スエズ危機
スエズ危機(スエズきき、英:Suez Crisis)は、1956年にエジプトのスエズ運河国有化を巡って発生した国際紛争である。第二次世界大戦後の国際政治において、旧宗主国と新興独立国との関係、そして冷戦下のアメリカ合衆国とソビエト連邦という二大国が関与した重要な事件として知られる。
概要[編集]
1952年、エジプトでガマール・アブドゥル=ナーセル率いる自由将校団によるエジプト革命が勃発し、国王ファルーク1世が追放された。ナーセルはエジプトの完全な独立と非同盟路線を志向し、その一環としてアスワン・ハイ・ダム建設を計画した。当初、アメリカとイギリスはダム建設への財政援助を約束していたが、エジプトがチェコスロバキア(当時ソビエト連邦の影響下にあった)から兵器を購入したことなどに反発し、1956年7月、援助計画を撤回した。
これに対し、ナーセルは1956年7月26日、スエズ運河会社の国有化を宣言した。スエズ運河は、1869年に開通して以来、国際的な重要航路であり、イギリスとフランスが主要株主となっていたスエズ運河会社によって運営されていた。この国有化は、イギリスとフランスにとって自国の経済的・戦略的利益を脅かすものであり、またイスラエルにとっても、紅海からインド洋への航路が封鎖される可能性があったため、安全保障上の脅威と受け止められた。
紛争の勃発[編集]
国有化宣言後、イギリス、フランス、イスラエルは秘密裏に会談を重ね、エジプトへの軍事介入を計画した。この秘密協定は「セーヴル議定書」として知られる。計画では、まずイスラエルがシナイ半島に侵攻し、これを受けてイギリスとフランスが自国民保護を名目にスエズ運河地帯に介入するというものであった。
1956年10月29日、イスラエル軍がシナイ半島に侵攻を開始した。これを受け、イギリスとフランスはエジプトに対し、運河地帯からの撤兵を求める最後通牒を発し、エジプトがこれを拒否すると、10月31日からエジプトへの空爆を開始した。そして11月5日には、イギリスとフランスの空挺部隊がポートサイドに降下し、地上部隊が運河地帯に進駐した。
国際社会の反応と停戦[編集]
この軍事行動に対し、国際社会は強く反発した。特にアメリカ合衆国は、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が、同盟国であるイギリスとフランスの行動に強い不快感を示し、即時停戦を要求した。ソビエト連邦も、イギリスとフランスへのミサイル攻撃を示唆するなど、エジプト支持の姿勢を明確にした。
国際連合では、アメリカとソ連の共同提案により、国際連合緊急軍(UNEF)の派遣が採択された。国際的な圧力に直面したイギリス、フランス、イスラエルは、最終的に軍事行動を停止せざるを得なくなり、11月7日に停戦が発効した。イギリスとフランスは12月までに撤退を完了し、イスラエルも1957年3月までにシナイ半島から撤退した。
影響[編集]
スエズ危機は、国際政治に大きな影響を与えた。
- イギリスとフランスの影響力の低下: スエズ危機は、大英帝国時代の終焉と、イギリスとフランスがもはや世界の大国として単独で行動できる時代ではないことを明確に示した。両国は、国際問題におけるアメリカの優位性を認めざるを得なくなった。
- アメリカ合衆国の台頭: アメリカは、同盟国を抑え込み、国際的な秩序維持に主導的な役割を果たす能力を示した。
- ソビエト連邦の存在感の増大: ソ連は、エジプトを支持することで、中東地域における影響力を拡大させることに成功した。
- アラブ・ナショナリズムの高揚: ナーセルは、スエズ運河国有化という成果を手にし、アラブ世界の英雄となった。これにより、アラブ・ナショナリズム運動はさらに高揚した。
- 国際連合の役割の強化: 国連緊急軍の派遣は、国連が国際紛争の解決において重要な役割を果たす可能性を示した。
- エネルギー供給の脆弱性: スエズ運河の閉鎖は、石油供給の脆弱性を露呈し、先進各国がエネルギー安全保障を重視するきっかけとなった。
豆知識[編集]
- スエズ危機勃発時、イギリスでは食料品や燃料の配給制が一時的に導入された。
- ナーセル大統領は、スエズ運河国有化の宣言を、エジプトの独立記念日(7月26日)に合わせて行った。
- この危機は、イギリス首相アンソニー・イーデンの政治生命を終わらせることになった。