水島毅
水島 毅(みずしま つよし、1915年12月10日[1] - ?)は、出版人、評論家。全貌社社長、思想運動研究所代表。代表的な反共文化人の一人として知られる[2]。
経歴[編集]
岡山県津山市生まれ[1]。上京するが胸を病む。中央大学専門部中退。戦時中10年間、北支、南支、比島を転戦。戦後『新生』記者を経て、1948年に白文社を創設、時事雑誌『旋風』を発行。1951年に白文社解散[3]。1952年に東京・永田町に全貌社を創設、月刊誌『全貌』(後に『ゼンボウ』に改題)を発行。共産主義批判・共産党情報の雑誌として著名になる[2]。1964年全貌社内に思想運動研究所を設立[2]、左翼運動の会員制情報誌『思想運動情報』を発行[4]。共産党情報に関して公安関係者などとの独自のコネクションを持っているとされる[1]。自らも『ゼンボウ』主筆として共産党批判の文筆活動を行い、1988年に『思想改造工場』(世界日報社、1987年)で第8回日本文芸大賞評論賞を受賞した[1]。『ゼンボウ』は1998年5月に590号をもって休刊した[5]。
人物[編集]
渡部政雄「「再建」十年の思い出」(『再建 : 日本自由党中央機関誌』第11巻第3号、1957年5月)によると、日本自由党の機関誌『再建』の営業は新生社(社長・青山虎之助)に委託され、主に渡部と水島が編集にあたった。
秋田三郞「『旋風』よ、さらば」(『眞相』第4巻第1号(通巻25号)、1949年1月)によると、白文社の経営者は大地書房創立者の秋田二郎、『旋風』編集長は水島。日本自由党の機関誌『再建』の編集をしていた水島が秋田に「反共バクロ雑誌」の発行を持ちかけ、1948年6月に「カストリ時局雑誌」『旋風』が創刊した。
水島によると、東京・神田の白文社の社長は水島で、『旋風』の主筆兼編集長も兼務していた。共産党批判を繰り返して経営困難となり、白文社は潰れて『旋風』は廃刊した。廃刊前の1950年初頭に政治評論家の花見達二から資金提供の申し出があった。このときから花見との交流が始まり、全貌社を立ち上げた際、後に全貌編集長や常務取締役となる弟子を紹介された[6]。
著書[編集]
- 『人物戦後日本共産党史――闇のなかの人間模様』 全貌社、1968年
- 『共産党批判百問百話――この党を選んだ300万人への解答』 全貌社、1969年
- 『民青百問百話――職場の民青はこうしてとらえる』 全貌社、1970年
- 『職業革命家――日共幹部の履歴書』 全貌社、1970年
- 『暴力の証言――かくされた代々木本部の真実』 全貌社、1970年
- 『新共産党百問百話――ピラミッドのなかはどうなっているのか』 全貌社、1973年
- 『企業対共産党――攻めるものと守るものの76カ条』 全貌社、1974年
- 『これが共産党――たたかいの手の内を公開』 全貌社、1977年
- 『宮本顕治の陰謀――密室のなかからの告発』 全貌社、1980年
- 『私の代々木特派員――日本共産党の診断』 全貌社、1981年
- 『宮本顕治倒るる日――そのとき共産党に何が起こるか』 全貌社、1985年
- 『思想改造工場――共産党の人間管理術』 世界日報社、1987年
- 『宮本共産党は崩壊する――続思想改造工場』 世界日報社、1989年
- 『自由代々木放送――内側からみる共産党』 全貌社、1991年
- 『宮本共産党を裁く――汚れた党史のはらわたを抉る!』 全貌社、1996年
脚注[編集]
- ↑ a b c d 日外アソシエーツ編『新訂 現代日本人名録2002 3.ひろ~わ』日外アソシエーツ、2002年、198頁
- ↑ a b c 猪野健治編著『右翼民族派・総覧 平成3年』二十一世紀書院、1990年、305頁
- ↑ 水島毅『新共産党百問百話――ピラミッドのなかはどうなっているのか』全貌社、1973年
- ↑ 菊地謙治『日本を衰亡へ導く「東京裁判史観」』全貌社、1991年、272頁(広告)
- ↑ 国立国会図書館サーチ
- ↑ 水島毅「花見先生との出会い」、花見達二遺稿集編集委員会編『花見達二遺稿集』花見達二遺稿集刊行会、1971年、623-624頁
- ↑ 吉原公一郎『日米同盟への陰謀――続・謀略列島』新日本出版社、1982年、258頁
関連文献[編集]
- 藤井五一郎追想録刊行世話人編『藤井五一郎の生涯』(藤井五一郎追想録刊行世話人、1971年)
- 岩淵辰雄追想録刊行会編『岩淵辰雄追想録』(岩淵辰雄追想録刊行会、1981年)
- 福島保夫『書肆「新生社」私史――もと編集部員の回想』(武蔵野書房、1994年)
- 『共産党宣言――2005年、共産党が政権をとる!?』(宝島社[別冊宝島]、1997年)