車谷長吉
車谷長吉(くるまたに ちょうきつ、1945年ー2015年5月17日)は、作家。
人物[編集]
兵庫県飾磨市生まれ。本名・嘉彦。地主兼呉服店の長男で、母に溺愛されて育ち、姫路市立飾磨高等学校から、慶應義塾大学文学部へ進学する。東京大学も受かったかもしれない成績だったが、「慶應ボーイ」に憧れて慶應へ行ったという。1968年にカフカ論を卒論として独文科を卒業、中央興宣に入社する。在学中から同人誌活動はしていた。71年から現代評論社の『現代の眼』編集部に移る。72年に「なんまんだあ絵」で新潮新人賞の最終候補となり、『新潮』編集部の前田速夫に目をかけられ、当時は同年輩の中上健次のライバル的存在だったと述懐している。だが没が続き、76年に仕事を放擲して郷里に逃げ帰り、料理店の下足番をする。この時の経験を下敷きにしたフィクションが『赤目四十八瀧心中未遂』である。車谷は「私小説作家」とされることが多いが、実際はこのように私小説ではない作品も書いている。なお筆名「長吉」は唐の詩人・李長吉からとっており、そのため「ちょうきち」ではなく「ちょうきつ」である。
辻井喬や前田が、関西までやってきて、東京へ戻って小説を書くように勧めたという。だがその間に小説を三編文藝雑誌に載せており、82年の「萬蔵の場合」は芥川賞の候補にもなっているが、単行本にならなかったため、広く知られることはなかった。母は、田畑を売り払って選考委員に賄賂を贈ろうとしたので、必死で止めたという。83年に前田の呼びかけで東京へ戻り、辻井(堤清二)の世話で西武流通グループの嘱託社員として勤務。85年には白洲正子から作品を賞賛され、最後まで白洲への恩義は忘れなかった。また西武の社員として上野千鶴子の面識を得ており、これにも好意を持ったらしい。
93年に48歳で最初の単行本『盬壺の匙』を上梓し、芸術選奨文部大臣新人賞と三島由紀夫賞をとり、一躍有名になる。なおこの時同時に『日本の家郷』で三島賞を受賞した福田和也は、挨拶の時、楽屋では何ともないのに挨拶に立つとわざとらしく咳込んで見せる車谷を目撃し、その演技性を批判している。また同年、東大卒で一つ年上の、元ミス東大の詩人・高橋順子と結婚している。車谷は実際には変人だったが、地主の息子で慶応卒で東大卒の妻を持つということで、その変人ぶりが演技ではないかという疑念につきまとわれた。
95年に西武を辞めてキネマ旬報社で校正の仕事をする。この年「漂流物」で芥川賞候補になるが落とされ、車谷はのち直木賞をとった時、芥川賞選考委員のわら人形を作って丑の刻参りをしたと書いた。三島賞や芸術選奨では足りなかったようで、直木賞ならその代替物になると思ったようである。『別冊文藝春秋』に連載した『赤目四十八瀧心中未遂』は、伊藤整文学賞に選ばれるが、直木賞の欲しい車谷は辞退し、辻井らが説得したが聞かず、結局なかにし礼の『兄弟』を押しのけて直木賞をとり、満足したらしい。単行本『漂流物』に入っている「抜髪」は、母の口を借りて、偉くなったつもりの自分を罵らせるという趣向の変形私小説だが、中に三島賞の選考委員の名前が出てくるので、『新潮』の編集者が掲載に反対したこともあった。95年から編集長は前田速夫になったこともあり、車谷はコンスタントに「業柱抱き」「武蔵丸」「忌中」などの力のある作品を発表していく。「武蔵丸」は、横綱の名を借りたカブトムシの話だが、これで川端康成文学賞を受けた。また「忌中」は、千葉県流山に住む菅井修治という66歳の金融ブローカーが、妻の病気に苦しみ、心中をはかるが妻だけ死んでしまい、妻の遺体を押し入れに放置したまま二ヶ月遊びほうけ、その後で自分も自殺して、「忌中」と書いた裏面に遺書を書いて、玄関に張っておいたという話である。車谷はこれを、朝日新聞2003年5月27日夕刊にあった三面記事を参考にしたと書いている。だがその当該記事は見つからず、これを架空の記事とした論文もあるが、実は名前は違っているがほとんど同じ記事が1984年8月18日の朝日新聞夕刊にあった。
2004年に『新潮』に載せた「刑務所の裏」で車谷は、深夜叢書社の編集長で俳人でもある齋藤慎爾が、かつてカネを返さなかったと実名で書いて名誉毀損で訴えられ、これは和解したが、車谷は「凡庸な私小説作家廃業宣言」を書いた。だがこの和解には秘密条項があり、車谷の没後高橋順子が書いた『夫・車谷長吉』を見ると、齋藤の行為は実際にあったことのようで、しかも「刑務所の裏」は名前を変えただけで単行本に載っている。なお同時に車谷は、恩賀とみ子が、車谷の俳句を盗作だとしたのに対して罵詈雑言で返し、恩賀からも名誉毀損で訴えられている。
その後車谷は、妻の友人の詩人・新藤涼子と三人で世界一周の船旅に出て、そのことを書いたり、妻と四国お遍路旅に出てそのことを書いたりしていたが、2015年5月、妻が数日留守にしていた間に、冷蔵庫の中のものを食べようとして喉に詰まらせ、帰宅した時には死んでいた。69歳だった。
当時私小説作家としては佐伯一麦がおり、車谷のあとに西村賢太が登場するが、西村が死んだことで、私小説の灯が消えたようでもあり、金原ひとみが書いているようでもある。