トランスニストリア戦争
トランスニストリア戦争 | |
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戦争: ポスト冷戦 | |
年月日: 1992年5月2日−7月21日 | |
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結果: 沿ドニエストル側の勝利 | |
交戦勢力 | |
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指揮官 | |
戦力 | |
損害 | |
トランスニストリア戦争とは、1992年に行われた、モルドバ共和国と沿ドニエストル共和国の間で起こった戦争のことである。本稿では、基本的に沿ドニエストルのことはトランスニストリアと記載する。
概要[編集]
トランスニストリア独立まで[編集]
この戦争が起こった背景としては、まずモルダヴィア(ベッサラビア)とトランスニストリア(沿ドニエストル)は歴史的に結びついていたことが少なかった。だがソ連時代では、モルドバとトランスニストリアは結び付けられ、一つの「モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国」となったため、特にトランスニストリア地域では民族的な不満が大きかったと思われる。
1989年には、モルドバはロシア語に代わってルーマニア語のようなモルドバ語を公用語にする法律を制定した。モルドバ語はラテン文字を使用しており、モルドバ人以外が多数派ののキリル文字を使用しているトランスニストリアの住民はモルドバ語を書いたり話すことができなかった。それはトランスニストリアを事実上の独立に導いた理由の一つとされる。
1990年には、事実上独立したトランスニストリアは、モルドバの警官隊による攻撃を受ける。沿ドニエストルの事実上の大統領であったイーゴリ・スミルノフはウクライナのキーウに行って帰国したあとにモルドバ警察によって逮捕される。その後、1992年、本格的にトランスニストリア紛争が開始される。
戦争[編集]
モルドバ軍は国防省を用意し、25000〜30000人のモルドバ軍と、ルーマニア軍の志願兵がモルドバへ送られた。一方トランスニストリアは、ロシア陸軍による鍛錬を受け、8000人ほどの軍を用意した。1992年にモルドバは国際連合に加盟し、その後モルドバ軍たちはトランスニストリアへの侵攻を開始する。だが、沿ドニエストル側の民兵を警官が殺害したとして、その警官が起訴されたため、沿ドニエストルのコサック集団は警察分署を夜襲した。
これから、ロシアの副大統領であったアレクサンドル・ルツコイは、沿ドニエストル側の支援を発表。これからトランスニストリア人が逮捕されるなどとし、その後全面的な戦争に発展した。そのため民間人に多くの犠牲者が出た。正確な数は不明。ベンデルはこれ以前、トランスニストリアの都市であったが、それをモルドバ軍が侵攻したことによって起こされた橋の争奪戦も、過激なものとなった。
休戦協定[編集]
ロシア軍などの支援を受けたために、結果は沿ドニエストルが勝利し、7月21日にはロシアのエリツィンとモルドバのスネガルの間で休戦協定が締結された。このような経緯によってトランスニストリアは現在事実上の独立を維持している。