陽炎型駆逐艦

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陽炎型駆逐艦(かげろうがたくちくかん)は、大日本帝国海軍第二次世界大戦中に運用した一等駆逐艦の艦級。ロンドン海軍軍縮条約失効後のマル3計画およびマル4計画に基づき、朝潮型駆逐艦の改良型として建造された。バランスの取れた性能と高い凌波性を持ち、太平洋戦争における日本海軍駆逐艦の中核を担った。全19隻が建造され、その多くが激戦の中で失われた。

概要[編集]

陽炎型駆逐艦は、ロンドン海軍軍縮条約失効に伴い、排水量や兵装に制約がなくなった状況下で設計された。先行する朝潮型駆逐艦が魚雷兵装を重視するあまり、艦隊司令部施設や対空兵装が不足していた点、また凌波性に若干の課題があった点を踏まえ、これらの欠点を克服することを目標とした。

主砲には、朝潮型に引き続き50口径三年式12.7cm砲を採用し、従来の駆逐艦が連装砲3基6門であったのに対し、連装砲3基6門を継承しつつ、射角の改善を図った。魚雷兵装は、九二式61cm四連装魚雷発射管2基8門を搭載し、予備魚雷も同数備えるという、当時としては世界最高水準の魚雷攻撃力を有していた。この強力な魚雷兵装は、夜戦を重視する日本海軍のドクトリンを反映したものであった。

機関は、ロ号艦本式缶3基とパーソンズ式衝動タービン2基2軸により52,000馬力を発揮し、速力35ノットを達成した。航続距離も18ノットで5,000海里と長く、広大な太平洋での作戦行動に対応できる能力を持っていた。

船体設計においては、凌波性の向上のため艦首のフレアが強化され、荒れた海域での運用能力が高められた。これにより、陽炎型は太平洋の厳しい気象条件下でも高い安定性を保つことができた。居住性も改善され、長期間の洋上活動における乗員の負担軽減に貢献した。

建造は、舞鶴海軍工廠浦賀船渠藤永田造船所大阪鐵工所東京石川島造船所で進められ、1939年(昭和14年)に進水した1番艦「陽炎」を皮切りに、1941年(昭和16年)に竣工した最終艦「萩風」まで全19隻が建造された。

戦歴[編集]

陽炎型駆逐艦は、その優秀な性能から、太平洋戦争開戦劈頭から各方面で主力として活躍した。真珠湾攻撃に始まる緒戦の南方作戦、ミッドウェー海戦ガダルカナル島の戦いソロモン諸戦マリアナ沖海戦レイテ沖海戦など、主要な海戦のほとんどに参加した。

特に夜戦においては、強力な魚雷兵装を活かして多くの戦果を挙げた。ガダルカナル島の戦いにおける「第三次ソロモン海戦」では、駆逐艦同士の激しい夜戦が繰り広げられ、陽炎型も奮戦した。

しかし、戦況の悪化に伴い、対空兵装の脆弱性が問題となった。開戦当初は25mm機銃が少数しか搭載されていなかったため、航空攻撃に対する防御力が低く、多くの艦艇が航空機により失われた。このため、戦局の推移と共に25mm機銃の増設が行われたが、根本的な解決には至らなかった。

最終的に、全19隻のうち18隻が戦没し、終戦時まで残存したのは「雪風」のみであった。「雪風」は数々の激戦を生き抜き、「奇跡の駆逐艦」と称された。戦後は賠償艦として中華民国に引き渡され、「丹陽」と改名されて運用された。

同型艦[編集]

マル3計画で18隻、マル4計画で1隻、計19隻が建造された。

  • 陽炎(かげろう)
  • 不知火(しらぬい)
  • 黒潮(くろしお)
  • 親潮(おやしお)
  • 早潮(はやしお)
  • 涼風(すずかぜ)
  • 舞風(まいかぜ)
  • 夏潮(なつしお)
  • 初風(はつかぜ)
  • 雪風(ゆきかぜ)
  • 天津風(あまつかぜ)
  • 浦風(うらかぜ)
  • 磯風(いそかぜ)
  • 浜風(はまかぜ)
  • 谷風(たにかぜ)
  • 野分(のわき)
  • 嵐(あらし)
  • 萩風(はぎかぜ)
  • 秋雲(あきぐも)

豆知識[編集]

  • 陽炎型駆逐艦は、そのバランスの取れた性能と高い信頼性から、日本海軍の駆逐艦の理想形とも評されました。
  • 「雪風」が数々の激戦を生き抜いたことから、「強運の艦」として語り継がれています。
  • 陽炎型の設計思想は、後続の夕雲型駆逐艦秋月型駆逐艦にも大きな影響を与えました。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 雑誌『丸』編集部編『日本海軍艦艇写真集 駆逐艦』(光人社、1997年)
  • 歴史群像太平洋戦史シリーズVol.23『究極の駆逐艦 陽炎型・夕雲型』(学習研究社、1999年)
  • 坂本正器、福川秀樹『日本海軍編制事典』(芙蓉書房出版、2003年)