水野立仙
水野立仙(みずの りっせん、1893年 - 1956年4月20日)は、日本の実業家・発明家・法曹。戦前から戦中にかけて、圧力釜(体力釜)の国産化・普及を推進し、日本の健康食文化の発展に貢献した。また、明治大学法学部を卒業し、法曹界でも活躍した経歴を持つ。さらに、経済・衛生・医療・商業分野で幅広い事業を展開し、日本国内のみならず朝鮮半島においても活動した。
経歴[編集]
幼少期・教育[編集]
水野立仙は1893年(明治26年)に富山県射水郡堀岡村(現・射水市)の堀岡新村地区に生まれた。
名の由来は、故郷の立山連峰にちなんでいるとされ、さらに「仙」には歌仙や詩仙のように「その道を極めた人」「特にすぐれた人」という意味がある。また、「立山」との結びつきを強調する意図もあり、「立山のようなスケールの大きな人物になる」という志を反映した名であったと考えられる。
明治大学法学部を卒業し、法曹資格を取得。その後、弁護士・法曹界での活動を経て、実業界へ進出した。
圧力釜の発明と普及[編集]
水野立仙は、日本における圧力釜の先駆者として知られる。戦前、日本では玄米食の推奨が進められており、玄米を柔らかく炊くための圧力釜が求められていた。これに応える形で、水野立仙は戦前から圧力釜の国産化と普及に尽力した。
水野氏の圧力釜は、「体力釜」という名称で販売され、「新日本の再建は体力から」とのスローガンと共に健康食文化の一環として推進された。この体力釜は、戦前から戦後にかけて普及し、1980年代ごろまでは「圧力鍋」よりも「圧力釜」という呼称が一般的であった。
実用新案登録[編集]
1939年(昭和14年)には、自作の圧力釜を実用新案登録するなど、多様な才能を発揮した(『発明 36(9)』)。この圧力釜の開発により、日本国内における健康食文化の確立に大きく貢献した。
アメリカの「自動密封鍋」との関係[編集]
1938年、アメリカではアルフレッド・ビッシャーが「自動密封鍋」の特許を取得したが、日本ではこれに先行して水野立仙が圧力釜を開発し、国産化を進めていた。第二次世界大戦中、アメリカでは軍需の影響で家庭用圧力鍋の普及が進んだが、日本では水野の活動を通じて健康食のための圧力釜が広まっていった。
法曹界での活躍[編集]
水野立仙は明治大学法学部を卒業後、弁護士資格を取得し、法曹界での活動を行った。詳細な活動内容は不明だが、法務や商業・経済活動にも関与していたとされる。
彼の法曹経験は、その後の事業活動にも大きく影響を与え、商業法務や契約関連の分野での活躍が推測される。特に、圧力釜の普及やラジウム事業の展開において、法律的な知識が役立ったと考えられる。
実業・経済活動[編集]
水野立仙は、圧力釜の開発だけでなく、経済・衛生・医療分野にも関心を持ち、様々な事業を展開した。
東京ラヂウム合資会社の設立[編集]
1939年(昭和14年)、東京市品川区西大崎1丁目283番地に「東京ラヂウム合資会社」を設立。ラジウムを活用した医療・産業関連技術の開発を行った。
興亜体力会の設立[編集]
1942年(昭和17年)、芝区三田南寺(現・港区三田4丁目)において「興亜体力会」を設立。この団体は、戦時体制下において国民の健康増進・体力強化を目的とした活動を行い、「体力と栄養」といった出版物を発行した(『東京中央電話局電話番號簿 昭和十七年十月一日現在』)。
戦中・晩年[編集]
1950年(昭和25年)頃、水野立仙は病に倒れ、それに伴い「東京ラヂウム合資会社」は事業を終えた。その後、1956年(昭和31年)4月20日に死去。享年62歳。
人物[編集]
- 明治大学法学部を卒業し、弁護士資格を取得。法曹界で活躍した経歴を持つ。
- 圧力釜(体力釜)の国産化と普及を推進し、日本の健康食文化に貢献。
- 東京ラヂウム合資会社を設立し、放射線技術を活用した医療・産業関連の事業を展開。
- 興亜体力会を運営し、国民の健康増進と体力強化に尽力。
関連項目[編集]
- 圧力釜
- 東京ラヂウム合資会社
- 興亜体力会
- 戦前日本の健康食運動
- 明治大学法学部卒業生
- 戦前の日本の法曹
参考資料[編集]
- 『体力と栄養』(興亜体力会)
- 『日本工業要覧』(1938年版)
- 『発明 36(9)』
- 『東京中央電話局電話番號簿 昭和十七年十月一日現在』
- 『営養と経済』(1934年創刊)
- 『明治大学校友会員名簿』(昭和10年)