浜崎憲孝
浜崎憲孝(はまざき のりたか、1965年〈昭和40年〉12月11日 - 2023年〈令和5年〉2月28日頃)はブロガー、随筆家、トラックおよびタクシー運転手。漫画「ちびまる子ちゃん」の登場人物・はまじのモデルとして知られる。
概要[編集]
幼くして親が離婚・再婚するなど、複雑な家庭環境で育つ。小・中学校時代、後に国民的漫画家・随筆家となるさくらももことは、計6年間クラスメイトとなる。進学した全日制高校を中退した後、通信制高校を延べ7年掛けて卒業しつつ、職を転々としていた。「ちびまる子ちゃん」のアニメ化により、はまじのモデルとして地元では有名になり、その知名度にあやかって「僕、はまじ」などの自叙伝を出版した。その後は電子書籍やブログなどで、「ちびまる子ちゃん」関連の数々の証言を残した。
生涯[編集]
※文中に登場する人名は「#人間関係」参照
出生から小学2年次まで[編集]
遠洋漁業の船員である父(当時28歳)と、水商売の母(当時26歳)の長男として誕生。父親は3カ月から半年は不在であるため、その帰りを清水市草薙の住居で母と共に待ち侘びる日々を過ごす。 実父の飲酒量の増加や怠業により夫婦仲は悪化し、浜崎が幼稚園を卒園する頃に両親は離婚した。母子は恵比寿町に引っ越し、清水市立入江小学校に通うようになる。小学2年生の時に母親が再婚(事実婚)し、その再婚相手(義父)と同居するようになった。 幼稚園児にして、母の財布から千円を盗んでプラモデルを買おうとした(未遂)。小学生になってからも駐車中の車両からサングラスを盗むなど、度々問題行動を起こしていた[1][2][3][4]。
小学3年次[編集]
担任教諭の戸川による、水泳の授業における暴力的指導により、延べ3カ月半にわたり不登校となる。この学年のクラスメイトにはさくら、山田、野口、冬田、アカベー、ワタ、ラムーがいた。
水泳の授業にて、浜崎を含む4人の泳げない生徒は、初回は水中で目を開ける練習をさせられ、戸川に頭を押し付けられた。次回は飛び込みの練習をさせられ、飛び込み台の上で姿勢を取った瞬間、不意に背中を突き飛ばされた。その後も上手く出来ず、直後に戸川から体を持ち上げられ、水面に3度叩き付けられた。その後、死の恐怖に怯えながら飛び込みの順番を待っている最中、開いたままの金網の出入口に気付き、一目散に逃げ出した。 水着のまま町中を走り抜けた後、自宅の近くの広場に置かれた土管の中に隠れた。数時間後、戸川が自宅まで探しに来たものの、諦めて帰る様子を目撃した。後で家に戻ると、母親から学校に戻るように言われたが、戻らなかった[† 1]。その夜、義父には初めて殴られ、事情を説明しても信用されず、激しく怒られた。
翌日、普段通りに家を出たものの、昨日の出来事により登校するのが億劫になり、引き返して神社の裏に隠れ続けた。終業時刻になった頃に帰り、再び両親から怒られた。翌朝、自宅でテレビを見ている最中に「おはようございます」と戸川が姿を見せ、裏口も母に塞がれ、逃げられなくなった。戸川の自転車の荷台に乗せられて登校し、クラスメイトの前で教壇に立たされ、泣きながら一昨日の経緯を細かに、大きな声で説明させられた。 その日の帰りの会に戸川は、明日からは放課後に25メートル泳ぐよう、生徒全員に命じた。だが、浜崎はその翌日の休み時間に再び脱走し、公園とワタの家で時間を潰し、明日はワタと一緒に学校をサボると約束した。翌朝は玄関で待っていた戸川に自動車に乗せられて未遂に終わったが、その次の日は前日よりも早く家を出て、一緒に学校に行かずにデパートや商店街で過ごし、帰宅後は両親に怒られた。
翌朝、義父に自動車で学校に連れて行かれた。始業から浜崎とワタは並んで教壇に立たされ、昨日の経緯を説明させられ、共に平手打ちを浴びた。そして「2人とも今からプールに来い」と言われた瞬間、浜崎は校外に脱走した。だが、追い掛けてきた同級生に捕まり[† 2]、取っ組み合いになっている最中に戸川に持ち上げられ、抱えられたまま教室に戻された。それでも、着替えの直前に再び、体操着姿で全力で脱走し、墓地に身を隠した。日没後、両親が浜崎を探しに出歩いている最中に自宅のトイレに籠り、帰ってきた両親の説得にも応じず、家族が寝静まってから部屋に戻った。 翌朝、「おはようございます」の挨拶で目が覚め、目の前で戸川が立っていた。だが、浜崎は再びトイレに籠り、戸川は声を荒げるも、諦めて立ち去った。その後、母親の目を盗んで家を出て、近所に停めてあったトラックの中で過ごした。翌週以降は戸川に言い付けられた同級生が迎えに来るようになったが、浜崎は早朝から家を出るようになり、学校に行かなくなった。
不登校となってから約1週間後、母に連れられて児童相談所を訪れた。そこで中年男性の職員とボウリングゲームを楽しんだが、母親は別室で他の職員に相談していた。翌日早朝、姿を見せた戸川に学校に連れて行かれ、その最中に「児童相談所へは行くな」「プールへ入らなくていいから学校へ来い」と言われたものの、その後も浜崎親子は児童相談所に通い続けた。一学期が終わる頃に戸川は浜崎宅を訪問し、児童相談所へは行かないように要望していた。 終業式を除き、二学期になっても浜崎の不登校は続いた。9月中旬の日曜日、家族で外食に行くという事で、子供用のスーツを着せられて自動車に乗ると、着いたのは戸川の住宅だった。そこで戸川の妻のシチューをご馳走になり、戸川からは「プールに入らなくていいから、学校だけは来てくれ」と言われたものの、浜崎はただ早く帰りたいだけだった。
その翌日も今まで通り、学校に行く振りをして家を出て、小さな公園でブランコに乗っていると、偶然通り掛かった30歳前後の女性に声を掛けられ、誘われて団地に入った。そこでは、彼女からジュースや昼食をもらい、名前以外は何も聞かれなかった。独り暮らしと思しき女性は「私には子供がいないのよ」と言い、ベランダに米が入った茶碗を置き、雀が食べに飛んでくる様子を寂し気に見ていた。浜崎はその後も彼女の部屋に通い、午後3時頃に帰るという日々が約1週間続いた。 ある日、女性から「憲孝君、なんで学校が嫌いなの?」と聞かれた。一連の経緯を話すと、彼女は同情しつつも「4年生に進級するために、プールが終わったら学校に行った方が良い」と助言し、「友達がいない事は、とても寂しい事なのよ」と呟いた。その言葉を聞き、浜崎は登校再開を決意し、以降は彼女の家に行かなかった。 9月の終わり、両親は浜崎から学校に行くと打ち明けられると、急遽親子で戸川宅を訪ねた。戸川は驚きつつ、酒を飲みながら「浜崎はプールと俺の事を嫌いなのはわかっている。でも泳げないと海やプールにも行けず、将来の楽しみが減るんだ」と言い聞かせた。翌朝、久々に登校すると同級生からは「来た来た」と囃し立てられたが、ワタからは歓迎された。残りのプールの授業も見学を許され、半年後には無事に3年次を修了した。同時に、戸川は残りの1年(浜崎のクラスの4年次)を残して他校へ異動するという、異例の人事が発表された[6][8][9][10][11][12][13]。
小学4~6年次[編集]
4年次のクラスメイトは前年度と同じだったものの、新しく赴任した担任教諭は穏やかな中年女性だった。彼女の丁寧な指導により泳げるようになり、自信が付いた。また、暗い自分を変えたいと思っており、授業中に冗談を言って笑いを誘うようになった。5年次以降も、同級生や担任教諭にブーブークッションを仕掛けるなどのイタズラを繰り返した。 一方、町内対抗のソフトボール大会に参加するために練習を続け、5年次から三塁手として活躍した。また、マーチングバンドに憧れるようになり、中でもマッコウの影響でトロンボーンに興味を持った。そしてお年玉や小遣いを貯めて、6年次の1月に2万円のトロンボーンを購入したが、2カ月程でスライドの部品が折れ、吹けなくなった[11][14]。
中学時代[編集]
1978年、自宅近くの清水市立第八中学校に進学し、嫌々ながら校則に従って五分刈りにした。そしてワタ・ラムー・マッコウ・杉浦と共に吹奏楽部に入部した。新入生のトロンボーン奏者は既に内定したため、誘われてワタと同じホルンを選んだ。浜崎は知らなかったが、同部は中部地区大会(県大会の前段階)を毎年突破する有力校だった。加えて新入部員のほとんどは吹奏楽経験者の中、浜崎は音を満足に出せず、楽譜も読めなかった。 浜崎は試験期間でもロクに勉強せず、楽譜を日々持ち帰り、オルガン教室に通っていた幼稚園児の妹に読み方を教わっていた。このため、真剣に取り組んだ英語以外の中間および期末試験は散々な結果で、周囲の同級生からも笑われたものの、補習は部活のために免除された。一方で、徐々に楽譜は理解できるようになったが、合奏では実力不足が露わになり、そのためにホルンの4人組(浜崎・ワタ・3年女子・2年女子)だけが残って練習をさせられる事も有った。それでも、他のパート仲間からは励まされ、顧問も浜崎の努力を認めていた[15]。
8月の中部地区大会では、浜崎は最初のソロパートなど複数の箇所で失敗した。結局、八中は銀賞となり、県大会(金賞)には進めなかった。多くの部員は浜崎を慰めたが、「金賞取れなかったのは、あんたっちのせいだからね」となじった3年生もおり、酷く落ち込んだ。 それでも、11月のSBS主催の吹奏楽演奏会で3年生は引退となるため、世話になった上級生に報いるため、自主的な朝練に頻繁に出るなど努力を重ねた。その大会では、浜崎は今までに無いほどに上手く演奏でき、八中は最優秀賞を取った。そして前述の浜崎をなじった3年生を含む上級生達から褒められ、自信を付けた。 その後、3年生の引退に加え、1年次の冬にワタ(副旋律の一番手)が突然退部したため、2年次には浜崎は2段階上の(副旋律の二番手から主旋律の二番手に)パートを務める事となった。3年次には主旋律の一番手となり、後輩を指導するようになった。いずれの年次も中部地区大会を突破し、県大会は銀賞に終わった[16][17]。
2年次以降は楽譜を難なく読めるようになったものの、相変わらず学業は疎かにし続け、その成績の悪さに義父からも叱責された。だが、浜崎は3年次の県大会終了後の夏休みもゲームセンターに入り浸り、志望校を判断するための東海テストでは[† 3]、数学に至っては2点という成績だった。担任教諭からは、当時は非常に厳しい校風で知られた常葉学園橘高等学校にしか入れないと断言された。同校を見下していた浜崎は反発したが、結局はカニエイやニモネニと共に受験し、合格した[18][19]。
普通科高校入学から上京まで[編集]
1981年に入学した橘高校では、中学時代より更に短い五厘刈りにしなければならず、浜崎には苦痛だった。頭髪が1.6センチメートルを超えたり、教師への挨拶を怠ったりすると、センター五厘(頭髪の中央だけを刈られる逆モヒカンの髪型)にさせられた。他にも、在学中に計12回竜爪山に登らなければならない、学期末に座禅付の研修センターに1週間泊まらないとならないなど、厳しい校則ばかりだった。 吹奏楽部は部員が少なく、実力も低いために入らず、カニエイがしつこく誘った空手部に入った。部活では拳立てやスクワットなどの辛い練習が続き、平日の帰宅時間は午後8時となり、土日でも練習に出なければならず、夏休みは1週間の合宿が有った。 10月中旬、橘高校の制服を着る劣等感、あまりにも厳格な校風への忌避感、授業内容の理解低下などに耐えられなくなり、2日連続で学校に行く振りをして無断欠席した。そして両親と、訪ねてきたカニエイに退学する意志を打ち明けた。義父は辞めるなら働くようにと告げるだけで、母は何も言わず、カニエイは困惑したものの強くは引き止めなかった。部活仲間も励ましに自宅を訪問したが、浜崎の意志は変わらなかった。12月2日、浜崎・母・担任教諭・学校長の四者面談を経て、橘高校を正式に退学した[20][† 4]。
その直後、鉄工所や義父の土木工事や瓦屋で働いていた。一方で、退学後の年末にカニエイと一緒に東京に向かい、ツービート・のりおよしお・紳助竜介・明石家さんまの漫才を目の前で見て、漫才師を憧れるようになった。両親に上京したいと願い出たところ、「1人になれば生きることの大変さがわかる」と了承を得た[† 5]。そして、新宿区若葉で4畳半、家賃14,800円のアパートを見つけ、貯金から敷金などを払い、4月から住むようになった。 そこで弁当屋のアルバイトをしながら、芸人の弟子になろうと考え、まずは熱狂していたビートたけしを狙った。ある日、大洋ホエールズとたけし軍団の草野球対決を観戦した後、新弟子だったラッシャー板前を見かけた。彼に色々と話し掛けていると、ダンカンが「なんでお前がファンに囲まれるんだ」と彼を叩く様子を目の当たりにし、芸能界の縦社会の厳しさに怖気づいた[24]。その上、たけしがラジオで「もう弟子は取らない」と明言したために、弟子入りを断念した。 次に西川のりおの弟子入りを目指し、往復ハガキを出したものの、「まだまだ弟子をとるところまで来ていない」との返信が届いた。それでも諦められず、下見を繰り返してのりおの日程を調べ上げ、7月に新宿アルタから出てきた彼に道端で声を掛け、土下座して「弟子にして下さい」と直訴した。のりおは「俺はまだ弟子を取れる身分ではないのでダメや」と告げ、浜崎の肩を抱きながら「また手紙出してや」と言い残し、去っていった[25][22][26]。
芸人になる目標を失った後、浜崎は引越業者や製本工場など勤め先を転々としながら1年余りを漫然と過ごし、義父からは「何のために東京に行ったんだ」と言われるようになった。そんな中、上京から文通を続けていたカニエイから誘われ、翌11月に開催される「清水駅前銀座アーケード街仮装大会」への出場を決意した。浜崎は「土人と牛」という題目や服装、小道具などの細部を発想し、清水の実家で製作作業を行った。当日、1位は10万円という賞金の高さから、10人以上のスーパーマン姿の銀行員や、本格的な水戸黄門の衣装をまとった小学生集団などの強敵が出場する中、浜崎はコンクリートの地面に膝を打つ痛みを堪えながら牛役を演じ続けた。結果的に「土人と牛」は2位に輝き、賞金6万円(2人で山分け)を受け取り、浜崎は久々に大きな達成感を得た[27][28][1][29]。
通信制高校時代[編集]
アルバイトの面接で「中卒では仕事はない」と度々言われて不採用になった経験から、やはり高校は出た方が良いと考えるようになった。そして、通信制(4年制)かつ静岡分校が有る東海大学付属望星高校の存在を知り、1984年4月に東京本校に入学した。3カ月後、静岡分校に転校し、両親の許可を得て実家に戻った。しかしながら、静岡分校のレポート課程は東京本校とは異なるため、本校での2カ月半の履修分は全てやり直しとなった。それでも労働の傍らで猛勉強を続け、入学生の約半数が1年次で脱落する中、3年次まで進級した。 一方、清水の実家に戻った後、砂糖の配送業務に従事したが、30キログラムの袋を運ぶ重労働であり、腰を痛めて1カ月で辞めた。このため、2年次に配送会社に転職したが、翌年から就いた中距離配送の業務の忙しさから、レポート提出が滞るようになった。遂には学業と両立できなくなり、3年次の一学期で退学した。
その後の2年近くは職務に没頭し、酒を飲み歩き、友人と遊ぶ単調な日々が続いた。だが、やはり高校を卒業したいという意志が徐々に強まり、業務上の余裕も出来たことで、卒業のためなら退職も辞さない覚悟で1989年に復学した。その後の学業は順調に進み、文化祭や修学旅行にも参加した。だが、卒業を間近に控えた1991年1月下旬、自宅で泥酔して腰を便器に打ち、頸椎を骨折して入院した。入院中により東京本校での卒業式には行けなかったものの、静岡での懇親会には出席し、卒業証書を受け取った。退院後、連絡を怠ったという理由で運送会社から解雇された。以後、別の運送会社のドライバーやタクシー運転手、郵便配達員など職を転々とした[30][31][32]。
自叙伝の出版[編集]
1990年に「ちびまる子ちゃん」がTVアニメ化してから、自身がはまじのモデルだと周囲に知られるようになった。そのために30歳頃の時、元同級生がアナウンサーを務めていた地元のFMラジオ局に依頼され、無報酬で3年間出演した。 そして34歳の時に「本当の自分を書いてみたい」と思い立ち、自叙伝を執筆した。当初は自費出版の予定だったが、反響の大きさから商業出版に変わり、2002年に発売された「僕、はまじ」はベストセラーとなった(後述)。一時期は度々取材を受け、講演活動も行っていた。 40代前半の頃、家族関係を苦にして、長年住み慣れた清水区を離れて駿河区に移り、その後は独り暮らしを続けた。並行して文筆活動を活発化させ、自費出版や多数の電子書籍の発行を行い、小説投稿サイトに随筆を投稿し続けた。2016年8月に開設したブログ「のりたかblog」をほぼ毎日更新し、主にその広告収入で生計を立てていた[33][34][35][36][37]。 2018年のさくらの没後は再び注目を集め、取材を受けるようになり、並行して様々な活動を行った(後述)。2023年春に急逝、57歳没(後述)。
人間関係[編集]
さくらももこ[編集]
小学3~6年次および中学2・3年次の、計6年にわたるの浜崎のクラスメイト。 一家は八百屋を営んでいた。体は細く、浜崎曰く「梅干しを食べたおばあちゃんの顔」で、髪型は三つ編みが多かった。視力は低く、たまに赤縁メガネを掛けていた。小学5・6年次にはバトンクラブに、中学時代は美術部に所属した。 小学校時代の筆跡は整っており、後年の丸みを帯びた字体ではなかった。よく教科書の隅に少女漫画風の落書きをしており、教師に見つかって叱られる事もあった。クラスでは大人しい方で、友人は多かったものの、中心的な存在ではなかった。 学校主催の絵の賞をよく受賞していた。卒業アルバムの作文では入学式の思い出を綴り、非凡な文才を示している[38][39][40]。
浜崎とは長期間クラスメイトだったものの、住む町(地区)が違っており、一緒に遊ぶ事は全く無かった。小学3年次は浜崎と違って真面目に授業を受けており、あまり接点は無かった。4年次以降は会話する機会が増え、後年さくらは浜崎について「あんたと同じクラスで楽しかったよ」と記している[41]。 中学時代、ジッと浜崎を凝視する事が何度かあった。浜崎が「なに見てるんだよ」「おい、なんだよ」と繰り返し問い掛けると、さくらは驚いたように我へ返った[42][† 6]。なお、作中の「まる子 はまじとウワサになる」(単行本8巻・75話)に描かれた相合傘の逸話は、実際には無かった[44][45][† 7]。 中学卒業後は進路が異なり、再会したのは17歳の、女子5人に男子4人の同窓会を行った時だった。浜崎は二日酔い且つ当時の職場の作業着のまま、ヘルメットとおもちゃの刀を使った芸を披露し、その場を盛り上げた。その時のさくらは黒のストッキングを履いており、浜崎には大人びて見えた。「随分変わったじゃないかよ」と浜崎が話し掛けると、さくらは笑顔を浮かべて「そんなことないよ」と答えた。二人が顔を合わせたのは、それが最後となった[47][48]。
元同級生のさくらが漫画家になった事は、浜崎は20歳頃の時に人づてに聞いていた。更に20代半ばの頃、雑誌「りぼん」の読者である妹から、自身が「ちびまる子ちゃん」に描かれている事を知らされた。さくらは、「ちびまる子ちゃん」に実名で描いた5人の同級生の内、浜崎だけは「はまじはいい奴だからきっと笑って許してくれるだろう」と無断で登場させた。同作はTVアニメ化に伴い有名となり、浜崎も周囲からはまじのモデルと知られ、面識の無い人からも言われる事が有った[49][33]。 浜崎がさくらプロダクションにイラスト作成を依頼する手紙を送ってから2週間後の2001年4月1日の深夜(後述)、さくらから浜崎に直接電話が掛かってきた。同級生の近況、離婚の裏話、アニメ版はまじの担当声優の交代劇、人生観やUFOなど様々な話をしつつ、さくらは前述の依頼を快諾し、「今まで連絡しなくてごめんね」と詫びた[† 8]。その3日後、さくらのイラストおよび4月4日付のサイン入り色紙とメッセージカードが、浜崎の元に届いた[50][52][53][54][55][56][57]。
その後は会話をする機会は無かったものの、両者の良好な関係は続いた。「僕、はまじ」の出版元と紛糾した後も(後述)、さくらプロダクション経由で浜崎に別の出版社を紹介し、また同社経由で年賀状を出し合っていた。さくらの没後も、さくらプロは浜崎をお別れの会に招いている。浜崎の没後、ちびまる子ちゃんランドでは浜崎の著書が販売されていた[58]。 なお2003年、浜崎は空き家となったさくらの実家を片付けていた(さくらの両親は引越し済)、さくらの母に瓜二つな親戚の女性と知り合った。その後は時々この家に足を運び、彼女を手伝っていた。さくらの没後に浜崎が集めた寄せ書きも、彼女を経由してさくらの両親に届けられた[59][60](後述)。
「ちびまる子ちゃん」登場人物のモデル[編集]
※浜崎は、作中の3年4組は、実際には6年3組がモデルと推測している
- 穂波たまえ(たまちゃん)
小学5・6年次の浜崎のクラスメイト。作中に実名で登場している同級生の1人。 笑い上戸で、浜崎の言動に大胆に笑う女子だった。体は大きく、姉御肌で活発的、バスケットボール部に入っていた。髪は短く、丸顔で目が大きかった。当時は眼鏡は掛けていなかった[† 9]。さくらと同じ交通委員会に所属し、浜崎は2人がよく一緒にいたのを目撃している[48]。 浜崎とは別の中学校に進学し、以降は接点は無かった。高校卒業後はアメリカに渡り、現地で家庭を築いた。 「はまじと9人のクラスメート」の取材にて、浜崎は日本の実家経由で穂波に質問状を送ったものの、回答を出さなかった。後に電話で家族に聞くと、「ちびまる子ちゃん」絡みで関わりたくない様子だったと聞かされた。2018年の「お別れの会」で顔を合わせた時に(浜崎は穂波本人と断定)「穂波さんですか?」と問われても、無言で首を横に振ってその場を離れた[61][54][62]。
- 山田かよ子(かよちゃん)
小学3~6年次の浜崎のクラスメイト。作中に実名で登場している同級生の1人。成人後のさくらと浜崎の両方と接点が有った、数少ない人物の1人である。 体も顔も細く、髪型はおかっぱ、細いつり目、高い鼻、細い口、甲高い声が特徴的で、浜崎は「ニンジン」と呼んでいた。学業は平均的だった。なお、映画「大野君と杉山君」で唄われる学級歌「友達の歌」(原題「友情よいつもまでも」)は山田が作詞した[40][63]。 さくらとは小学校時代から仲が良く、一緒に絵を描き、四つ葉のクローバーを探した事もあった。高校は違ったものの交流は続き、20歳頃にさくらの住む東京のアパートに遊びに行った事もある。但し、後年はさくらと顔を合わせる機会は無かった[64]。
成人後も清水市に住み続け、化粧品メーカーの美容部員として多忙な日々を送っていた。30代後半の時点では独身、犬を飼っており、好きな事は睡眠とヨガだった。後年、正座が出来ない程の膝痛を患っている。 浜崎とは20代半ばに同窓会で再会しており、さくらからの「はまじによろしく」という挨拶を伝えていた。2001年春、浜崎から依頼され、さくらプロダクションの連絡先を教えた(後述)。「はまじと9人のクラスメート」に掲載する取材の依頼も快諾した。その後も、浜崎のブログのためにさくらの手紙を貸与し、また一緒にプールに行くなど、浜崎の晩年まで友人関係は続いた[65][66][67]。
- 杉浦とくぞう(とくちゃん)
小学5・6年次、中学3年次の浜崎のクラスメイト。作中に実名で登場している同級生の1人。 一家は生花店を営んでいた。浜崎曰く、ぽっちゃりとした体型で、人当たりは良く、男女を問わず好かれていた。一方でゲームセンター好きであり、メダルゲームに熱中していた。 中学時代は浜崎と同じく吹奏楽部に所属した。中学3年の時、浜崎のクラスで石鹸が盗まれるという出来事があり、疑いの目を向けられた杉浦は潔白を主張し続けたものの、後年(20代)に同窓会で自身が犯人だったと暴露した[40][† 10]。 さくらの実家(青果店)の近所に住んでいた。後年さくらの母親から連絡を受け、自身を漫画に登場させる事を了承した。 成人後は家業の生花店を継ぎ(後に廃業)、2児の父となった。「はまじと9人のクラスメート」に掲載する取材の依頼も快諾し、唯一自身の写真の掲載も許可した。なお、この取材の時点でも吹奏楽を続けており、一方で石鹸の逸話は忘れていた。その後も、浜崎の晩年まで友人関係は続いた[68][69]。
- 長谷川健太(ケンタ)
小学5・6年次の浜崎のクラスメイト。作中に実名で登場している同級生の1人。 朝は所属するサッカー部で練習し、昼は給食を食べながら足元でサッカーボールを転がし、残りの昼休み時間をサッカーに費やし、夕方にも部活で練習するという、サッカー漬けの日々を送っていた。健啖家であり、給食の際には、浜崎を含む他の同級生の嫌いな食べ物を大量に引き受けていた[40]。
小学校卒業後は浜崎とは進学先が異なり、疎遠になった。浜崎がタクシー運転手だった頃、長谷川が乗客として乗ってきた事がある。だが彼は浜崎に気付かず、浜崎も名乗るのを躊躇し、そのまま別れた。2人が顔を合わせたのはそれが最後だった[70]。 後年の長谷川は、さくらの存在は忘れていた一方で、浜崎や穂波は憶えていた。浜崎は、小学校時代の大食いぶりから、登場人物の小杉太のモデルは長谷川と推測している[71][45][† 11]。
- 花輪和彦(花輪クン)
小学5・6年次、中学2・3年次の浜崎のクラスメイト(女子)。成人後のさくらと浜崎の両方と接点が有った、数少ない人物の1人である(本記事では以下「花輪」と表記)。 一家は日本平にある病院を経営しており、白い豪邸に住み、車庫には高級車が3台並んでいた[† 12]。 浜崎曰く、気さくな性格で、ぽっちゃりとした体型だった。20代はバイクに乗って北海道や九州に旅行した。飲酒とソウルミュージックを好み、運動は嫌っている[40]。
さくらとは小学校から高校まで同じ学校に通っており、家で一緒に遊ぶなど仲が良く、彼女が将来は漫画家になると確信していた。高校卒業後、花輪は東京の専門学校へ進学する。後にさくらが短大卒業後、就職のために上京する際に住まい探しに協力し、よく一緒に遊んだ[† 13]。さくらが出産した際にも、お祝いに訪ねている。 さくらについて、怠惰な側面は有るものの、興味を持ったものへの情熱が凄いと、また記憶力も尋常ではないと評している。 浜崎とは20代半ばに同窓会で再会しており、FMラジオに出演していた事も噂で知り、「僕、はまじ」にも目を通していた。「はまじと9人のクラスメート」に掲載する取材の依頼も快諾し、彼女の病院で行われた。この時点では既婚であり、家業の病院(院長は弟)に勤めていた[74][75]。
- 丸尾末男(丸尾君)
小学5・6年次の浜崎のクラスメイト(本記事では以下「丸尾」と表記)。 彼の家は体操着やスクールコート、学生服などの販売店を経営していた。母親は「ちびまる子ちゃん」で描かれた「丸尾君」の母親と実際に似ており、参観日には着物で来ていた[76]。 作中の「丸尾君」と同じく分厚い黒縁メガネを掛けていが、実際には坊主頭だった。クラスでは最上位の成績で、学級委員長を務めていた。一方で運動(特に球技)は苦手だったものの、昼休みのサッカーではディフェンダーを務めていた。浜崎曰く、一つの事をじっくり考えるタイプ。「ズバリ〇〇でしょう!」とは喋らないものの、得意な事には饒舌だった。 野菜をひどく嫌っており、給食に出ると沈鬱な様子を見せた。だが、彼は他のクラスメイトのように長谷川に頼まず、(浜崎を含む)周囲のからかいを受けつつも、昼休みや5・6時間目も口を少し動かしながら食べていた。授業が終わってもそれは続き、最終下校時刻が近づいても残っていた時は、担任が野菜をカップに詰めて持ち帰らせた。 浜崎はからかうため、ある休み時間に丸尾の眼鏡を奪って逃げたところ、凄まじい形相で追い掛けたため、恐怖を感じた浜崎は本気で逃げる事となった。以降、浜崎が近づいただけで眼鏡に手を当て、睨み付けるようになった[77][† 14]。 小・中学生の9年間は一度も休まず登校した。小学5・6年時代が一番記憶に残っており「インパクトの強いクラスだった」と振り返っている。
浜崎とは別の中学校に進学する。高校時代は長谷川と同じ静岡県立清水東高校に通っており、国立競技場に応援に行った事も有る。静岡大学を卒業し、大手コンピューター会社の重鎮にまで出世した[40]。 潔癖症気味で、自身が所有する自動車をマメに洗っていた。加えて同居していた頃は、全く洗車をしない姉の車両も洗っていた。40代になって結婚し、自身の家も建てた[74]。 「ちびまる子ちゃん」がアニメ化される頃に、原作者のさくらが元同級生と知った。同時に、周囲から「丸尾君のモデル」と呼ばれるようになった。「〇〇〇のモデルはいるの?」ともよく聞かれるようになったが、原作漫画もアニメ版も知らない丸尾は答えられなかった。 前述の嫌がらせを受けたにも関わらず、成人後の浜崎との関係は良好で、PC関連の相談によく乗っていた。多忙にもかかわらず、「はまじと9人のクラスメート」に掲載する取材の依頼も快諾した。「僕、はまじ」も目を通しており、面倒臭がりの浜崎が書いたとは信じられず、出版社に依頼されて書いたか、ゴーストライターによる執筆と疑っていた[78]。
- 富田太郎(ブー太郎)
小学3・4年次の浜崎のクラスメイト。作中のブー太郎と同じ髪型で、同様に小太りで頬が赤かった。実際の通称は「アカベー」だった。 一家はスーパーマーケットを営んでいた。自宅はその裏手にあり、浜崎は土曜の午後によく遊びに行き、そこで発売されて間もないカップラーメンを初めて食べた。また、大洋ホエールズのファンで、浜崎も影響を受けてファンになった。カラーボールとプラスチックのバットを使って、よく神社で一緒に野球を楽しんだ[79][40]。 30代の頃、浜崎はサッカー観戦の最中に、恋人を連れたアカベーと再会し、営業の職種に就いていると聞かされた。数年後、「はまじと9人のクラスメート」の取材を依頼しようとしたが、アカベーとの連絡は付かなかった。2018年のさくら没後、浜崎の呼び掛けに応じて寄せ書きに加わった[80][81][† 15](後述)。
- 野口笑子(野口さん)
小学3~6年次、中学1年次の浜崎のクラスメイト(本記事では以下「野口」と表記)。 浜崎曰く、作中の「野口さん」とは容姿がよく似ており、同様に大人しく控えめな性格だった。その反面、作中の描写とは異なり、芸人やドリフターズは特に好んでいなかった。九官鳥のような高い声だった。 浜崎とはたまに事務的会話をする程度の間柄だった。通称は「のろ」で、そこから転じて「野口」という苗字をさくらは設定したと浜崎は推測している。家庭内では母親とよく衝突し、母親は担任教師へ告げ口をしたため、担任からは良く思われていなかった。小学校の卒業アルバムの文集において、野口だけが3年次の戸川の思い出を綴っている[82]。
同級生のさくらが漫画家になったのは知っていたものの、アニメ版「ちびまる子ちゃん」はあまり視聴しなかった。そのために作品をよく知らず、周囲から「野口さん」のモデルと言われる事も無かった。浜崎が出演していたエフエムしみずの番組が職場で流れ、通称が「のろ」の同級生の話題が上がり、そこで自身がモデルと知った。 高校卒業後は長年にわたりスーパーマーケットの店員を務めていた。離婚歴が有る。SMAPのファンだった。 中学卒業後は疎遠だったものの、浜崎から「はまじと9人のクラスメート」に掲載する取材の依頼を受け、快諾した。野口の自宅の近くにあるファミリーレストランにて22年ぶりに再会し、浜崎が持ち込んだラジオカセットレコーダーで録音しながら、取材は行われた。出版後、浜崎から同作を手渡され、野口は面白かったと伝えた[83][74][84]。
- 冬田美鈴(冬田さん)
小学校の全学年を通した浜崎のクラスメイトで、中学校も同じだった(クラスは別)。 作中の登場人物と同様に、天然パーマの髪質だった。ずっとおとなしく、運動も勉強も苦手で、存在感は薄かった。同級生からの通称は「バルタン」。給食の時に嘔吐した事があり、それ以来同級生からは嫌われ者だった。 彼女も泳げず、小学3年次には浜崎と同様に、戸川による過酷な授業を受け続けた。小学6年次には、理科の実験中にアルコールランプを倒してしまい、ボヤを起こした事がある[85][† 16]。 十代で早々に結婚した。成人式の際には、清水第八中学校の代表として、晴れ着姿でプラカードを掲げており、その様子を目撃した浜崎とカニエイは爆笑した。その後の消息は不明[86][40]。
- 折原まさる(折原くん)
入江小学校に転校してきた、浜崎の5・6年次のクラスメイト、および中学時代の友人。 伊豆の稲取出身。同級生からの通称は「マッコウ」。作中の「折原くん」と同様に浅黒い肌をしており、「インド」と呼ばれる事もあった。その一方で、小学生時代から丸刈りで、逞しい体格だった[76]。 担任の浜田(後述)が設立した金管バンドに入り、トロンボーンを演奏していた。その影響を受け、浜崎もトロンボーンに憧れるようになった。中学時代には浜崎と同じ吹奏楽部に入り、フルートに転向していた。浜崎と一緒に、地元の稲取に泊まり掛けで遊びに行く事もあった。卒業後は浜崎とは別の高校に進学し、その後については浜崎は著していない[87]。
- 大石(大石先生)
戸川の異動に伴い、1年間限定で入江小学校に赴任した、推定40~50代の女性音楽教諭。浜崎の4年次の担任を務めた。 「放課後の学級会」で描かれた通りの心優しい教師だった。プールの授業では、前年度は泳げずに脱走を繰り返した浜崎をつきっきりで指導し、結果的に平泳ぎもクロールもできるようになったため、周囲のクラスメイトを驚かせた[11]。 分厚い眼鏡が特徴で、生徒から素顔を見たいと言われても、笑顔を浮かべながら理由を付けて断っていた。眼鏡を取り替える際には、両手で別々の眼鏡を持って一瞬で替え、決して素顔を見せなかった[14]。
大石の離任による「お別れの会」にて、浜崎は悲しみをこらえるため、ふざけたような発表をした。だが、いざ大石がお別れの言葉を話す時に、浜崎の脳裏には1年間の思い出が蘇り、遂にこらえきれずに泣き出した。その後、生徒から「最後に素顔を見せて下さい」と言われると、「少しだけですよ」と初めて眼鏡を外し、周囲から歓声が上がった[88]。 さくらは大石が2013年春に死去したと語っているが、浜崎は2019年頃の時点で、介護施設で存命と関係者から聞いたと証言している[89][90][† 15]。
- 戸川秀之(戸川先生)
「ちびまる子ちゃん」の3年4組の担任教師である戸川先生のモデルは、以下の2人と言われている[91]。
- 戸川
1974年(昭和49年)度における入江小学校の3年4組の担任教師。当時は推定20代後半。短い髪をオールバックで固め、サングラスを掛け、肌は浅黒く、橙色のTシャツと紺色のジャージを着ていた。かつては中学や高校の教諭だったと、野口(のモデル)は聞いたと証言している[83]。 浜崎が「家来」と呼ぶような忠実な生徒もいた。その反面、プールの授業にて浜崎に暴力的な指導を与え、不登校に追いやった(前述)。他にも、以下のような言動を取っていた[40][92]。
- 冬でも教室の窓を開けさせ、生徒には体操着の服装を強要した。
- 塾に通っている生徒を除き、男子はサッカー部に強制的に入らされた。正当な理由も無く練習に来なければ、(複数名でも)戸川から平手打ちを浴びた。
- 授業中に生徒の姿勢が正しくないと、1メートルの物差しを背中に入れさせた。
- 授業中に教室で喫煙した。
- 学級対抗リレー大会の当日に、生徒に「魔法のジュース」と称してウィスキーを飲ませた。
- 保護者(浜崎の両親)の前では、紳士的に振舞った。
鼻血が出る程生徒を殴打したり、ウィスキーを飲ませたりした事には、保護者からも苦情が届いた。結果的に、通常は2年間クラスを受け持つにもかかわらず、1年で異動となった。1975年3月31日の離任式にて、戸川の異動が突然発表された。急遽開かれた「お別れの会」にて、戸川は「1年間色々ありがとう」と話し、涙を拭った。戸川を囲んで別れを惜しむ生徒もいたが、浜崎は自席から遠巻きに見ていた。 中学1年次の夏、3年4組の同窓会が催されたものの、浜崎は参加しなかった。参加した女子生徒から「浜崎に会いたかったよ」という伝言を受け取ったものの、戸川への嫌悪感は変わらなかった。それから数年後、戸川は肝臓を病んだ末に死去した。浜崎がその事実を知ったのは20年以上経ってからだった[† 17]。 保護者の苦情により校長や教育委員会に咎められたと、そして「プールに入らなくていい」と言った頃からの戸川はもはや本調子ではなかったと、浜崎は推測している。また、彼は熱心すぎただけかもしれないと振り返り、同窓会に出なかった事を悔やんでいる[94][11]。
- 浜田洋通
1976年(昭和51年)度および翌年度における、入江小学校の5年3組および6年3組の担任教師。当時は20代後半。浜田にとって、浜崎の学年は初めての卒業生だった[63]。 音楽に対する関心が深く、浜崎の小学4年次にバトンクラブおよび金管バンドというクラブを自ら設立し、生徒を勧誘していた。浜崎も密かに金管バンドに憧れており、浜田から誘われた事もあるものの、ワタから「今から入れるパートは打楽器しかない」と言われていたために断った[11]。 2005年9月、清水市立第八中学校の元吹奏楽部の卒業生を主体とした、清水区の市民吹奏楽団「清水イルコンパーニョ」を設立し、2025年3月現在も活動を継続している[95][96][97][98]。
日曜日などの休日には、生徒達をミカン狩りやイチゴ狩りに連れていった。その時や遠足や運動会において、生徒を8ミリフィルムで撮影していた。浜崎は自分が映りたいがために、しばしば他の生徒の撮影時にも邪魔をしていた[99]。 浜崎はおしゃべりやふざけた態度が過ぎて、(戸川とは違って手加減はしつつ)浜田からも平手打ちを浴びる事があった。他にも、終業前の「帰りの会」にておしゃべりが止まらないと、クラスの生徒全員を体育館に連れていき、舞台を1人につき往復百回拭かせる事が、2年間に約15回有った。浜崎は後年「生徒の扱いが上手だった」「生徒の特性を察して、花を開かせる手伝いをしていた」と評している[100][14][85]。 さくらの没後に浜崎と再会し、何度か顔を合わせていた(後述)。
- 上記以外
藤木茂(藤木くん)、笹山かず子(笹山さん)、吉川みどり(みどりちゃん)など、名前だけ由来するモデルもいると証言している[101][102]。なお、永沢君男(永沢君)のような同級生はいなかったと断言している[45]。
その他の友人[編集]
- カニエイ
小学校入学以来の、浜崎にとっては生涯で一番の親友。中学以降は、浜崎がジャイアント馬場のモノマネをする事から、彼を「はまじ」ではなく「ババ」と呼んでいた。 クラスメイトだったのは小学1・2年次のみだった。小学1~4年次(登校拒否の3年次を除く)、よく浜崎はカニエイに誘われて遊んだ。その後3年間は疎遠となり、中学時代のカニエイは野球部に所属した。中学2年次から再び彼と遊ぶようになり、同じ橘高校に通学していた頃は、毎日のように一緒に遊んだ。入学から半年で退学した浜崎とは異なり、カニエイは厳しい校則を乗り越え、同校を卒業した。成人後も清水に住み続け、フォークリフトのオペレーターを務めた。浜崎との友情は半世紀にわたった[103][18][104][† 15]。 「はまじと9人のクラスメート」にも、1ページの短文ながらもカニエイが紹介されている[105]。他にも、浜崎は以下のカニエイの逸話を綴っている。
- 小学1・2年次、浜崎はカニエイに誘われ、特別学級の上級生をつけ回したり、ホームレスの住処に潜り込んだりしていた[3]。
- 4年次にもカニエイに国道に誘われ、スーパーカーブームに備えて車種を暗記させられた。この知識のおかげで、ブーム到来時には人気者になれた[18]。
- 中学3年次、余った朝食の菓子パンをねだりに、学校帰りに浜崎の自宅に毎日押し掛け、相手にされないと浜崎の家族を囃し立てる歌を唄った[18]。
- 高校入学後に浜崎をしつこく空手部に勧誘したものの、自分から先に退部した[20]。
- 1982年、高中正義のライブ終演後に楽屋周辺で出待ちをし、高中に着ているTシャツにサインしてもらった直後、感激の涙を流した[106]。
- 高校卒業時は、高中のようなスタジオミュージシャンに憧れ、就職しなかった[30]。
- 浜崎が上京した後も頻繁に手紙を往復した[1][29]。
- 桜が散る前にと、雨天で浜崎と花見を行った事が有る。また30代前半までは、大晦日の夜は2人で、酔いながら神社を歩き回るのが恒例だった[107][108]。
- 成人男性としては珍しく、父母と(親の片方と別々に)旅行に行った事が有る[103]。
- 30代後半の頃、130万円のアコースティクギターを購入した[74]。
- 一時期は故障したバイクの修理に没頭していた。神戸まで片道8時間を掛けて軽トラックを運転し、機体を購入・搬送した事も有る[74][103]。
- 中学時代から中年に至るまで、浜崎の耳を「芸術的な耳」と称して、度々触ったり舐めたりしていた[74]。
- ワタ
小学校の全学年を通した浜崎のクラスメイトで、中学時代までの親友。浜崎を「はまじ」ではなく「ハマヤン」と呼んでいた。太川陽介に似た色黒のハンサムで、女子に人気があった。一方で、浜崎と同様に学力は乏しく、中学1年次は浜崎と同じく期末試験後の補習を、部活により免除されていた[6][18]。 小学3年次、浜崎と異なり泳げるものの、浜崎の脱走に協力したり、共に登校せずにデパートで遊んだりして、共に戸川から平手打ちを受けた事がある。小学5・6年次には、浜崎の片想いの相手だった杉ちゃんという女の子と恋仲になっていた[109][8]。同じく小学5・6年次には金管バンド部に所属し、アルトホルンを担当した。
中学入学時は浜崎を吹奏楽部に、そして同じホルンに誘った。初心者の浜崎を励まし、彼が中部地区大会での演奏で失敗しても慰めた[16]。 同大会が終わった秋から、ワタは練習を休みがちになった。1年次の2月、顧問から練習しない事を浜崎と共に咎められた。その際、浜崎は部活を続けると表明したのに対し、ワタは退部した(動機は不明)[† 18]。中学卒業後の2人の進路は異なり、疎遠となった。浜崎は20代後半の時にワタを見掛けたが、髪が薄くなっていたと語っている[111][17][19]。
- ニモネニ
小学4年次に同じ理科委員会に所属した知り合いだったが、中学時代から仲良くなる。 母親は飲み屋を経営していた。丸い顔に大きい目、高い鼻が特徴的で、浜崎曰く「女子にもてそう」。運動は得意ではないものの野球を好み、中学時代は野球部に所属していた。中学3年の時に、花輪(のモデル)からラブレターを渡されると、その場で読まずに破り捨て、彼女を泣かせた事がある。 素行不良な側面があり、家のウイスキーを盗んだりタバコを吸ったりした事が発覚し、教師から体罰を受けた事があった。部活終了後に浜崎をゲーム喫茶に誘い、深夜まで遊ぶ事もあった。浜崎と同じく橘高校に進学するも、浜崎の後で同じく退学し、その後は騒音を鳴らしながらバイクを乗り回していた。
成人後も浜崎との交流は続いた。浜崎の通信制高校の体育祭の時に1人で応援に訪れ、2人だけでバーベキューを催し、ロックバンドを組み、共に酒気帯び運転で逮捕されるなど、多くの時間を共にした。 だが、後年の浜崎は駿河区に引っ越した事に加え、酒に酔ったニモネニの口調が乱暴になり、「俺は結婚できないんじゃないか」とぼやく言動を苦にして、2013年から1年半にわたり会わなかった。2015年2月、誕生日の翌日夕方に体調を崩して横になり、間もなく急死した。49歳没[112]。
- ラムー
小学3年から6年までの浜崎のクラスメイト。鉄道マニアだった。中学時代は同じ吹奏楽部に所属し、フルートを担当した。 入江小学校の近所で、代々理髪店を営んでいる。6年間修業した末に家業を継いだ[113]。 中学卒業後は浜崎と疎遠となったものの、後年彼のブログに書き込むようになった。6年3組の卒業文集を浜崎に提供している。また、静岡第一テレビや週刊女性からの浜崎への取材依頼を仲介した[63][114][115]。
家族[編集]
- 実父
青森県出身。遠洋漁業の船員で、出港すると3カ月から半年は家を空け、帰港すると妻子に現金や土産を渡していた。酒と賭博を好み、趣味はフグ釣りと競輪場通い。 妻(浜崎の母)は元々賭博を嫌っていたのに加え、実父の酒量が増え、仕事も怠けるようになると夫婦仲は悪化した。ついに浜崎が幼稚園を卒園する頃に離婚、母子は逃げるように家を出て、清水市恵比寿町の長屋に引っ越した。数カ月後、母子の買い物から帰ると、その長屋の前で実父が立っていた。それを見た母は、子供達を急いで自宅に入れ、雨戸も閉めて実父(元夫)を拒絶した。 浜崎が小学3年または4年次のある夜、水商売の母は不在で、代わりにお手伝いがいた時に、実父は酒に酔った状態で、突然母子の長屋を再び訪問した。海外での体験談を聞きつつ、浜崎は幼い頃によく見せてもらったビックリボールの手品をねだったが、その時の実父は上手くできなかった。数日または1カ月後、実父は再び長屋を訪ねたものの、母から言いつけられたお手伝いによって立ち入りを拒まれ、ケーキを残して帰っていった。それが浜崎が見た実父の最後の姿となった。 浜崎が16歳の時、実父は喉に何かを詰まらせて死亡した。長年疎遠だったため、浜崎はその訃報に接した時はあまり驚かなかったものの、後にもっと接したかった、もう一度手品を見たかったと惜しんでいる[116][117][118]。
- 義父[† 19]
母の再婚相手[† 20]。土木工事や基礎建設を行う、従業員が2~3人程度の小さな会社を経営していた。 小柄だが筋肉質の体格で、眼鏡を掛け、七・三分けの髪型をしていた。自らの職業に愛着を持ち、業務関連の電話では丁寧な口調だった。愛煙家で、毎日ピースを4箱吸っていた。一方で酒は弱く、少し飲むだけで顔を真っ赤にしていた。金銭は賭けないものの、競馬の観戦を好んだ。 小学2年生になった頃、母から「友人」として紹介され、何度か食事や遊園地で一緒に過ごし、やがて母子の長屋に同居するようになった。小学3年次の夏には娘(浜崎の異父妹)が生まれ、その成長を楽しみにしていた。妹の運動会や父兄参観日にもよく足を運んだ。 中学時代の成績が悪化した頃は浜崎を叱り、「高校には絶対に行きなさい」と厳しく申し付けた。数々の問題を起こした浜崎の弟(後述)の結婚式では、浜崎曰く「素晴らしいスピーチ」を披露した(詳細は不明)。浜崎が頸椎骨折により入院した時は、よく見舞いに足を運んだ。
小学3年生の登校拒否で殴られた事や、弟と喧嘩した時は(弟が悪い時でも)浜崎ばかりが怒られる事から、義父を嫌うようになった。その一方で、連れ子の自分を養い、高い費用を払って入学した私立高校の中退を許し、通信制高校を転校する際の実家への出戻りを受け入れてくれた事には感謝しており、2人の微妙な関係は成人後も続いた。 浜崎が31歳のある早朝、義父は「背中が痛い」と叫びながら床の上を転げ回り、直後に搬送された病院にて肺癌の診断を受けた。抗癌剤と放射線による治療が始まり、体は痩せ細り、あらゆる毛髪は抜け落ち、痛みに耐えながら片方の肺を焼いた。その後は入院と退院を繰り返し、結局は肝臓などに癌が転移した末に死去した[† 21]。67歳没。浜崎は義父の生き方を「真面目すぎた」と評し、亡くしてからその大切さが胸に染みたと綴っている[116][119][120]。
- 母
昼は冠婚葬祭の、夜は水商売の職業に就いていた。離婚により旧姓に戻し、浜崎とは苗字が異なった。 「ちびまる子ちゃん」に登場するはまじの母親とは異なり、実際には口うるさい言動は無かった。その反面、家族に対しても隠し事が多く、加えて息子の浜崎を騙す事が時々有った。
幼稚園時代、母は滅多に遠足には来ず、仕方なく教諭(先生)と同伴する事が浜崎には大いに苦痛だった。小学1・2年次、ナンパ対策として浜崎をデパートの買い物によく連れ回した。同時期、夜に浜崎は託児民家へ預けられ、威張った上級生のために窮屈な思いで過ごし、深夜には母に友人の飲み屋へ連れていかれ、十分な睡眠も取れずに翌朝には登校する事が何度か有った。 義父との正式な婚姻を拒み、事実婚の状態で娘(浜崎の妹)を出産した。小学5年次から、それまでは忙しいから行けないと言っていた父兄参観日や運動会に、妹を見せびらかしに連れて来るようになった。その度に女子から「はまじの妹?似てないね」「はまじの妹可愛すぎ」と冷やかされるのが嫌で、浜崎は日程を伝えないようにしたが、どこからか情報を拾った母は必ず妹と共に現れた。 中学以降、浜崎は義父とはほとんど口を利かず、代わりに母と話した。母と義父の間で口論は多かったものの、彼の癌治療の入院中は毎日病院を往復した。義父の死後は、かつて5人が暮らしたアパートに浜崎と母の2人で暮らしていた。やがて戻ってきた妹との関係の悪化に加え、住居に衣服や缶・瓶を捨てずに貯めて「ゴミ屋敷」に変え、挙句に方々で借金を作る母に愛想を尽かし、浜崎は40歳頃に密かに家を出た[34][† 22]。
2013年8月11日、熱中症により急死[† 23]。75歳没。最も費用の安い永代供養の形で、静岡市葵区の愛宕霊園に葬られた。70~80万円の借金が有ったため、3人の子供は相続放棄を行った。同時に多数のゴミを残しており、浜崎も手伝ったものの、多くは妹が清掃工場へ運ぶ羽目になった。 浜崎は母について「まったくどうしようもない母だった」「自分のことしか考えないタイプ」と恨み言を述べている。その一方で、家族の中では母の存在が最も大きいとしており、時折墓参りに足を運んだ[121][122]。
- 祖父母
母方の祖父母、草薙在住。浜崎は幼稚園の頃までは同じ町内に住んでいた。 子供は女ばかりの5人姉妹だった事もあり(母は三女)、浜崎や弟は可愛がられた。一方で、幼稚園児の浜崎が母親の財布から金銭を盗んだ時は、祖母も厳しく叱った。春休みなどの長期休暇になると、祖母の家に泊まりに行くのが恒例だった。10歳の浜崎が溝に転落して脚を負傷し、手術から帰った直後は一晩中、祖母が傍で汗を拭った。祖父は91歳頃で死去した[2][14][102][† 24]。
3~4歳の頃に死亡。並外れた記憶力を誇った浜崎ですら姉の記憶は無い。浜崎が熱湯をこぼしたために熱傷で死んだと、母親が話しているところを密かに耳にしたと浜崎は語っていた。幼稚園時代に女の子のような服を着せられたのは、亡き姉の影響と浜崎は推測している[121]。
- 弟
3歳下の実弟(同父母)。同居していた頃は、必要最低限の会話や協力はするものの、基本的には兄と不仲だった。他の家族と比べると、浜崎は弟については多くを語っていない。 兄の卒業と同時に清水八中に入学し、母の言いつけで渋々同じ吹奏楽部に入部した。ウッドベースを担当し、3年次には全国大会への出場を果たした[17]。 浜崎曰く、若い頃は人の金、大事なものを平気で盗み、借金やシンナーで散々迷惑を掛けるなど素行不良だった[15][† 26]。結婚後は妻の姓を名乗っている(但し婿養子ではない)。妻は社会保険事務所へパートとして勤めており、浜崎が叔父の相続(負債)を放棄する際に助力した[123]。 母の死後、引越後に連絡を絶っていた浜崎を、葬儀代を分担させるために探し当てた。それから約10年後、兄の浜崎も埋葬する事となった[121][99]。
- 妹
9歳下の異父妹。浜崎の登校拒否の最中に生まれ、父親(浜崎の義父)に溺愛されて育つ。その誕生により家庭の雰囲気は明るくなり、一家の中心的な存在となっていった。浜崎も兄としての愛情を持っていたものの、逆に自身と弟は最も立場が低い事への鬱屈した心情も抱えていた。
浜崎が小学校高学年の頃は、共働きの両親に代わってよく妹の面倒を見ており、その度に小遣いを受けていた。中学1年次は、幼稚園児となった妹に構う機会は減り、逆にオルガン教室に通っていた妹に楽譜の読み方を教わっていた。 義父は妹の写真をよく撮影し、運動会や父兄参観日に頻繁に足を運び、妹が欲しがる物は何でも買い与えた。中学生になるとバレーボール部に入ったが、自転車に乗れないため、義父が車で送り迎えをしていた。同時期に光GENJIに熱狂し、義父の負担でコンサートに行った。 高校時代はロックバンドの追っかけを始め、渋谷などのライブハウスへ行く費用を義父に無心し、度々口論になっていた。同時期、憧れのベーシストがいたためにベースギターを購入し、浜崎に弾き方を教わったものの、1週間足らずで断念した。 高校卒業後は東京のデザイン専門学校に進学し、義父の仕送りで渋谷区大官山のアパートに住んでいた。同校卒業後はパチンコ屋などでのアルバイト生活となった。 東京在住中に義父を亡くし、その葬儀で妹は泣き崩れた。その後、2003年頃に浜崎と母のアパートに戻り、専門学校に通って資格を取得し、後に貸ホールの受付やビジネスホテルの主任を務めた[† 27]。家族間の関係悪化を苦にして浜崎が無断で引っ越した後は、母と2人で暮らしていた。浜崎曰く、妹も母と同様にいつまで経っても不要物を捨てない性分だった。浜崎とは母の葬儀で再会したものの、ゴミ捨てを巡って言い争いとなり、そのまま音信不通となった。結果的に、兄妹の関係は最後まで修復する事は無かった[34][124]。
著作[編集]
僕、はまじ[編集]
2002年2月、彩図社より出版。 高校卒業並びに失業後、20代後半から図書館に入り浸り、オカルト雑誌・ルポルタージュ・伝記を読み漁るようになった浜崎は、自身も著書を出したいと考えるようになった。そこで「はまじ」を題材にした自叙伝の出版を構想し、2トントラックの運転手を務めながら、34歳の時に8カ月で約280枚の原稿用紙を書き上げた[125]。そして雑誌「公募ガイド」に掲載された自費出版社の中から、料金が40万円と明記されていた彩図社のぶんりき文庫に応募した[† 28]。 1~2週間後の夜、彩図社から電話が掛かり、出版の条件として文章を直す事、そしてさくらに表紙の絵を描いてもらうよう依頼する事だった。後者は出版社の役割だと浜崎は難色を示したが、同級生だった浜崎から依頼する方が話しやすく、加えてさくらプロダクションの連絡先がわからないためと説明された。浜崎も東京在住の妹に調査を依頼しても見つからず、フジテレビに直接問い合わても教えてもらえず、出版を諦めかけた。 数日後、さくらと仲が良かった山田の存在を思い出し、連絡を取って事情を説明したところ、さくらプロダクションの所在地を教えてもらった。そして表紙絵の作画および漫画「ちびまる子ちゃん」の挿絵の引用許可を依頼する手紙をさくらに送り、了承を受けた(前述)[† 29]。その後、何日も掛けて文章の添削や追記を繰り返した末に、本書は完成した。なお、「僕、はまじ」という題名は、彩図社が立案・決定した[54][55]。
発売前に彩図社が書店に注文書を送ったところ、全国の書店から予約注文が殺到したため、当初は3千部の予定だった初版は2万5000部となり、最終的には6~7万部に達した。発売直後にワイドショーで紹介され、浜崎には友人・知人から引っ切り無しに電話が掛かった。東京と清水でサイン会を行い、「めざましテレビ」の取材も受けた[128][126][129][33]。 だが、編集者の草下シンヤが「ちびまる子ちゃん」の一部のカットを、書店の販売促進用のポップに無断で使用したため、さくらプロから抗議を受けた。彩図社は謝罪の上、印税の支払などを提案したものの、さくらプロは一切の交渉を拒絶した。結果的に本書は絶版となった[127][† 30]。
2022年5月、「ちびまる子ちゃん」の挿絵を除去し、一部の表現を修正し、且つあとがきを加筆した形で、文庫版として再び彩図社より出版された[130]。
はまじと9人のクラスメート[編集]
2003年12月、徳間書店より出版。 題名の通り、主にかつてのクラスメイトに焦点を当て、取材した内容が中心である(前述)。なお、前作の著作権侵害の問題が有ったにもかかわらず、さくらは本作にも「ちびまる子ちゃん」の引用を許諾している。
前作の後、書き溜めていた体験談が多くなり、再び自費出版を企画した。そこでさくらプロダクションに許可を取ろうと連絡したところ、徳間書店の編集者である石井健資を紹介された。浜崎は、UFO関連の書籍に名を連ねていた石井に親近感を抱き、彼の意向通りに「ちびまる子ちゃん」を深く掘り下げた本作を上梓した[55]。 だが、本作は2万部発行したものの、売れ行きは振るわなかった。この商業的失敗により、浜崎は長らく商業出版とは疎遠になった[131][132]。
はまじとさくらももこと三年四組[編集]
2020年2月、青志社より出版。前作から約16年ぶりの商業出版となった。 既に上梓した2作の内容を抜粋し、且つさくら没後の浜崎の動向を加筆している(後述)。過去の2作とは異なり、「ちびまる子ちゃん」の挿絵は無い[133]。
2019年、「NHKニュース」にてさくらの一周忌の様子が放送され、そこで浜崎がさくらの手紙などを寄贈した事が言及された。それを視聴していた、かつて「僕、はまじ」の宣伝等に協力した文筆家兼出版コーディネーターの臼井正己は、浜崎の過去作の内容に加え、さくら没後の心境を綴った書籍の出版を思い付いた。青志社社長の許可を得て、「はまじの本なんて今更売れない」と難色を示す浜崎への説得を繰り返し、遂に出版に至った[134]。 だが、発売直後にコロナ禍が始まったため、販売促進のサイン会や出版記念イベントを開催できない状況となった。結局は浜崎が予想した通り、本書も商業的には不振だった。前述の「僕、はまじ」文庫版を除き、結果的に本作が浜崎の最後の商業作品となった。なお、浜崎の没後に増刷されている[131][132]。
さくらももこ没後の動向[編集]
ブログ[編集]
2018年8月27日午後7時30分、さくらももこのオフィシャルブログにおいて、彼女の訃報が公表された[135]。その直後から、浜崎のブログにはマスメディアからの取材依頼が殺到した。訃報から数時間後、浜崎は以下の声明を発表した[136][137]。
みなさまへ
ご冥福をお祈り申し上げます。
この度はさくらももこさんの逝去を知り、とても驚いている次第です。
このことは、アニメを観ている方々なら誰でもそうだと思われます。
最も近い彼女とのやり取りとして、昨年2017年6月に彼女の事務所へ、わたしの脚本の審査を行ってもらいました。落選でしたけど、読んでくれたということで、とてもありがたく思っておりました。
事務所経由の年賀状は、毎年行っておりました。
さくらさんとは入江小学3年、4年、5年、6年、中学2年、3年と多くを同じクラスで過ごしていました。その過程でわたしをアニメに抜擢したのはなんでしょうか。さくらさんにとって印象にあったのでしょう。
正直、おーい、なんでお前が先なんだよー、と思います。ぼくとしてはとても切ないです。
翌日も、より長い文章で彼女の思い出を綴った。その後も断続的に、周辺で見聞きしたさくら関連の追悼行事等をブログで紹介していた[52][138][12]。
寄せ書き[編集]
訃報から間もなく、さくらのために出来る事を考えていた浜崎は、小中学校の同級生などによる寄せ書きを遺族に贈る事を思い付いた。色紙を購入し、週末(10月28日)に入江小学校に来てくれるよう、ブログで元同級生に呼び掛けた[139]。 ブログを閲覧した同級生はわずかだったが、事前に相談した山田が同窓会の幹事に連絡し、そこから情報を受け取った同級生が駆け付けた。その流れで恩師の浜田とも再会し、小学校高学年時代の遠足や運動会の様子を撮影した映像のDVDを受け取った。「お別れの会」(後述)でも、アニメ版の声優陣やアナウンサーの笠井信輔から寄せ書きを受けた[81]。 そして顔見知りのさくらの親族女性に(前述)、さくらの両親へ寄せ書きや前述のDVDを渡してもらうよう託した。後日、さくらの両親から「とてもありがたかった」という主旨の手紙を受け取った[140]。
お別れの会[編集]
10月15日、浜崎はさくらプロダクションから「さくらももこさん ありがとうの会」を11月16日に青山で開催するとの案内を受け取った。そこで元同級生と一緒に参加しようと考えたが、同社から出席できるのは関係者のみと伝えられた。 生前のさくらとは親密ではなかったにもかかわらず、多くの同級生を差し置いて出席するのに気が引けた浜崎は、山田の説得も振り切って出席しない意向だった。だが、開催間近になって繰り返し取材を依頼する「直撃LIVE グッディ!」のディレクターに興味を持ち、その上交通費を負担すると提案されたため、結局は行く事になった。 前日に清水のちびまる子ちゃんランドで取材を受けたものの、その模様は放送されなかった。新橋でカプセルホテルに泊まった翌日、普段着のまま青山の会場に向かった[† 31]。入江小学校の関係者では、浜田や山田と顔を合わせた。 賀来千賀子やTARAKOによる弔辞を聞いている最中は、涙がとめどなく流れた。さくらの関係者に寄せ書きを依頼している最中、アニメ版のはまじ役であるカシワクラツトムと会い、2人で同時にはまじを演じて周囲を爆笑させた。会の終了後はフジテレビに寄り、貸し出していたさくらの色紙の返却を受け、帰宅の途に着いた[141][142][62][57]。
その他[編集]
- 2018年
- 2019年
- 10月20日 - 入江小学校「ふるさと祭り」に、浜田・杉浦および当時の静岡市長の田辺信宏と共に参加した[148]。
その後も、報道機関から度々取材を受けていた[149][45]。
急逝[編集]
時系列[編集]
※以下の日付はいずれも2023年
- 2月25日 - 杉浦と共に昼食を取る。後日、彼は「特に変わった様子はなかった」と証言している[68]。
- 2月27日 - 最後のブログ更新を行う。また「増税ばかりしやがって」と、岸田文雄(当時の内閣総理大臣)を批判するメッセージを杉浦に送り、短時間の交信を行っている[150][99]。
- 2月28日 - 午前8時14分、ブログ読者にコメント欄で返信する。これが浜崎の最後の消息となり、開設以来ほぼ毎日続いたブログ更新は、この日を境に途絶えた[151]。
- 3月9日 - 杉浦がメッセージを送ったものの、浜崎からの返信は無かった[99]。
- 4月または5月上旬 - 浜崎が住む駿河区のアパートの隣人より、浜崎の部屋(郵便物の投函口)から異臭がすると警察に通報があり、死後1カ月以上経過した孤独死の状態で発見された[99]。
- 6月 - 浜崎の訃報が知人の間で拡散する[99][152][153]。
- 8月10日頃 - 浜崎のブログ「のりたかblog」が閉鎖される[† 32]。
- 8月20日 - 過去に浜崎作品の出版に関わった臼井正己によって、尾張アズーリFMの番組「無印本命チャンネル」にて訃報が伝えられた。その直後、週刊女性PRIMEによっても報道された[134][154][99]。
反響[編集]
上記の週刊女性PRIMEによる訃報は、Yahooニュースの「エンタメ」の雑誌アクセスランキングにて首位となった。同様にXでは、訃報に多数の返信・リポスト・引用がなされた。その一方で、アニメ版のはまじ役であるカシワクラツトムの訃報と誤解する者もいた[155][156][157][158]。 急逝が報じられた8月20日は(作中にて設定された)はまじの誕生日でもあり、「ちびまる子ちゃん」公式Xアカウントによるお祝いのポストに対する哀悼のリプライが多数寄せられた。中国語圏のSNSの微博にも、浜崎を悼む声が相次いだ[159][160]。
生前に浜崎と関係が有った、前述の臼井正己や草下シンヤ、役者の田山みきお、静岡県のブロガーの葵桜玖耶(現:あおいさくや)が追悼の言葉を寄せた[161][162][163][164]。面識は無かったものの、翻訳家の久保田祐子、漫画家の浜岡賢次も哀悼している[165][166]。他にも、過去に浜崎と接点が有った人々からSNSにて追悼された[167][168][169]。
評価[編集]
関係者は、浜崎について以下のように回想している。
- 山田かよ子:「一番おかしな同級生」[170]
- 花輪(のモデル):「おちゃらけた奴」[171]
- 丸尾(のモデル):「面倒臭がりな性分」[172]
- 草下シンヤ「シャイでとても優しい方」[162]
- 週刊女性編集者「記者の妻が『ちびまる子ちゃん』ファンだと憶えていて、気を遣ってくれた」[99]
- 隣人の90代女性「家電をすぐに直してくれ、私を気に掛けてくれる優しい人」[99]
- 浜田洋通「目立ちたがり屋のお調子者で、クラスを笑いに包んでくれた」[99]
- 匿名の元同級生「お調子者だけど、凄く真面目で純粋で、寂しがり屋」「どこか憎めない、みんなに愛されている人」[99]
趣味・嗜好[編集]
- オカルト
20代後半は月刊誌「ムー」を購読し、図書館ではUFO関連の書籍に夢中になった。「1999年に人類は滅亡する」というノストラダムスの大予言を信じており、その時が近づくと、友人への年賀状には「あと四年だからこれもやろう」と書くようになった。結局は何も起こらず、友人からはバカにされた。2000年問題も深刻に捉え、カニエイと共に2000年を迎える年越しの瞬間を待ち構えたが、何も起こらなかったために再びバカにされた。マヤ文明の暦法に基づく2012年人類滅亡説も信じ込んだが、やはり何も起きず、それからは人類滅亡説は信じないようになった[54][55][173]。
- 演劇
映画「男はつらいよ」シリーズを好み、自分も渥美清のようになりたいと考え、36歳の夏に映画の出演者のオーディションを受けるようになった。その時は二次審査で落選したものの、2カ月後に短編映画「Shogyo無Joe」の案内を受け、二次審査に合格した(一次審査は免除)。三次審査として、世田谷区上馬のビルで毎週開かれるワークショップに8回通った。補欠合格だったものの、結局は出演する事は無かった[174]。
- ロックバンド
19歳頃からベースギターを弾き始め、長年続けていた。また、インディーズまたはメジャーデビュー当時のX(YOSHIKI)のドラミングに衝撃を受け、ドラムも始めた。通信制高校時代に学友と、並びに30代前半の3年間にカニエイなどの友人とバンドを組んでいた[175]。
- 喫煙
小学3年次、義父のタバコを盗んで吸った。友人の影響を受け、本格的に喫煙を始めたのは高校1年次の夏だった。水泳に打ち込むようになった27歳の頃から本数を減らした。34歳の秋、友人との飲み会の後で頭痛が4日間続いたのを機に、禁煙を決した。2カ月は禁断症状に悩まされたものの、遂に禁煙に成功した[176]。
- 飲酒
実父と同じく酒好きであり、頸椎が骨折しても憶えていない程の酒を飲んだ事も有った。挙句に、その骨折により入院していた最中も、密かに酒を飲んでいた。高血圧の体質にもかかわらず、晩年まで1日2合の割合でお茶割りを飲み続けた[177][31][123]。
- 水泳
持病の腰痛を改善するため(後述)、27歳の時に市内の室内プール施設が開業したのを機に、水泳を本格的に始めた。図書館で教本やビデオを借りて各種の泳法を学び、2週間に1度の割合で、1日に合計2時間、2,000メートル以上泳げるようになった。晩年までプールに通う様子を繰り返し投稿していた[178][179]。
- サーフィン
カニエイの影響で、高校1年次からサーフィンを始めた。カニエイは20代でやめてしまったが、浜崎は50代になっても続けていた[180][181][182]。
- 文筆活動
2006年2月、数十万円を掛けて小説「ぼくの友」を、自費出版社「ホンズペンギン」から刊行した。その後、費用の少ない電子書籍に軸足を移し、多数の作品を発表した。同時に、執筆した小説「若手芸人」を松本清張文学賞に、「裏目の新人」を新潮エンターテイーメント新人賞に応募するも、いずれも一次選考で落選した。アニメ「ちびまる子ちゃん」の自作脚本をさくらプロダクションに複数回申し込んだが、採用される事は無かった[183][184][185][186]。
- アポなし訪問
多忙または面識が無い人物を除き、相手を驚かせようと、事前に連絡もせずに訪ねる事が度々あった。浜崎は「いつも急なのがぼくのスタイル」と語っていた[143][113][101][114][187]。
病歴[編集]
- 腰痛
19歳の時の砂糖(30キログラム)の配送業務、並びに25歳の頸椎骨折により(前述)、終生腰痛に苦しんだ。41歳の時に始めたジャグリングも、腰痛により1年弱で続けられなくなった。症状が悪化するとコルセットを装着していた[32][123][188]。
- 高血圧
21歳頃に測定した血圧は180/90mmHg以上で、1年近く投薬の治療を受けた。49歳の時点でも167/97mmHgだった。なお、浜崎の母も高血圧だった[177][122]。
- 性感染症
風俗店に入り浸っていた頃、亀頭部に白いイボができたが、7年間放置した。その間にイボは15個に増え、泌尿器科にて尖圭コンジローマと診断され、電気メスで焼く事になった。麻酔を掛けられない部位のため、全て焼き切るまで激痛に耐え続けた[177]。
- 痔
30歳頃の時、排便後にトイレットペーパーや便器が血まみれになり、肛門科にて切れ痔と診断された。51歳の時、イボ痔と脱肛が判明し、翌年にジオン注射の手術を受けた。その後に下痢気味および湿疹となり、浜崎は注射の副作用と疑っていた[177][189][190][191]。
- 入れ歯
幼少期から歯磨きを怠り、加えて歯科医を嫌っていたため、歯痛に悩まされていた。21歳頃に歯科治療を受けたものの、30代で上の左奥歯の根が折れ、部分入れ歯となった[177][192]。
- 緑内障
2018年、右目の視界が左目より暗く、視野が欠けている部分にも気付き、眼科で緑内障と診断された。数カ月通院したものの、診察料や薬代の高さから行かなくなり、治療を先送りにしていた。2021年の年初から再び通院し、同年11月には緑内障と白内障の手術を受け、右目の視力は1.2に回復した[193][194]。
- 備考
COVID-19(新型コロナウイルス)のmRNAワクチンは摂取しなかったものの、罹患しなかった[90][† 15]。
逸話[編集]
- 呼称
「はまじ」という通称は、小学2年の授業中に教科書をつっかえながら「はまちの養殖」の箇所を読んだところ、女子から「はまち」と呼ばれるようになり、『はまち → 鼻血 → はまじ』と変遷した。女子のほぼ全員と、それ程親しくない男子からは「はまじ」と呼ばれた。一方で、親友からはの愛称は「ハマヤン」「ハママン」「ババ」などがあった[195]。
- 体格
成人後の身長は178センチメートルと、日本人男性としては比較的大柄だった。幼少期から歯痛や偏食により小食だったが、21歳頃に歯科治療を受けた後は食欲旺盛となり、体重が増えた。27歳で水泳を始めると改善し、50代になっても筋肉質の体格を維持し続けた[192][32]。
- 記憶力
並外れた記憶力(長期記憶)を持ち、オムツを履いていた乳児の頃の記憶も残っていた。過去の出来事を詳細に記憶しており、成人後に再会した同級生も感心していた。その反面、中学時代の楽曲の暗譜や学業にはその記憶力を発揮できず、人並みに苦労した[3][196][1][† 15]。
- 恋愛
成人後に何人かの女性と交際したものの、いずれも結婚には至らず、生涯独身だった[109]。
- 逮捕歴
2001年8月4日、自動車でニモネニと競輪場に行った。その際に現地で、更に帰路の途中に寄った居酒屋でもお茶割りを飲んだ。午後7時頃、清水市青葉町の市道で、車体左側を電柱にぶつける自損事故を起こした。加えて、事情聴取にて飲酒検査の署名を拒否したために逮捕され、清水署の留置場に連行された。 罪状は酒気帯び運転の道路交通法違反。翌日は取調べを受け、写真撮影や指紋・掌紋の採取を受けた直後、母に迎えられて釈放された。静岡新聞に逮捕の記事が掲載され、弟や知人にも知られた。交通違反は6点、行政処分センターの講習(14,000円)を受講した事により免許停止は1日間となった。レッカー代に4万円、罰金5万円を払った。 なお、19歳の時にも原動機付自転車のスピード違反や二人乗り・信号無視・酒気帯び運転により、違反点数が13点となり、同講習を受けて45日間の免許停止となっている[197][198]。
- 水害
小学3年次(1974年)の七夕豪雨において、浜崎が住んでいた恵比寿町は浸水の被害を免れた。一方で1987年8月、寒冷前線により七夕豪雨を超える大雨の時に、新幹線の高架線の脇に停めていた浜崎の乗用車(購入から3カ月)は水没し、買い換えた新しい車両と二重のローンを払う事となった。2022年9月に清水区に集中豪雨が発生した際には、ブログにて被害状況を繰り返し発信した[199][14][200][201][202][203][204]。
- 予言
浜崎は生前、自分は孤独死を遂げ、異臭で発見されるだろうと、自らの将来を予言していた。しかしながら、過去に浜崎が住むアパートで孤独死が発生した事が有るにもかかわらず、彼は対策を取っていなかった[34][205][206][† 15]。
- ブログ
ブログ「のりたかblog」では、過去の体験談や日々の生活、「ちびまる子ちゃん」関連の裏話、静岡県での催し物を紹介していた。主に「ちびまる子ちゃん」ファンからの質問に、浜崎はこまめに返信していた[90][39]。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ↑ 著書では近所にある中学校の校庭の隅で座っていたと、一方で投稿サイトでは自宅に留まり、同級生がランドセルを届けに来たと記されており、相違が見られる[5][6]。
- ↑ 著書では「いつもは仲のいい友達」と、投稿サイトでは「いつも先生に賛成しているやつで、ぼくは気にくわなかった」と記されており、相違が見られる[7][8]。
- ↑ かつて静岡県内の76%の中学校で実施された、偏差値や志望校内順位を判定するための業者テスト。1993年の文部事務次官通知によって事実上禁止され、直後に主催者の東海図書は廃業した。
- ↑ 花輪(のモデル)は、浜崎が退学したという風聞は、元同級生の間で大きく広まったと証言している[21]。
- ↑ 著書では「漫才師になりたいということを伝えてなかった」と、投稿サイトでは「漫才師の弟子になることをダメでもいいから伝えてみた」と記されており、相違が見られる[22][23]。
- ↑ 穂波も後年、池の中のイトミミズなど、さくらが何かを凝視する事が度々有ったと回顧している[43]。
- ↑ 黒板に相合傘を描くイタズラは頻繁にあったと証言している[46]。
- ↑ 会話した時間は、浜崎は20分または40分、さくらは80分と証言している。なお、さくらは浜崎から「お前本当にさくらももこか?」と30回聞かれたと、また「はまじが元気そうで良かった」と綴っている[50][51]。
- ↑ ウェブでは眼鏡を掛けた小学6年次の穂波の白黒写真が出回っているが、それはテレビ番組で製作された、卒業アルバムの写真に眼鏡を合成したものである。
- ↑ アニメ版第2期23話「とくちゃんはお人よし」では逆に、石鹸を盗んだ同級生をかばうために罪をかぶるという話になっている。
- ↑ 同様に長谷川の妻は、夫が大野けんいち(大野君)のモデルでもあると主張している[72]。
- ↑ 浜崎は、花輪の豪邸を見た事が有るとも無いとも、矛盾した証言を残している[73]。
- ↑ さくらの自叙伝「ひとりずもう」に登場する「加藤さん」と共通点が多い。
- ↑ 浜崎は後年、このイタズラに「今思うとひどいことをした」と振り返っている。
- ↑ a b c d e f g コメント欄参照
- ↑ この出来事は脚色の上、アニメ版第2期の第192話「理科の実験は大さわぎ」に描写されている。
- ↑ 2002年出版の「僕、はまじ」では、「先生、お元気ですか?」と問い掛けている[93]。
- ↑ その後について、著書では「部活が変わってもワタとはそれまでのように接していた」と、投稿サイトでは「そのころワタと口を聞いていない。というかブラバンをやめて以来、話していなかった」と記されており、相違が見られる[110][19]。
- ↑ 正確には「継父」であるが、本記事では浜崎による「義父」の表現を用いる。
- ↑ 事実婚であり、養子縁組もしなかったため、浜崎とは法的には親子関係ではない。
- ↑ 浜崎の私小説「母」によれば、浜崎は当時33歳。
- ↑ 浜崎の私小説「母」によれば、浜崎は母から金銭を盗まれる事も有り、家を出たのは43歳の時だった。
- ↑ 浜崎の私小説「母」によれば、真夏に暖房を付けて閉め切った部屋の中で、同居していた娘(浜崎の妹)によって、既に死亡した状態で発見された。浜崎を含む親戚一同は認知症だったと推測している。
- ↑ 浜崎の私小説「母」によれば、祖父は95歳、祖母は104歳まで生きた。
- ↑ 浜崎を妊娠していた時の母親の妊婦検診票には、既往分娩は「無」、現在児数は「0人」と書かれており、姉の実在性は確かではない[1]。
- ↑ 浜崎の私小説「母」によれば、万引きやバイクの窃盗、シンナーの吸引などの警察沙汰を度々起こした。また、資金も無しに自動車購入のローンを組んで消費者金融から借金し、それを払わないために家に取り立てが来るなど、家族は散々迷惑をこうむった。だが、20代前半で結婚した後は真面目に働き、300万円の借金も完済した。
- ↑ 浜崎の私小説「母」によれば、妹が無断で戻ってきたために兄妹間の関係が悪化した。
- ↑ 他には、初版は500部で印税2%、それが売れたら出版社全額負担で増刷し、増刷分の印税は10%という契約内容だった[126]。
- ↑ 当時は彩図社の社員だった編集者の草下シンヤは、自身がさくらと交渉し、「破格のギャランティ」(有償)でイラストを描いてもらったと主張しており、浜崎の証言とは大きく異なっている[127]。
- ↑ 浜崎は生前、この著作権侵害に言及する事は無かった。但しブログにて「なんだかんだ揉めた」「公にはしないけど問題はあった」と示唆している[130][† 15]。
- ↑ 浜崎は「私服で来てくれ」と言われたと記しているが、平服(礼服などの正装ではない略正装のスーツ)を誤解したと推察される。
- ↑ 相続人がブログのドメイン「katarino.xyz」の解約手続きを行ったか、ドメイン料金の未払(口座名義人の死亡に伴う銀行口座の凍結)によりドメインが停止されたためと推察される。
出典[編集]
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- ↑ 清水の情報○ - ウェイバックマシン(2023年5月30日アーカイブ分)
- ↑ 大谷放水路の様子や静岡リビングからの抜擢▽ - ウェイバックマシン(2023年6月9日アーカイブ分)
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参考文献[編集]
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- 浜崎憲孝 『はまじとさくらももこと三年四組』 青志社、2020年2月19日。ISBN 978-4-86590-099-6。
- 浜崎憲孝 『僕、はまじ』 彩図社、2022年5月18日(原著2002年)。ISBN 978-4-8013-0601-1。