ナポレオン3世

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ナポレオン3世は、フランスの政治家、皇帝。

フランス革命戦争で活躍し、その後初代皇帝となったナポレオン1世の甥として、1808年に生まれる。1815年、ナポレオン1世はワーテルローの戦いで敗れ失脚、まだ幼いルイ=ナポレオン(後のナポレオン3世)は亡命生活を余儀なくされる。その間、フランスでは王政が復活(ルイ18世シャルル10世)するも、1830年の七月革命であえなく崩壊。後を継いだオルレアン公ルイ・フィリップも制限選挙や上層市民優遇政策で市民の反感を買い、1848年の二月革命により退位した。

1848年、フランス第二共和政が成立すると同時に、パリに帰国。ルイ=ナポレオンは同年12月に行われた大統領選挙で勝利し大統領になった。1851年、クーデタで権力を掌握し、翌52年には国民投票で皇帝に選出され、国民から圧倒的な支持を得てナポレオン3世として帝位についた(フランス第二帝政)。1853年からパリの大改造を始め、1855年にはパリ万国博覧会が開幕。外政ではクリミア戦争(1853~1856年)やイタリア統一戦争(1859年)に介入し、さらにアジア方面にも進出し、アロー戦争(1856~1860年)やインドシナ出兵(1858~1867年)への介入による植民地の拡大を図った。1861年には、メキシコに出兵し、親族のマクシミリアンを帝位に据えるも、現地の住民から激しい反発をくらい撤退した。

普仏戦争[編集]

1870年、スペイン王位継承問題が勃発。フランスとプロイセンは自国に都合の良い人物を王位に据えようとしたため、両国は対立。フランス側は、(地理的に)プロイセンとスペインの挟み撃ちを警戒、一方プロイセン側はドイツ統一の足掛かりとして「国民の団結」を望んでいた。その後、プロイセンの宰相ビスマルクが、国王がフランス大使との継承問題に関する会談について送った電報を意図的に編集・改ざんして発表(エムス電報事件)。この情報操作は、普仏両国の世論を刺激し、フランスがプロイセンに宣戦布告するきっかけとなった。1870年7月、ついに両国の戦端の幕が切って落とされた。プロイセンを中心としたドイツ連合軍は圧倒的な強さでフランス軍を破り、同年9月にはナポレオン3世自身もセダンで捕虜となってしまう。彼は皇帝の座を降り、フランス第二帝政は崩壊した。

1871年1月、プロイセンとの間で休戦協定が成立。2月にはヴェルサイユで仮条約が結ばれたが、3月に入りこれを認めない一部のパリ市民が蜂起しパリ・コミューン(世界初の、市民と労働者による自治政府)を宣言した。5月になるとドイツ帝国との間で正式な講和条約(フランクフルト講和条約)が締結された。また、パリ・コミューンは5月までに政府軍により鎮圧されたものの、自由を求める市民の願いは次第に共和派の勢いを伸ばしていき、1875年には第三共和政憲法が制定された。