東濃鉄道モハ110形電車

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西武モハ550形電車 > 東濃鉄道モハ110形電車

モハ110形電車(モハ110がたでんしゃ)とは、東濃鉄道が導入した電車である。

概要[編集]

駄知線向けの車両として、西武鉄道からモハ151形・クハ1151形を各2両譲り受けたもので、2両編成2本が在籍していた。

1948年(昭和23年)の電化後、駄知線の輸送人員が増加。1960年代には1日平均で1万人以上が利用するまでに栄え、従来保有していた電車では輸送力不足が懸念された。そこで西武鉄道でちょうど余剰となっていたモハ151・クハ1151を譲り受けることとなった。この2形式は昭和初期に川崎造船所が国内の私鉄各社へ納入した深い屋根と広い腰板を特徴とするいわゆる「川崎造船形」に属する。

導入に際しては西武所沢工場で車体の補修を含む改造工事が施工され、モハ110のパンタグラフを連結面寄りに移設し、パンタグラフ搭載部周辺の屋根を切り下げた。機器類は概ね西武時代とほぼ同じだが、前面の連結器のみ密着連結器から自動連結器に交換している。

運用[編集]

1964年に第1編成となるモハ111・クハ211が、1966年にモハ112・クハ212が運用を開始。第1編成運用開始の翌年に駄知線の1日平均輸送人員がピークを記録し、東鉄唯一の2両固定編成車として重宝された。

しかしモータリゼーションの進展で駄知線の利用者数は年々減少。1972年(昭和47年)7月13日の豪雨災害(昭和47年7月豪雨)で駄知線は鉄橋の流失など壊滅的な被害を受けて全線運行休止となり、モハ110形は2編成とも休車指定がかけられて車庫に保管された。鉄道の復旧は断念されて1974年(昭和49年)に廃線となったが、廃線からおよそ1年後の1975年(昭和50年)に第1編成が総武流山電鉄、第2編成が名古屋鉄道へと譲渡された。当時の東鉄は名鉄グループ入りしていたが、中小私鉄から大手私鉄への車両譲渡という極めて異例の事象となった。なお譲渡に伴う改造は名鉄が請け負い、鳴海駅近隣にあった鳴海工場で施工された。

総武流山電鉄[編集]

導入に際しては制御装置をCS5形電動カム軸式間接自動制御器に交換した他、運転台の左側移設、前照灯のシールドビーム化、側窓のアルミサッシ化、車体塗装のオレンジに白帯への変更などを行った。

形式は既存形式への編入が行われ、モハ111がモハ1002、クハ211がクハ55へと改められた。導入後は東濃鉄道時代から変わらぬペアを組み続けたが、元西武501系の1200形導入により1981年(昭和56年)にクハ55が廃車、残ったモハ1002はクハ52を新たなペアとしたが、1987年(昭和62年)に元西武551系の1300形が導入されたため、翌年に廃車された。

名古屋鉄道[編集]

第一次オイルショックに伴う輸送量の急激な増加で車両事情の逼迫していた名鉄は手っ取り早く使える車両を探し求めていた。そのタイミングで子会社の東濃鉄道から車両の引受要請があり、これを快諾する形で第2編成を譲り受けた。同時期の他社からの譲渡車には元東急3700系の3880系、元札幌市電A830形のモ870形がある。

導入に際してはM式ATSの新設、車体塗装の名鉄スカーレットへの変更など小規模な改造のみで落成。主制御器が間接手動制御式であることからいわゆるHL車に区分され、モハ112はモ3790、クハ212はク2791へと改められた。

導入後は築港線専用車両として中間にク2815を組み込んだ3両編成を組成。廃車までを築港線で過ごした。