ユーゴスラビア紛争
ユーゴスラビア紛争 | |
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戦争: 冷戦・ポスト冷戦 | |
年月日: 1991年3月31日 - 2001年11月12日 | |
場所: ユーゴスラビア・バルカン半島 | |
結果: 連邦共和国の解体 | |
交戦勢力 | |
指揮官 | |
戦力 | |
損害 | |
ユーゴスラビア紛争 (ユーゴスラビアふんそう) とは、ユーゴスラビアで1991年3月から2001年11月に掛けて行われた内戦のことである。
概要[編集]
国家の成立・民主化運動[編集]
1918年にユーゴスラビアが成立したときからユーゴスラビアは多民族国家であった。第二次世界大戦後は東側になったが、ソ連の衛星国とはならなかった。
1990年ほどになるとミハイル・ゴルバチョフにより民主化運動が行われ、ベルリンの壁崩壊などの出来事が多数発生する。そのためユーゴスラビアでも共産党一党独裁政権を脱却するために自由選挙を行い、民族主義者たちが政権を握り始めるようになった。
紛争[編集]
アルバニアはアルバニア系民族が多数派であるコソボ社会主義自治州の併合を行おうとしたためにコソボは反発して1990年7月に独立を宣言、これがユーゴスラビア紛争の始まりと言われている。1991年6月にはスロベニアが独立(十日間戦争)。次いでマケドニア(現:北マケドニア)が独立した。また、1991年にはとても激しい戦闘を経てクロアチアが独立(クロアチア紛争)した。
スロベニアがスムーズに独立できた理由は経済水準の高さや、民族的な均一性などが理由とされる。マケドニアも安定していた。
1992年にはボスニア・ヘルツェゴヴィナが独立(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争)するが、セルビア人が主体のスルプスカ共和国が独立を宣言したことにより、更に内戦が発生する事態となってしまった。コソボも独立しようとしたが、セルビアによる軍事侵攻によって、コソボでもコソボ紛争といった戦争に発展した。コソボに住むアルバニア系の住民は、多くがマケドニアに逃げ込んだため、マケドニアもコソボと同じようにユーゴスラビアとの紛争(マケドニア紛争)となってしまった。
収束・その後[編集]
このような戦闘が行われたが、NATOや国連の介入によって収束した。
なお、現在独立国となっているコソボやモンテネグロは、後に独立している。