千鳥型水雷艇

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千鳥型水雷艇(ちどりかたすいらいてい)は、大日本帝国海軍ロンドン海軍軍縮条約失効後の1930年代中盤に建造した水雷艇である。友鶴事件を契機とした復元性能の見直しにより、その後の日本海軍艦艇の設計思想に大きな影響を与えたことで知られる。

概要[編集]

千鳥型水雷艇は、ワシントン海軍軍縮条約およびロンドン海軍軍縮条約によって艦艇保有量を制限された日本海軍が、条約の抜け穴を突く形で計画した艦艇の一つである。公式には基準排水量600トン以下の駆逐艦に分類される小型艦であったが、実際には駆逐艦に匹敵する重武装を施すことで、その戦闘力を補おうとしたものであった。

当初計画では、魚雷発射管を多数搭載し、対水上戦闘能力を重視した設計がなされていた。主砲としては12.7cm砲を3門、魚雷発射管は53.3cm連装魚雷発射管を2基4門搭載し、排水量に比して強力な兵装を備えていた。また、機関には高温高圧缶を採用し、当時としては高速である30ノット以上の速力も企図された。

しかし、最初の建造艦である友鶴の公試中に発生した友鶴事件により、本型の設計上の重大な欠陥が露呈する。これは、排水量に比して過大な兵装を搭載したことにより、復元力が著しく不足していたため、僅かな動揺で転覆する危険性があるというものであった。

友鶴事件と設計変更[編集]

1934年3月12日、千鳥型水雷艇1番艦「友鶴」は公試中に悪天候に遭遇し、転覆寸前の状態に陥った。この事件により、乗員多数が殉職・行方不明となる大惨事となった。

この事故を受けて、日本海軍は全艦艇の復元性能の見直しを迫られ、特に千鳥型水雷艇は抜本的な設計変更を余儀なくされた。具体的には、以下の点が変更された。

  • 搭載兵装の軽量化: 12.7cm砲は1門撤去され、魚雷発射管も1基撤去された。これにより、重量軽減と重心低下を図った。
  • 艦橋構造の縮小: 艦橋を小型化し、上部重量を削減した。
  • バラストの搭載: 艦底にバラストを搭載し、重心をさらに低下させた。

これらの改修により、千鳥型水雷艇の復元性能は改善されたものの、その代償として兵装は大幅に縮小され、当初計画されたような強力な戦闘力は失われた。また、速力も若干低下した。

同型艦[編集]

千鳥型水雷艇は、最終的に4隻が建造された。

戦歴[編集]

千鳥型水雷艇は、主に日中戦争および太平洋戦争において、船団護衛や対潜哨戒、哨戒任務などに従事した。小型艦でありながらも、その俊足と小回りの利く特性を活かし、沿岸部や離島での哨戒任務に活躍した。

しかし、太平洋戦争の激化に伴い、その旧式化と兵装の貧弱さが露呈するようになる。特に、対空兵装の不足は深刻であり、航空機による攻撃に対しては脆弱であった。結果として、太平洋戦争中に全艦が失われた。

豆知識[編集]

  • 千鳥型水雷艇の設計失敗は、後の駆逐艦陽炎型」や「夕雲型」などの設計において、復元性能を重視するきっかけとなったのである。
  • 友鶴事件は、当時の日本海軍の設計思想に警鐘を鳴らし、安全性を軽視した無理な設計は許されないという教訓を与えたのである。

関連項目[編集]

参考書籍[編集]

  • 『世界の艦船 増刊第50集 日本駆逐艦史』海人社、1997年。
  • 『歴史群像シリーズ 太平洋戦史シリーズVol.50 究極の戦艦 大和』学習研究社、2005年。