ムスタファ・ケマル・アタテュルク

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ムスタファ・ケマル・アタテュルク
出生名 ムスタファ・レムズィ・エフェンディ
生誕地 サロニカオスマン帝国
没年月日 1938年11月10日(満57歳没)
死没地 ドルマバフチェ宮殿イスタンブールトルコ
国籍 オスマン帝国 → トルコ
民族 トルコ人
宗教 イスラム教(形式上)→世俗主義
職業 軍人政治家
役職 初代トルコ共和国大統領
政党 共和人民党
配偶者 ラティフェ・ウシャクルギル
子供 養子8人
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ムスタファ・ケマル・アタテュルクトルコ語: Mustafa Kemal Atatürk、1881年5月19日 - 1938年11月10日)は、トルコ共和国の建国の父であり、初代大統領(在任: 1923年 - 1938年)。旧称はムスタファ・ケマル。トルコ語で「父なるトルコ人」を意味する「アタテュルク」の称号で知られる。

オスマン帝国末期に軍人として頭角を現し、第一次世界大戦におけるガリポリの戦いなどで功績を挙げた。戦後、帝国が連合国によって解体されかけると、これに抵抗しトルコ革命を指導。トルコ独立戦争を戦い抜き、1922年オスマン帝国を滅亡させ、1923年トルコ共和国を樹立した。

大統領就任後は、イスラム的伝統を排し、世俗主義近代化を志向するケマリズムと呼ばれる改革を強力に推進した。その改革は、文字改革アラビア文字からラテン文字への移行)、女性の権利向上、政教分離教育改革など多岐にわたる。これらの改革によって、トルコは中東における近代国家としての地位を確立した。

生涯[編集]

生い立ちと教育[編集]

ムスタファ・ケマルは1881年、オスマン帝国のサロニカ(現在のギリシャテッサロニキ)で生まれた。父は材木商のアリー・ルザ・エフェンディ、母はズュベイデ・ハヌム。幼い頃に父を亡くし、母と叔父に育てられた。

幼少期から学問への強い意欲を示し、1893年にサロニカ陸軍幼年学校に入学。ここで優秀な成績を収め、数学教師から「ケマル」(完璧な、円熟した、の意)という名を与えられ、ムスタファ・ケマルとなる。その後、マナストゥル陸軍高等学校イスタンブール陸軍大学へと進み、1905年参謀将校として卒業した。

軍人としてのキャリア[編集]

卒業後、シリアダマスカスに配属され、青年トルコ人革命に参加。1908年青年トルコ人革命では、オスマン帝国憲政の復活に貢献した。

1911年からの伊土戦争では、リビアでイタリア軍と戦った。バルカン戦争にも従軍し、ブルガリアとの交渉にあたった。

第一次世界大戦[編集]

第一次世界大戦が勃発すると、ムスタファ・ケマルはガリポリの戦いにおいてオスマン軍の指揮官として活躍。イギリスフランスアンザック軍などの連合国軍を撃退し、「ガリポリの英雄」として国民的な名声を得た。

その後、東部戦線ロシア帝国軍と戦い、南シリア戦線イギリス軍と戦うなど、各地で軍功を挙げた。

トルコ独立戦争と共和国の樹立[編集]

1918年に第一次世界大戦が終結し、オスマン帝国は敗戦国となる。連合国はセーヴル条約を締結し、オスマン帝国を解体し分割しようと画策した。これに対し、ムスタファ・ケマルはアナトリアで抵抗運動を開始した。

1919年サムスンに上陸し、トルコ独立戦争を指導。エルズルム会議スィヴァス会議を経て、アンカラ大国民議会を設立し、国民政府を樹立した。

ギリシャ軍の侵攻や連合国軍との戦いを指揮し、1922年にはイズミルを奪還。これにより、独立戦争はトルコの勝利に終わった。

1922年11月1日、大国民議会はオスマン帝国スルタン制を廃止し、オスマン帝国は滅亡した。 1923年7月24日ローザンヌ条約が締結され、トルコの独立と領土が国際的に承認された。 そして、1923年10月29日、ムスタファ・ケマルはトルコ共和国の樹立を宣言し、初代大統領に就任した。

ケマリズム改革[編集]

大統領に就任したムスタファ・ケマルは、トルコを近代的な国民国家にするための大規模な改革を断行した。これらの改革は、後に「ケマリズム」(Atatürk İlkeleri、アタテュルクの原則)と呼ばれる世俗主義ナショナリズム共和主義国家主義人民主義改革主義の6原則に基づいている。

政治改革[編集]

社会・文化改革[編集]

経済改革[編集]

死去[編集]

ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、1938年11月10日肝硬変のためドルマバフチェ宮殿で死去した。57歳没。彼の遺体はアンカラアヌトゥカビル(Atatürk's Mausoleum)に埋葬されており、トルコ国民の敬愛を集めている。

豆知識[編集]

  • アタテュルクは非常に多読家で、特に歴史学哲学兵法に関する書物を好んだと言われる。
  • 彼が愛した飲み物はラキ(トルコの蒸留酒)とコーヒーであった。
  • アタテュルクはトルコ語の純化にも力を入れ、アラビア語ペルシア語からの借用語を排除し、純粋なトルコ語の使用を奨励した。
  • 彼はチェスを趣味としていた他、水泳乗馬も得意であった。
  • 晩年は自身の死期を悟っており、執務室から見える景色を眺めることを好んだという。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 林佳世子『オスマン帝国500年の真実』(講談社現代新書、2006年)
  • 大島直政『ムスタファ・ケマル・アタテュルク』(中公新書、1992年)
  • 新井政美『トルコ民族主義とケマル・アタテュルク』(講談社選書メチエ、2002年)