エーリッヒ・ヘープナー
エーリッヒ・ヘープナー(ドイツ語: Erich Hoepner, 1886年9月14日 - 1944年8月8日)は、ドイツ陸軍の軍人。第二次世界大戦における装甲部隊の指揮官として活躍したが、1944年の7月20日事件に関与したとして処刑された。最終階級は陸軍上級大将。
生涯[編集]
幼少期から第一次世界大戦まで[編集]
エーリッヒ・ヘープナーは1886年9月14日、ハノーファー近郊のフランクフルト・アン・デア・オーデルで生まれた。父は軍医であった。ヘープナーはプロイセン士官学校で教育を受け、1905年に少尉として任官した。
第一次世界大戦中は、主に西部戦線で勤務し、参謀将校としてのキャリアを積んだ。その功績により一級鉄十字章を受章している。
ヴァイマル共和政期[編集]
戦後、ヘープナーはヴァイマル共和国のReichsheerに残り、参謀本部のさまざまな部署で勤務した。この時期、彼は機甲戦の重要性をいち早く認識し、将来のドイツ陸軍における機甲部隊の発展に尽力した。特に、ハインツ・グデーリアンらと共に、機甲部隊の独立した運用に関する理論を構築した。
第二次世界大戦[編集]
ポーランド侵攻[編集]
1939年のポーランド侵攻では、第XVI自動車化軍団(XVI. Armeekorps (mot.))の司令官として参加した。彼の指揮する部隊は、電撃戦の概念を実践し、ポーランド軍の防衛線を突破し、迅速な進撃を見せた。この功績により、騎士鉄十字章を授与された。
フランス侵攻[編集]
1940年のフランス侵攻でも、第XVI自動車化軍団を指揮し、アルデンヌを突破して英仏海峡へと向かう進撃の先鋒を務めた。彼の部隊は、アラスの戦いなどでイギリス軍の反撃に遭遇しながらも、その突破力を示した。この作戦での功績が認められ、上級大将に昇進した。
バルバロッサ作戦[編集]
1941年、ソビエト連邦への侵攻作戦であるバルバロッサ作戦では、第4装甲集団司令官に任命された。彼の指揮する部隊は、北方軍集団の主力としてレニングラード(現サンクトペテルブルク)方面へ進撃した。しかし、冬将軍の到来とソ連軍の頑強な抵抗により、進撃は停滞した。
この作戦中、ヘープナーは軍の行動についてアドルフ・ヒトラーと意見を衝突させることが多くなった。特に、モスクワの戦いにおける撤退命令を拒否したことなどから、ヒトラーの不介入主義に反発する姿勢が顕著になった。結果として、1942年1月、彼はヒトラーによって解任され、陸軍から除籍された。彼はこの決定に対し、法的手段で抗議したが、無効とされた。
反ヒトラー抵抗運動と最期[編集]
現役を離れた後、ヘープナーはドイツ抵抗運動、特に軍事抵抗運動と接触を深めた。彼は、フリードリヒ・オルブリヒトやクラウス・フォン・シュタウフェンベルクといった将校たちと親交を深め、1944年の7月20日事件においては、計画が成功した場合にベルリンの防衛管区司令部を掌握する役割を担うことになっていた。
計画は失敗に終わり、ヘープナーは事件発生直後に逮捕された。彼は人民裁判所でローラント・フライスラーによる茶番の裁判にかけられ、屈辱的な扱いを受けた。そして1944年8月8日、ベルリンのプレッツェンゼー刑務所で絞首刑に処された。享年57。
人物[編集]
ヘープナーは優れた戦術家として知られ、特に機甲戦の指揮に長けていた。彼は兵士の士気を重視し、部下からの信頼も厚かった。同時に、軍人としての名誉と規律を重んじ、ヒトラーの恣意的な命令には明確な反対の意を示した。
豆知識[編集]
- ヘープナーは熱心な馬術愛好家であり、その腕前はプロ級であったという。
- 彼の弟も軍人であり、第一次世界大戦で戦死している。
- 彼の名は、ドイツの陸軍士官学校の一つに冠される予定だったが、ナチス政権下では実現しなかった。
関連項目[編集]
参考書籍[編集]
- 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』文春文庫、1992年。
- グデーリアン, ハインツ『電撃戦』加登川幸太郎訳、中央公論新社、2001年。
- ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー』集英社、1979年。