赤穂事件

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勝川春朗『新板浮繪仮名手本忠臣蔵』より「第十一段目・師直邸討ち入り」(伊勢屋版)

赤穂事件(あこうじけん)とは、江戸城松の廊下にて起こった、赤穂藩主の浅野内匠頭が高家旗本の吉良上野介を切り付けた事件、あるいは内匠頭が切腹した出来事、あるいは大石内蔵助が上野介を討ち取り吉良家が取り潰しになった事件の総称である。ただし、歴代の赤穂藩家中において発生した事件との混同を避けるため、池田家において藩主池田輝興が狂乱し正室などを殺した「正保赤穂事件」、森家において尊王攘夷の西川升吉ら一派が佐幕・保守派の家老・森主税と藩儒・村上父子を暗殺するという「文久赤穂事件」[1]と区別をつけて「元禄赤穂事件」とも呼ばれる場合がある[2]

概要[編集]

将軍徳川綱吉の時代。浅野内匠頭は赤穂藩の藩主[注 1]。居城は赤穂城。とても怒りやすく吝嗇な暴君であった[3]。一方で大名火消しを張り切り、お犬様を赤穂城で保護し幕府に忠実であった。
1701年に、内匠頭はから勅使、院使を迎えた江戸城松の廊下にて高家の吉良上野介に斬りつけた。吉良は幕府の取り調べで「内匠頭は乱心」と主張した。そうすれば内匠頭のみが罰せられ隠居、悪くても流罪くらいで済み、浅野家大学長広が継いで(1万石程度へ減封悪くても旗本で)残るからである。しかし、内匠頭は「乱心ではない」と何度も叫び[4]別室に連れて行かれた。

内匠頭は、饗応の場を血で汚したとして幕閣より即日切腹のお触れが出され、お家は断絶となった。一方、上野介はお咎め無しだった。江戸から赤穂まで早駕籠が出され、5日間かかって情報がもたらされ、国元では大騒ぎとなった。江戸では町人や浪人が鉄砲洲の赤穂藩邸を襲撃、大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている。堀部武庸も暴徒の退治に加わり、金品強奪や破壊から藩邸を守った(『堀部武庸日記』)[5]

筆頭家老の大石内蔵助はお家断絶や内匠頭の片成敗に怒りを感じ、片岡源五右衛門や堀部武庸などの江戸急進派を抑えつつ、内匠頭弟の大学長広を主君とするお家再興嘆願運動を行った。長広が閉門処分になって、お家再興が絶望となると、内蔵助は吉良邸討ち入りを決意した[注 2]1703年1月30日 (元禄15年12月14日) に内蔵助は47人を率いて本所(現在の墨田区)の吉良邸へと討ち入った。

吉良邸に入るとすぐに「火事だ!」と騒ぎ、吉良の家臣たちを混乱させ、小林平八郎・清水一学らと戦いこれを斬り捨てた。最後に物置のような部屋で白小袖の老人を間十次郎が槍で突き、武林唯七が刀で斬り絶命させた。内匠頭が背中につけた傷跡を確認し、吉良方の足軽にこの死骸が吉良である事を確認させた[7]。内蔵助らは吉良の首を取り吉良邸から引き揚げた。

討入後[編集]

赤穂義士のうち吉田忠左衛門と富森助右衛門が大目付仙石伯耆守[8]に出頭し、討ち入った義士は47人中46人[注 3]、大名4家に預けられた。 赤穂浪士討ち入りの報告を受けた幕府は浪士等の処分を議論し、『赤穂浪士が「主人の仇を報じ候と申し立て」、「徒党」を組んで吉良邸に「押し込み」を働いたから』として、元禄16年2月4日 (旧暦) (1703年3月20日)、彼らを切腹にする事を決めた。ただ、安場久幸は大石の介錯を失敗している。大石良雄の介錯は複数回行なわれ、安場家(一平久幸の後嗣)に伝わる当事の介錯刀には刃こぼれがあり、前当主で全国義士会連合会の会長を務めた安場保雅は「大石の首骨に何度も当たり、斬り落としに苦労した跡である」と記している[10]
同時に吉良家は当主で上野介の孫の義周が諏訪高島藩預りとなった。高島藩主・諏訪忠虎高島城南丸の屋敷を改装して預かり屋敷にした。忠虎の娘・於栄のが吉良と昵懇な伊達村豊勅使饗応をやり遂げた)[11]だったこともあり、義周は「左兵衛様」と呼ばれ[12]一般の罪人に比べるとかなり優遇された[13]
義周は配所で絵や書を良くしたが、元来病弱であり、しばしば病気になった。3年後に嫡子を残さず逝去し、三河吉良家は取り潰しとなった(のちに義央の弟の家系で再興。これとは別に世田谷蒔田氏が高家吉良)。
義周の亡骸は、幕府の石谷清職の検死を受けた後、諏訪の法華寺に埋葬された。三河の花岳寺西尾市吉良町)と諏訪大社にも墓があり、義周の手になる書碑も建っている。

遺児の処分[編集]

赤穂浪士の遺児らも、15歳以上の男子は伊豆大島遠島、15歳未満の男子は縁のあるものにお預けとなり、15歳になるのを待って遠島という処分が幕府から下された[14]。(女子は構いなし[14])。

15歳以上の男子は4人(吉田伝内、中村忠三郎、間瀬惣八、村松政右衛門)おり、彼らは処分にしたがって遠島に処せられた。金子と糧米も尽き果て、蓆を打ち蓬を編んで鹹風蜑雨と闘ったが、間瀬貞八は痩死している[15]。現地で没した間瀬惣八は罪人墓地に埋葬されており、越後騒動の逆意方(悪役)の小栗兄弟と並葬されている[16]

残りの3人は宝永3年に赦免された。他の遺児たちも綱吉が死去した宝永6年に大赦とされた[17]

本土に戻った遺児たちは仕官することなく、仏門に入った(吉田はのち還俗して浪人)。

後史[編集]

  • 内蔵助の三男で、母方の石束家の籍に入っていた大三郎は、大石家に復籍して父と同じ禄高で赤穂浅野家の本家の広島藩士(家老ではない)となったが芸州侯の不興を買い二度の減封を受けた。大三郎死後、小山家から養子が入って大石家の家督が継承されたが、1889年(明治22年)、最後の当主・多久造の死去を以て断絶[18]
  • 内匠頭の弟の大学長広は、家宣期に旗本として房州に領地を与えられ、お家再興を果たした。版籍奉還後も士族家として存続したが、1986年(昭和61年)、最後の当主・長楽の死去を以て断絶。
  • 吉良家も断絶のままだったが、傍流で蒔田姓だった義俊が吉良姓となって高家に就き、大学長広と同年にお家が再興した。加えて、義央の弟の義叔が分家した東条家の3代目義孚も吉良に復姓した。ともに明治維新に至るが、両家は吉良義央の子孫ではない。
  • 赤穂城は1年の幕府預かり(脇坂家が赤穂城在番。城内に詰めていた重臣が乱心して死傷者を出す)を経て赤穂藩には永井家が入るものの永井尚長浅野長矩の叔父により狂気のため[19]殺害されており、浅野家所縁の花岳寺を菩提寺として使用しなかった(花岳寺に永井家の墓や遺構は皆無である)[20]。赤穂藩主・永井直敬は吉良義央と同じ江戸上高田の萬昌院功運寺を菩提寺としている。永井家はわずか4年で飯山藩に移封された。
  • 吉良流作法の極意書は山鹿素行[21]・政実父子が引き継ぎ、天皇家親戚である津軽・松浦両家に伝わり、宮内庁に現存する。
  • 崇光天皇男系17世孫である旧宮家(元皇族)・東伏見家の現当主 東伏見慈晃は吉良義央の子孫でもある(今上天皇陛下のはとこ)[22]
  • また、吉良と昵懇だった霊元上皇の末裔(皇位継承の候補となった上野守・伏見宮貞敬親王の来孫)で、霞会館理事を務めた柳原承光は義央の九世子孫。従光の令嬢は今上天皇陛下(第126代徳仁)の御学友であり御妃候補として名前が挙がった[23]
  • 大石家の赤穂での祭祀は、良雄と同族の四十七士大石信清のいとこ甥の大石良饒が赤穂を領した森家に仕えて継承している。また、弘前大石氏は吉良義央の12月14日の法要に参加されている。

日本史研究[編集]

  • 松の廊下の事件が起こった当時、島津光久の継室で江戸にいた陽和院が江戸にいた陽和院は、京都にいた兄の平松時量に宛てて、次のような書状を送っている[24]。陽和院は光久の継室であったため、血の繋がりはないものの、光久の孫である島津綱貴の祖母といえる立場にあり、その孫の綱貴に嫁いでいた吉良義央の娘の鶴姫とは大姑の関係にあった。
「十四日御しろの事めつらしき事、きら殿人かわろく申候事ニて御さ候、仰せのことく再々御くたりあそハし候へとも、しせんよき時分ニて御さ候つる、何事もわれからの事とそんし候」
(「十四日に江戸城で前代未聞の事件が起きました。吉良殿も(殿中で刃傷を受けるとは)体裁が悪い。(時量殿も)仰せによって何度か江戸へ下向されていますが、よい時に在京されておられました。(時量殿の京での)ご裁量の機会と私は思います。」)
  • 当時在位した東山天皇は、浅野内匠頭が上野介に斬付けたことにより自身が派遣した勅使の饗応を放棄したこと、そして即日切腹になったことを知り、「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」との記述を近衛基煕が記録している。当事者であった柳原資廉は「馳走人浅野内匠、乱気。次の廊下にて吉良上野介を斬る。勅答の儀に役を放りて凶事をおこす。言語に絶するなり」と述べ、饗応放棄した内匠頭を「不便」(使えない奴、役立たず)としている[25]高野保春も「心中、歓悦している」と述べたことなどが書かれている[26]
  • 天照大御神の子孫である天皇への信仰を尊王思想として体系化した正親町公通は義央に同情している。一方で東山天皇が長矩の切腹処分につき幕府の迅速な対応を喜ばれたと記している[27]
  • 浅野内匠頭の辞世「風誘う」は創作で、実際は大坂無宿の水汲人足・都乃錦が後世に詠んだもの[28]
  • 討ち入り前に集合したのは饂飩屋久兵衛ではなく、岡場所の風俗茶屋「亀田屋」[29]

関連作品[編集]

  • 講談で神田陽司は『テロリスト大石内蔵助』(2002年初演)をプロジェクターを使い修羅場(ひらば)読みという趣向を見せた。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 浅野幸長の弟の長重の曾孫。
  2. 直前まで、大石の直臣だった瀬尾孫左衛門が同盟に加わっていたが、討ち入り前の12月12日に脱盟逃亡した。このため瀬尾は四十七士に数えない[6]
  3. 寺坂吉右衛門だけどこかに逃げ、消息不明となった[9]。なお、寺坂については、軽輩の地位を利用して、瑤泉院など関係者に経緯を伝令したとの説がある。
出典
  1. 赤穂城・文久赤穂事件顕彰碑跡(現地「二ノ丸門案板」)
  2. 歴史群像シリーズ57巻『元禄赤穂事件』(学習研究社)など
  3. 『サライの江戸 江戸三百藩大名列伝』小学館
  4. 梶川頼照『梶原氏筆記』
  5. 武庸書簡(吉川茂兵衛宛)にも同様の記述あり。
  6. 赤穂市総務部市史編さん室『忠臣蔵第一巻~第七巻』兵庫県赤穂市
  7. 山本 2012a, §6.3.
  8. 山本 2013, pp. 166-167.
  9. [1]
  10. 「赤穂民報」2019年12月13日
  11. 「左京亮様、勅使様饗応の儀、御首尾能く勤められた旨」(『宗贇公御代記録書抜』)
  12. 「一、左兵衛様が、爪を切る時、鋏を使う時は、利兵衛、猶右衛門、八左衛門、八郎兵衛(いずれも藩士の名前)の一人以上が付き添うこと。」(諏訪家文書『諏訪家御用狀留帳』)
  13. 細野正夫・今井広亀著『中洲村史』高島藩日記より「吉良義周」の項
  14. a b 山本(2013) p197
  15. 福本日南(中央義士会の設立者)『元禄快挙録』
  16. 『大島町史』「伊豆国大島差出帳」
  17. 山本(2013) p202
  18. 泉岳寺 鎌田豊治「大石家の墓」(「忠臣蔵史蹟辞典」2008年、中央義士会)
  19. 『徳川実紀』
  20. 花岳寺について「境内案内」.花岳寺、2026年6月8日閲覧。
  21. 素行は赤穂事件より前に死去している。
  22. 「人事興信録45版」ひ24
  23. 『「恋愛結婚」じかけの天皇制』天野恵一、インパクト出版会, 1993、p40
  24. 「陽和院書状」という書状が現存。『陽和院書状』 福武書店〈広島大学所蔵猪熊文書〉。
  25. 『関東下向道中記』
  26. 『応円満院基煕公記』百五十二(元禄十四年自正月至三月)宮内庁書陵部 (収蔵)
  27. 『正親町公通卿雜話』45p(東京大学・文学部宗教学研究室)
  28. 宝永8年『播磨椙原』
  29. 寺坂信行『寺坂吉右衛門手記』「元禄15年12月14日の頁」