ニコライ2世

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ニコライ2世(露:Николай II)とは、ロマノフ朝ロシア帝国の14代目にして最後の皇帝。暗君で、ロシア革命により退位した後家族もろとも銃殺された。

即位まで[編集]

1868年5月6日、ロシア皇太子アレクサンドル(後のアレクサンドル3世)の長男として生まれる。保守的な父や家庭教師の影響を受け、皇帝の独裁による専制政治を志すようになった。1890年から世界周遊の旅に出て、1891年4月27日大日本帝国長崎を訪れた。当時のニコライは日本に対して肯定的な印象を持っており、右腕に竜の刺青を入れたことでも有名である。しかし5月11日滋賀県の大津で反露思想を持つ警察官津田三蔵に斬りつけられ軽傷を負った(大津事件)。幸い日本側の迅速な対応のおかげで大きな外交問題には発展しなかったものの、後にロシア国内の対日感情を悪化させる要因の一つとなった。1886年ヴィクトリア女王の孫のヘッセン大公女アレクサンドラ・フョードロヴナと結婚した。

治世の開始[編集]

父帝が崩御したため1896年5月26日に26歳でロシア皇帝に戴冠された。しかし、4日後の5月30日にホディンカで開かれたで祝賀式典で群衆がドミノ倒しになり1300人近くが死亡する事故が発生した。しかしニコライ夫妻は特に喪に服すこともなく通常通り過ごしていたため、国民の顰蹙を買うこととなった。即位後のニコライは西側との外交では友好政策を採り、1899年オランダのハーグで第一回万国平和会議を開催する一方、東側では中国への影響力を強め、朝鮮半島進出を目論む日本との関係が悪化した。

日露戦争と第一革命[編集]

1900年に発生した義和団事件の鎮圧後も、ロシア軍は満州への駐留を続けたため日本との対立は決定的となった。1902年日英同盟でイギリスを味方につけた日本は1904年2月にロシア軍への攻撃を開始、日露戦争が開戦した。当時は国力が勝るロシアの圧勝で終わると見られていたが、蓋を開けてみると戦況は拮抗し、1905年1月の旅順の陥落により日本の優勢に傾いた。ロシア陸軍は同2月の奉天会戦で敗退し、精鋭のバルチック艦隊は5月の日本海海戦で壊滅した。相次ぐ敗戦と戦費調達のための重税も相まって、国民の間で不満が募っていった。最終的に9月に調印されたポーツマス条約でロシアの敗北が確定した。

1905年1月9日、ガポン司教に率いられた役10万人の民衆が、停戦を求める嘆願書をニコライに提出するため冬宮殿に向かって行進した。これに対し皇帝親衛隊が発砲した結果、3000人もの死者が出た(血の日曜日事件)ことで国民の怒りが爆発し、ロシア第一革命が勃発。各地のゼネストでインフラは麻痺し、戦艦ポチョムキンの水兵が反乱を起こすなど帝国中が大混乱に陥った。最終的に革命は保守派の首相ピョートル・ストルイピンにより鎮圧されたが、ニコライは憲法制定や国会開設などの譲歩を余儀なくされた。彼はこれについて日記で「神に対する背信行為」と述べ後悔していた。

第一次世界大戦まで[編集]

ストルイピン首相は革命派を厳しく弾圧する一方で急進的な農地改革を進めたが、こうした政治姿勢によって保守的なニコライとの関係は悪化した。結局1911年9月にストルイピンはニコライの目の前でテロリストに銃撃され死亡した。

家族関係は相変わらず良好であり、1904年8月に皇太子アレクセイが生まれた。アレクセイはヴィクトリア女王から遺伝した血友病を患っており、1905年には危篤に陥った。しかし、怪僧と呼ばれるグリゴリー・ラスプーチンが祈祷で治療に成功したためにニコライ夫妻はラスプーチンに心酔し、絶大な権力を与えたことで政治腐敗が加速した。

外交ではイギリス・日本との関係改善に努め、再びバルカン半島への進出を強めたことでドイツ・オーストリアと険悪になった。

ロシア革命[編集]

1914年6月にサラエボ事件が勃発し、セルビアオーストリア=ハンガリー帝国が戦争状態に突入するとニコライ2世はパン=スラヴ主義の観点からセルビア援助のため介入を決定。ドイツ、フランス、イギリスが連鎖的に参戦し第一次世界大戦が始まった。ロシア軍はオスマン帝国とオーストリア相手には優勢に立ったものの、機械化の進んだドイツ相手には苦戦。ロシア軍の通信は全て傍受されていたため作戦が筒抜けとなっており、タンネンベルクの戦いで20万人を失う大敗を喫した。1915年春以降はニコライ自ら最高司令官として前線の指揮を執ったが戦局の打開には至らなかった。

戦争が長引くにつれ、工業が未発達だったロシアは総力戦体制へ順応できず、生産ラインのほとんどが軍隊に充てられたことで都市部では深刻な物資不足に陥った。1916年12月にラスプーチンが暗殺されるなどロマノフ家の権威は失墜し、翌年2月に首都ペトログラードで大規模な民衆暴動が発生した。ニコライ2世が鎮圧のために派遣した軍隊も反乱を起こして民衆側に加わり、観念したニコライ2世は1917年3月15日に退位した(二月革命)。

処刑[編集]

革命により成立した臨時政府はニコライとその家族の身柄を拘束した。ニコライ達は各地を転々とさせられた後、4月30日からエカテリンブルクイパチェフ館に幽閉された。十月革命によりウラジーミル・レーニン率いるボリシェヴィキが政権を握るとニコライ達の待遇も悪化し、窓を塞がれて外界との接触を完全に遮断された。1918年夏、ボリシェヴィキに反発した白軍がシベリアで決起すると、一家の身柄を奪われることを恐れたソヴィエト政権はニコライ達の処刑を決定した。

7月17日午前2時30分頃、ニコライ一家は移動のためとして全員起床させられ、イパチェフ館の地下室に集められた。そこで処刑部隊の一斉射撃が行われ、ニコライは彼を庇おうとした専属医のボトキンに次いで2番目に落命した。享年50。料理人、妻アリックス、息子アレクセイ、4人の皇女も銃撃や刺突によって死亡した。遺体は一旦廃坑に埋められた後掘り返され、硫酸をかけられて森に遺棄された。ソ連崩壊後遺体が発見され、家族と共にサンクトペテルブルクペトル・パヴェル大聖堂に埋葬された。

その他[編集]

  • 従兄弟のイギリス王ジョージ5世と瓜二つだった。
  • 末娘のアナスタシアは長年生存説が囁かれていたが、90年代のDNA鑑定で処刑されたことが確定した。

関連項目[編集]