アレクサンドル2世
アレクサンドル2世(露:Александр II)とは、ロマノフ朝・ロシア帝国の12代目皇帝。
生涯[編集]
改革[編集]
1818年4月29日、皇弟時代のニコライ1世とアレクサンドラ妃の長男として生まれる。1825年、ニコライがロシア皇帝に即位したことで皇太子となり、1855年に父が崩御したため帝位を継いだ。当時のロシアはオスマン帝国・イギリス・フランスとクリミア戦争の最中であったが、セヴァストポリ要塞が陥落するなど戦況は芳しくなく、1856年3月30日にパリ条約を結んで講和した。この敗北により西欧諸国に対するロシアの後進性を痛感したアレクサンドル2世は、帝国の改革と工業化に力を注ぐことを決意した。1861年3月3日に旧来の農奴制の解体を目指す農奴解放令を発布し、行政の効率化や女子教育の拡充も推し進めた。外交ではバルカン方面からアジア方面に南下政策の矛先を変え、清朝から沿海州を獲得したほか、中央アジアのイスラム系3ハン国を併合した。
爆殺[編集]
「アレクサンドル2世爆殺事件」も参照
しかし、1863年に当時ロシア帝国の支配下にあったポーランドで独立を求める反乱が起きたことでアレクサンドル2世は反動化し、一連の改革を中止した。この頃のロシア国内では「ナロードニキ」と呼ばれる知識人青年を中心とした帝制打倒を目指す運動が活発化しており、アレクサンドル2世に失望した彼らの一部はテロリズムに走った。1881年3月13日午後2時、アレクサンドル2世は馬場から宮殿への帰路で「人民の意思」の社会主義者に爆弾を投げつけられた。一発目の爆発は頑丈な馬車のおかげで大事に至らなかったが、別の馬車に避難しようと降りたところで足元で二発目の爆弾が炸裂し、致命傷を負った。アレクサンドル2世は直ちに搬送されたが手遅れで、3時30分ごろに崩御した。享年62。長男のニコライは21歳で亡くなっていたため、次男のアレクサンドル3世が後を継いだ。