小泉八雲

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小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者紀行文作家随筆家小説家日本研究家日本民俗学者である。元はイギリス人で本名をラフカディオ・ハーンという[1]

生涯[編集]

1850年にイギリス人の子としてギリシャサンタマウラ島で生まれる。13歳で左目を失明する[1]。19歳でアメリカに渡米して新聞記者となり、また外国文学の翻訳関係にも携わった[1]

その後、世界各地を巡歴して明治23年(1890年4月4日日本に来日し、島根県松江中学校英語教師となる[1]。さらに日本人を妻に迎えて自らの本名も小泉八雲と改め、日本に帰化した[1]。その後、松江から熊本県熊本第五高等学校に転任し、そして東京帝国大学に転任してイギリス文学の講師となり、早稲田大学の講師にもなった[1]。イギリス人だが、八雲は日本の風俗や思想を愛し、また日本の歴史に深い興味を持ち、多くの著作を著わして世界にそれを発表することで日本を世界に発信・紹介する一翼を担った[1]。著書に『東洋より』(1895年)、『こころ』(1890年)、『陰影』(1900年)がある[1]

明治36年(1903年)東京帝国大学を解雇、八雲の後任として夏目漱石第一高等学校教授と兼任する形で就任した[1]

明治37年(1904年)9月26日、心臓麻痺が原因で急死した[1]。享年55[1]

人物[編集]

16歳の時に遊具により左目の視力を失う。右目も強度近視で読書時は舐めるように本に近づけて読んでいた。

評価[編集]

  • 名作『怪談』などを著し、日本の知識人に多大な影響を与えたことで知られている。
  • 『君が代』や『古事記』などを英訳したバジル・ホール・チェンバレンはハーンの著作につき「間違った日本のイメージを西洋に広めている」と批判している。特に『Japan: An Attempt at Interpretation』は酷評している[2]
  • この1904年の著作『Japan: An Attempt at Interpretation』は矮小化された日本人像が西洋に伝わり、ダグラス・マッカーサーの軍事書記官・心理戦のチーフであったボナー・フェラーズは、太平洋戦争中、アメリカ合衆国の対日本心理戦で重要な役割を果たしたとしている。進駐軍の統治では「日本人幼児説」の根拠にもなり、日本を貶める政策に繋がった)[3]
  • ハーンは「東京は地獄」「熊本は野蛮人の棲む地」と述べ、東京帝国大学の教授たちの逆鱗に触れ解雇された。

親族[編集]

日本で娶ったセツとの間に3男1女。

曾孫は島根県立大学短期大学部名誉教授小泉凡

演じる俳優[編集]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k 『事典有名人の死亡診断 近代編』2010年、120頁
  2. Basil Hall Chamberlain『Things Japanese(1936年、6版)』「 Lafcadio Hearn」の章
  3. John W.Dower,Embracing Defeat,1999,page280-281、ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』、下巻、8ページ。岩波書店、2001年

参考文献[編集]

評価[編集]