山形藩

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

山形藩(やまがたはん)は、江戸時代に出羽国村山郡山形(現在の山形県山形市)に藩庁を置いた藩。居城は山形城であった。初期には最上氏が57万石を領したが、その後は藩主家の交代と領地の縮小が進み、幕末には水野氏5万石となった[1]。

歴史[編集]

最上氏の時代[編集]

山形は中世以来、最上氏の拠点であった。最上義光は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いに際して徳川家康方につき、慶長出羽合戦で上杉氏の軍勢と戦った。戦後の加増によって57万石の大名となり、庄内地方や由利郡などを含む広い領地を支配した[2][1]。

義光の死後、最上氏では一族や有力家臣の対立が起こり、1622年(元和8年)、最上義俊の代に改易となった。旧最上領は複数の大名の領地などに分けられ、山形には鳥居忠政が入封した[2][1]。

鳥居氏以後[編集]

鳥居忠政は22万石で山形に入り、外様大名の多い東北地方をおさえる役割を期待された。鳥居氏の時代には、城の改修、寺院の配置換え、馬見ヶ崎川の流路変更などが行われた[3]。

1636年(寛永13年)には鳥居氏に代わって保科正之が20万石で入封した[4]。正之は領内の検地や流通網の整備などを進め、のちに会津藩へ転封された。その後も松平氏・奥平氏・堀田氏などの入転封が繰り返され、藩領や石高も変化した[3][1]。

1767年(明和4年)に入封した秋元氏は6万石を領し、4代にわたって山形を治めた。1845年(弘化2年)には、天保の改革を進めた水野忠邦の子の水野忠精が浜松藩から5万石で移り、水野氏の時代となった[4][1]。

幕末と廃藩[編集]

1868年(慶応4年・明治元年)の戊辰戦争では、山形藩は奥羽越列藩同盟に参加した。当時の藩主水野忠弘と父の忠精は京都におり、山形では家老の水野元宣が藩を指揮した。藩はのちに新政府側へ降伏し、元宣は戦争の責任を負う形で処刑された[5]。

1870年(明治3年)、水野忠弘が近江国の朝日山藩へ転封されたことにより、山形藩は廃藩となった[1]。

城下町と産業[編集]

最上義光は山形城や城下町の整備を進めた。城の東側には羽州街道に沿って商人町が置かれ、鍛冶町や桶町など、職種に応じた職人町も形成された[2]。

また、義光は最上川の舟運整備にも力を入れ、物資の流通を促した[6]。城下の山形は、紅花や青苧などの取引を通じ、最上川舟運によって上方と結び付く商業都市として発展した[7]。

脚注[編集]

  1. ↑ a b c d e f 「山形藩」『日本大百科全書(ニッポニカ)』小学館、横山昭男執筆(コトバンク掲載)。
  2. ↑ a b c 山形市「山形城と歴代の城主」(国指定史跡 山形城)。
  3. ↑ a b 山形市「市長のやまがた自慢『歴代山形城主』」。
  4. ↑ a b 山形市教育委員会『史跡山形城跡(2012~2013)本丸御殿跡発掘調査現地説明会資料』2013年10月13日、藩主・石高の変遷図。
  5. ↑ 山形市「市長のやまがた自慢『水野三郎右衛門元宣(もとのぶ)と豊烈神社』」。
  6. ↑ 国土交通省東北地方整備局山形河川国道事務所「最上義光」(最上川電子大事典)。
  7. ↑ 「山形藩」『百科事典マイペディア』平凡社(コトバンク掲載)。

関連項目[編集]