三十年戦争

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三十年戦争とは、1618年 - 1648年にかけて、神聖ローマ帝国を中心に展開された史上最大にして最後の宗教戦争である。

経過[編集]

1517年、マルティン・ルターローマ教会への批判(九十五か条の論題)を公にして以降、旧来のカトリックとキリスト教の新しい立場である新教プロテスタント)の対立は激化していた。1555年、アウクスブルクの宗教和議にてプロテスタントの1つ、ルター派が公認され、部分的な解決は試みられたものの、依然として両派の対立は継続した。

1618年、神聖ローマ帝国を構成するボヘミアで、ハプスブルク家出身で熱心なカトリック教徒のフェルディナント2世が王に即位(翌年には神聖ローマ帝国の皇帝へ)した。彼は自身の領内でカトリックによる宗教的統一を徹底し、プロテスタントを弾圧し始めた。当然、プロテスタント側は黙っておらず、同年には、プラハ窓外放擲事件が発生。この事件を契機に、プロテスタント側の反乱という形で争いの火ぶたが切られた。当初、プロテスタント側は圧倒的な軍事力を前にカトリック(皇帝)側に完敗であったが、1625年、英仏蘭の支援を受けた、クリスチャン4世率いるルター派のデンマークがプロテスタント側で参戦。1630年には、グスタフ2世率いるルター派のスウェーデンが同じくプロテスタント側で参戦した。参戦の名目はあくまでプロテスタント側の支援であるが、自国の領土拡大やバルト海の利権獲得も企図していた。一方でカトリック側の支援にはスペインが名乗りを挙げるなど、宗教絡みの小競り合いから始まった戦争は次第に国際戦争の様相を呈し始めた。

1635年になると、カトリックのフランスがプロテスタント側で参戦。これは、ブルボン家の宿敵であるハプスブルク家の打倒を目論む、ルイ13世の宰相リシュリューのさしがねであり、これにてカトリック(皇帝)側の劣勢はほぼ確実となった。1637年、失意のうちに皇帝フェルディナント2世は死去。1648年、泥沼化した戦争は、ウェストファリア条約の締結という形で終結した。

影響[編集]

ウェストファリアで行われた講和会議には多くの国が参加したため、近代国際会議の始まりとされる。会議の末に結ばれたウェストファリア条約では、スウェーデンやフランスの領土拡大、スイスオランダの国際的な独立承認、神聖ローマ帝国を構成する領邦の完全な主権が認められ(神聖ローマ帝国は有名無実化)、プロテスタントではルター派のほかにカルヴァン派も認められた(宗教戦争の終結)。

またこの条約により、各国、各領邦が独自の主権を持ち、互いに尊重する体制(主権国家体制)が確立された。

その他

  • 800万人以上の犠牲者を出したとされる最大の宗教戦争である。30年続いた戦争によりドイツの農村は荒れ果て、そのため発展が200年遅れた。
  • 多くの傭兵が投入された戦争でもあり、カトリック(皇帝)側の軍を指揮したヴァレンシュタインなどは有名。ただ傭兵ゆえに、都市や農村では、略奪や横行などが頻発したとも言われる。
  • イギリスでは、(三十年戦争における)対スペインの戦費調達を目論むチャールズ1世と議会が対立。1628年には議会の同意を必須とした権利の請願が出されたが、翌年チャールズ1世により議会そのものが解散となった。国王側と議会側の対立は、1642年に始まるピューリタン革命(清教徒革命)へと繋がっていく。

関連項目[編集]