日本海軍砲艦堅田
堅田(かただ)は、大日本帝国海軍の砲艦。堅田型砲艦の1番艦である。艦名は滋賀県大津市の地名である堅田に由来する。同型艦に保津がある。
概要[編集]
堅田は、主に中国大陸の河川における警備行動を目的として建造された河用砲艦である。辛亥革命以降、中国大陸の情勢は不安定であり、日本の権益保護のため、既存の小型砲艦では不十分と判断され、より大型で武装を強化した砲艦の必要性が高まった。その結果、計画されたのが堅田型砲艦である。
堅田は大阪鉄工所で建造され、1921年(大正10年)8月29日に起工、同年12月27日に進水し、1922年(大正11年)5月25日に竣工した。当初から揚子江(長江)における警備活動を主眼に設計されており、喫水を浅くすることで、河川上流部への遡行能力を確保していた。
艦歴[編集]
竣工後、堅田は直ちに中国方面艦隊(後に支那方面艦隊)に編入され、揚子江を拠点とする警備行動に従事した。主に上海から漢口、重慶に至るまでの航路において、日本の商船保護、不法行為の取り締まり、在留邦人の保護などに当たった。この間、幾度か中国側の軍閥との小規模な交戦も経験している。
日中戦争が本格化すると、堅田は揚子江上での陸軍部隊の上陸支援や、河川輸送の護衛任務に多数従事した。特に武漢作戦においては、揚子江を遡上する部隊の支援において重要な役割を果たした。しかし、旧式化と河川航行による艦体の消耗が進んだため、後には主に後方での輸送護衛や哨戒任務に回されることが多くなった。
太平洋戦争開戦後も、堅田は引き続き中国大陸での任務に就いた。戦況の悪化に伴い、日本本土への物資輸送が困難になると、中国大陸での自給自足体制を維持するため、揚子江の航路確保はますます重要となった。堅田は終戦まで中国大陸に留まり、活動を続けた。
1945年(昭和20年)8月15日の終戦時、堅田は上海に所在していた。戦後、連合国軍によって接収され、中華民国海軍に引き渡された。中華民国海軍においては「永徳(Yongde)」と改名され、内戦で使用された。その後、中華人民共和国成立後は中国人民解放軍海軍に編入されたとされるが、詳細な艦歴は不明である。最終的には1950年代に除籍・解体されたものとみられる。
豆知識[編集]
- 堅田は、揚子江を航行する際、日本の商船や民間船からは「カミソリ」の愛称で親しまれていたと言われる。これは、その細長い船体と、敵対勢力に対する威圧的な存在感に由来するとされる。
- 堅田型砲艦は、日本海軍が独自に設計・建造した河用砲艦としては、かなり大型の部類に属した。その後の河用砲艦の設計にも少なからぬ影響を与えたとされる。