慶長出羽合戦

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慶長出羽合戦
戦争: 関ヶ原の戦い
年月日: 1600年9月8日1601年3月
場所: 出羽国(山形県)
結果: 最上氏勝利、旧領回復
交戦勢力
上杉氏 最上氏
伊達氏
指揮官
直江兼続
志駄義秀
小野寺義道
前田慶次
上泉泰綱
最上義光
志村光安
江口光清
秋田実季
留守政景
戦力
28000(ウィキペディア)、38500以上(近世軍記) 10000
損害
1580余り(最上側資料) 623人(最上側)2100余(上杉側)
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本項では、関ヶ原の戦い出羽国での戦闘、通称慶長出羽合戦について述べる。主に上杉軍と最上軍の戦いとなった。

戦闘経過[編集]

慶長5年9月8日、上杉軍は庄内米沢の2方面から侵攻した。また、横手城小野寺輝道も最上領へ侵攻した。9月12日江口光清畑谷城(山辺町)を落城させ、江口以下500人は玉砕したが、上杉軍に1000近い損害を与えた。また上山城(上山市)へ攻め入るがこれは撃退された。その後長谷堂城(山形市)へ直江兼続以下18000人が攻め寄せる。城兵は1000人しかおらず、ここを攻略されると本城の山形城へなだれ込むのは明らかなので、義光は甥の伊達政宗に援軍を依頼した。伊達軍は政宗叔父の留守政景を大将に3000人が派兵される。しかし城主の志村光安はよく持ちこたえ、逆に上杉軍に夜襲を仕掛けるなど善戦した。9月29日の総攻撃にも耐え、逆に上泉泰綱を討ち取るなどの戦果を挙げている。そして29日に関ヶ原で西軍が負けたという情報が届けられ、兼続は撤退を決意する。

撤退戦[編集]

10月1日に上杉軍は撤退を開始する。この戦いでは兼続自ら殿を務め、追撃する義光の兜に銃弾が当たるほどの激戦となった。10月4日に兼続は無事に撤退に成功した。

仙北・庄内[編集]

仙北では湯沢城(湯沢市)へ小野寺軍が攻め入るが城主の楯岡満茂が奮戦し持ちこたえた。11月には小野寺氏本城の横手城(横手市)を秋田実季が落とすも、軍令の行き違いにより義光実季両者には確執が残った。庄内では最上氏の扇動を受け池田盛周らが一揆を起こすも上杉軍の志駄義秀に敗退した。しかし長谷堂で上杉軍が敗走すると、一転して攻勢に移った最上軍が義光嫡男の義康を総大将として庄内に侵攻させ、尾浦城(鶴岡市)と東禅寺城(酒田市)を攻め落とした。

戦後[編集]

最上氏は庄内地方を獲得し領土は2倍以上に広がった。一方の上杉氏は会津120万石から米沢30万石へと減封された。伊達政宗は南部領での一揆を扇動したことが露見し2万石の加増に留まった。

関連項目[編集]