ドンブロフスキのマズルカ
ドンブロフスキのマズルカ(Mazurek Dąbrowskiego)とはポーランド共和国の国歌であり、かつてポーランドの国民的英雄のヤン・ヘンリク・ドンブロフスキにちなんで名づけられた。
歴史[編集]
元の曲名は「イタリア駐屯ポーランド軍団」の歌であった。ポーランド分割後、コシチュシュコ蜂起の他の数人の反乱者と同様に亡命したユゼフ・ヴィビツキは1797年に当時ナポレオンの衛星国として樹立したチサルピナ共和国レッジョ・エミリアでこれを作詞した。また亡命者の中にドンブロフスキがおり、彼がこの歌に現在の名前を与えた。ナポレオンの承認で彼はポーランドを解放するためにポーランド義勇兵軍団を組織した。このことはドンブロフスキがイタリアからポーランドまで軍隊を率いることが歌の中で言及されていることでも明らかである。しかし、まず彼らは新しい共和国を守るために北イタリアでオーストリア帝国と戦った。ナポレオンがポーランドの独立国家の建国を支援してくれると期待されていたが、彼が建国したワルシャワ公国はフランスの衛星国に過ぎなかった。
歌の作曲者は不明である。ヴィビツキは18世紀に流行していたマズルカのメロディーを基に歌詞をっ作ったと考えられている。かつては、この曲はミハウ・クレオファス・オギニスキの作品とされてきた。 これは、オギニスキの「軍団ポロネーズ行進曲」にあたると考えられていたためである。しかし、1938年にこの曲の楽譜が発見されて以来、別のメロディーであることが明らかになっている。
この歌は、1830年の11月蜂起、1863年の1月蜂起、1905年の第一次ロシア革命、及び第一次世界大戦及び第二次世界大戦中に歌われた。
ドンブロフスキのマズルカは苦闘するポーランド人の連携を示す詩人によって17言語に翻訳され歌われた。1848年の諸国民の春ではウィーン、ベルリン、プラハの街頭で歌われ大きな人気を博した。
この歌はスロバキア人の詩人のサモ・トマシクによって1834年に作曲した「スラブ人よ」のメロディーと歌詞の基盤となった。1848年にスラブ会議が行われ、スラブ人よは全スラブ人の国家として採択された。1945年以降ユーゴスラビアの国歌になったが、テンポんどが変更された。
1927年2月26日以来、ドンブロフスキのマズルカは正式にポーランドの国歌となった。歌詞はオリジナルのイタリア駐留ポーランド軍団の歌とは微妙に差異が見られる。
歌詞[編集]
| 歌詞 | 日本語訳 |
|---|---|
| Jeszcze Polska nie zginęła, Kiedy my żyjemy. Co nam obca przemoc wzięła, Szablą odbierzemy. |
ポーランドは未だ滅ばず 我らが生きている限りは。 同盟軍に奪われたものを、 我らはサーベルまで取り戻す。 |
| Marsz, marsz, Dąbrowski, Z ziemi włoskiej do Polski. Za twoim przewodem Złączym się z narodem. |
進め、進め、ドンブロフスキ、イタリアからポーランドに至るまで、 あなたの指揮下で、 我らは再び国民となるのだ。 |
| Przejdziem Wisłę, przejdziem Wartę, Będziem Polakami. Dał nam przykład Bonaparte, Jak zwyciężać mamy. |
ヴィスワ川を渡り、ヴァルタ川を渡り、 我らはポーランド人となる。 ボナパルトは我らに、 勝利への道を与えた。 |
| Marsz, marsz, Dąbrowski… | |
| Jak Czarniecki do Poznania Po szwedzkim zaborze, Dla ojczyzny ratowania Wrócim się przez morze. |
チャルニェツキはポズナンに戻ったように、 スウェーデンの占領後、 祖国を救うために 我らも海を渡って戻る。 |
| Marsz, marsz, Dąbrowski… | |
| Już tam ojciec do swej Basi Mówi zapłakany – Słuchaj jeno, pono nasi Biją w tarabany. |
ある父は娘バーシアに、 涙ながら言う。 「聞くがいい 我らの軍がタラバン太鼓を鳴らしているのだと。」 |
| Marsz, marsz, Dąbrowski… |