにつれて、順次退役していった。最終的には1937年(昭和12年)頃までには、全機が運用を終了したとされる。多くの機体は、老朽化や性能不足のため解体されたか、訓練標的として使用されたと考えられている。現存する機体は確認されていない。
豆知識[編集]
- 八九式艦上攻撃機の「八九式」という名称は、採用年の皇紀2589年に由来する。
- 本機は、広海軍工廠が航空機の設計・生産能力を有していたことを示す数少ない例の一つである。
- 短命な機体であったが、その開発経験は、後の日本海軍機、特に九六式艦上攻撃機などの設計に少なからず影響を与えた可能性がある。
関連項目[編集]
参考書籍[編集]
- 碇義朗『日本海軍航空隊史』光人社、1989年。
- 航空情報編集部『日本陸海軍機大図鑑』モデルアート社、1992年。
- 雑誌「丸」編集部『空母と艦載機』光人社、2000年。