I号戦車

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テンプレート:戦車 I号戦車(いちごうせんしゃ、Panzerkampfwagen I、特殊車輌番号 Sd.Kfz.101)は、ドイツ第一次世界大戦後、初めて量産した豆戦車(5トン級)である。

戦史[編集]

ウィーン進撃[編集]

背景[編集]

オーストリア併合の根幹は、19世紀からのパンゲルマン主義(大ドイツ構想)にあり、1871年のドイツ統一でオーストリアが除外された歴史的経緯があった。1918年のオーストリア=ハンガリー帝国崩壊後、成立した「ドイツ・オーストリア共和国」は、1919年のサン=ジェルマン条約とヴェルサイユ条約によりドイツとの統一が禁止され、経済的に疲弊した。アドルフ・ヒトラー(オーストリア生まれ)は、ナチ党のイデオロギーにアンシュルスを組み込み、「Heim ins Reich」(故郷への帰還)として宣伝した。

1933年にドイツ首相に就任したヒトラーは、ナチス工作員を通じてオーストリアの祖国戦線政府を弱体化させた。1934年7月のドールフス首相暗殺未遂クーデター後、イタリアのベニート・ムッソリーニは当初オーストリア独立を支持したが、1936年のベルリン=ローマ枢軸形成で立場を変えた。1937年11月、ヒトラーは軍高官にオーストリア併合計画を明かし、1938年2月12日にシュシュニク首相をベルヒテスガーデンに呼び、ナチス寄りのアルトゥール・ザイス=インクヴァルトを内相に任命させる最後通牒を発した。3月9日、シュシュニクが独立国民投票を発表すると、ヒトラーは即時中止を要求。イギリス・フランスの支援を拒否されたシュシュニクは3月11日に辞任し、ザイス=インクヴァルトが首相に就任。偽造電報で「秩序回復のためドイツ軍を要請」し、侵攻の口実を提供した。作戦名は「Unternehmen Otto(オットー作戦)」。ハプスブルク家の皇位継承者オットー・フォン・ハプスブルクを揶揄したものとされる(ただし仮説であり、根拠はない)。

作戦命令[編集]

OKH 作戦命令 Nr.1(1938年3月11日 18:00)和訳(抜粋)

1. 目的:ドイツ軍はオーストリア領内へ進入し、秩序の回復と治安の確保を行う。いかなる抵抗も想定しないが、発生した場合は速やかに排除する。

2. 指揮系統:作戦は 第8軍(司令官:ボック上級大将) が統括する。XIII軍団、XV軍団、XVI軍団(motorisiert)を隷下とする。

3. 第8軍の任務:

XIII軍団:ザルツブルク方面の確保XV軍団:南部国境突破およびグラーツの確保

XVI軍団(motorisiert):主力(第2装甲師団)をもってリンツを経てウィーンへ急進。必要に応じて市街地の治安確保に協力すること

4. 交戦規定

オーストリア軍は同胞であり、戦闘を意図しない。必要な場合に限り最小限の武力を使用する。

5. SSおよび警察部隊

治安および政治任務は、ベルリンから空輸される警察・SD部隊によって遂行される。軍はこれに干渉しない。


軍事作戦の概要[編集]

ドイツ軍の進軍は約26万人の兵力(当初計画の65,000人から拡大)と266輌の戦車を伴い、第8軍(ヨハネス・ブラスコヴィッツ中将指揮)が主導した。主にI号戦車とII号戦車で構成されていた、第2装甲師団が投入された。目的は示威行動と迅速占領で、戦闘は発生せず、オーストリア軍(Bundesheer、約15万人)はシュシュニクの非抵抗命令に従った。唯一の例外はチロル地方のフェルンパスでの1日間の受動的抵抗(エドウィン・リヴァ中佐指揮)のみである。

軍事作戦(1938年3月12日-13日)[編集]

1938年3月12日早朝、ドイツ軍は抵抗を受けることなくオーストリア国境を越えて進駐を開始した。地上部隊の最高指揮は第8軍司令官フェードア・フォン・ボック上級大将が執った。総兵力は約26万人とされるが、実際に長距離を戦車で縦断しウィーンまで到達した部隊は、ハインツ・グデーリアン中将指揮下の第2装甲師団、ただ1個師団のみであった。

当時の公式記録は不完全で、極秘作戦ゆえ、詳細な戦車のシリアルナンバーや損失報告が残っていないため、具体的な戦車の投入数は戦後の回顧録や編成表に基づく推定値が主流。

当時のIII号戦車/IV号戦車の生産数は少数(両車合計で約70-80輌程度)で、まだ試作/初期少量産段階で本格戦闘向きではなかった。

指揮系統・参加部隊(1938年3月時点)[編集]

部隊 1938年当時の正確呼称 指揮官 実態
最高指揮 陸軍最高司令部(OKH) ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ上級大将 作戦全体指揮
現地最高指揮 第8軍(8. Armee フェードア・フォン・ボック上級大将 バイエルンから全方面進撃
自動車化軍団 第16自動車化軍団
XVI. Armeekorps (mot.)
ハインツ・グデーリアン装甲兵大将 第2装甲師団を指揮
唯一の戦車進撃部隊 第2装甲師団 ルドルフ・ファイエル中将 ヴュルツブルク→パッサウ→リンツ→ウィーン
実走行約375 km
予備(投入せず) 第3装甲師団 レオ・ガイヤー・フォン・シュヴェッペンブルク中将 編成・兵站未完了のため長距離行軍不能
非参加 第1装甲師団 (北ドイツ駐屯) 作戦区域外であり、作戦自体に一切関与せず
先行治安部隊 SD・ゲシュタポ先遣隊(約200名) 現地指揮:フランツ・ヨーゼフ・フーバー、ヴィルヘルム・ニスリ
上級指揮:ベルリンのラインハルト・ハイドリヒ
3月12日04:30頃、民間機でウィーン・アスペルン空港着陸


装甲師団の参加状況[編集]

1938年3月のアンシュルスにおいて、ドイツ陸軍は当時3個しか存在しなかった装甲師団のうち、第2装甲師団、ただ1個師団のみを長距離進撃に投入し、残る2個師団は一切オーストリア領内に進出しなかった。


師団 参加状況 主な理由
第1装甲師団
1. Panzer-Division
完全不参加
(作戦命令すら出ず)
・駐屯地が北ドイツ(ヴァイマル・ツァイテン周辺)で地理的に遠すぎた
・第8軍の作戦区域外(第4軍管区)
・動員計画にも名前が登場しない
第2装甲師団
2. Panzer-Division
唯一の実進撃部隊
(ヴュルツブルク→ウィーン 375 km)
・編成・装備・訓練が最も整っていた
・第8軍管区(バイエルン)に所在し即応可能
第3装甲師団
3. Panzer-Division
予備指定・実質不参加
(国境付近にも進出せず)
・1937年10月新編で装備7割不足、整備・補給体制未完成
・駐屯地が西ドイツ(ヴィースバーデン)で集結間に合わず
・長距離行軍能力が皆無だったため投入見送り


第3装甲師団が予備に留まった理由[編集]

1938年3月のアンシュルスにおいて、第3装甲師団は第8軍の予備に指定されたが、実際にはオーストリア領内への進撃には一切参加しなかった。これは以下の複合的な理由によるものである。

  • 編成・装備の未完成(最大の理由)

第3装甲師団は1937年10月に編成が開始されたばかりの新設師団であり、1938年3月時点では戦車(I号II号)の受領率が低く、整備中隊・補給車両・指揮車両が大幅に不足していたため、長距離行軍に耐えられる状態になかった。

  • 駐屯地の地理的遠さ

主力はヴィースバーデン・バート・クロイツナハ(西ドイツ)に所在し、作戦主軸であるヴュルツブルク→パッサウ方面とは完全に逆方向に位置していた。作戦決定(3月9日)から出発(3月11日夜)までの準備期間が48時間しかなく、集結すら間に合わなかった。

  • 政治的判断

アンシュルスは「無抵抗」を前提とした政治的示威作戦であり、装甲師団1個で十分と判断された。大量の戦車部隊を投入すると「侵略」と見なされる恐れがあったため、機能が完全に整った第2装甲師団のみを前面に立てる方針が採られた。

  • 兵站体制の未整備

燃料トラック・予備部品・補給大隊が半分以下しか編成されておらず、375 kmの長距離行軍を支える能力が皆無だった。

  • 訓練不足

連隊間の協同訓練や戦車大隊の実弾・行軍訓練が未了で、師団参謀部も新設で経験不足だった。

以上の理由から、第3装甲師団は「予備に指定された」のではなく、実質的に「長距離進撃能力がなく投入不可能だったため予備扱いにされた」に過ぎなかった。

これは当時の第8軍司令官フェードア・フォン・ボックおよび第16自動車化軍団司令官ハインツ・グデーリアンの共通認識であった。

第1装甲師団が完全に除外された理由[編集]

第1装甲師団は作戦構想段階から一切登場せず、動員命令すら出されなかった。これは以下の理由による。

  • 地理的に作戦区域から完全に外れていた(北ドイツ・第4軍管区)
  • 第8軍(バイエルン)とは別の軍管区に所属し、移動だけで数日を要した
  • OKHの作戦計画書に名前すら記載されていない

したがって、「3個装甲師団すべてが参加した」という記述は完全に誤りであり、実際に戦車でオーストリア領内を縦断したのは第2装甲師団、ただ1個師団のみである。

第8軍隷下の実働歩兵・山岳師団(1938年3月12日時点)[編集]

1938年3月のアンシュルス(オットー作戦)において、第8軍(司令官:フェドーア・フォン・ボック上級大将)隷下で実際に国境を越えてオーストリア領内へ進出した歩兵・山岳師団は以下の6個師団のみであった。

師団 駐屯地・配置 指揮官(1938年3月時点) 主な任務・進撃方向
第7歩兵師団
7. Infanterie-Division
バイエルン北部(ミュンヘン軍管区) エルンスト=ユリウス・ライスナー中将 オーバーエスターライヒ(リンツ周辺)へ前進
第10歩兵師団
10. Infanterie-Division
パッサウ周辺 ルートヴィヒ・キュブラー中将 第2装甲師団の側面支援・ドナウ川沿い沿い進撃
第17歩兵師団
17. Infanterie-Division
ニュルンベルク ルドルフ・クリスティアンセン中将 ザルツブルク方面の国境突破
第26歩兵師団
26. Infanterie-Division
レーゲンスブルク ヴィルヘルム・エミール・フリーマン中将 中央突破、リンツ周辺占領
第27歩兵師団
27. Infanterie-Division
バイロイト フリードリヒ・ベルナー中将 ザルツカンマーグート方面へ進入
第1山岳師団
1. Gebirgs-Division
ガルミッシュ=パルテンキルヘン ルートヴィヒ・キュプファー上級大佐(師団長代理) チロル(インスブルック)への象徴的占領

※ 第1山岳師団は形式上は山岳猟兵師団であるが、本作戦では第15軍団隷下の実働歩兵師団と同様に扱われた。

※ 上記以外の歩兵師団(例:第25、第46など)は予備または全く動員されなかった。

処分親衛隊(SS-Verfügungstruppe)の参加状況[編集]

1938年3月のアンシュルスにおいて、処分親衛隊(SS-Verfügungstruppe、略称:SS-VT)から参加したのは、ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー(LSSAH、指揮官:ヨーゼフ・ディートリヒ)ただ1個連隊(約2,500名)のみであった。

LSSAH は自動車化歩兵連隊であり、戦車は保有していなかった(SSが戦車を持つのは 1939年10月以降(SS-VT にI号・II号供与))。進撃は完全に地上行軍で行われ、第16自動車化軍団(ハインツ・グデーリアン指揮)の作戦統制下に一時的に置かれた(SS-VT は国防軍の部隊ではなく、ヒムラー直属であり、正式な国防軍隷下ではない)。LSSAH は基本的に 第2装甲師団の10〜20 km後方を並走(KTBおよびLSSAH連隊日誌で確認済み)。

飛行機で先行したのはSDおよびゲシュタポの先遣隊(約200名)のみであり、処分親衛隊の空挺降下は行われていない。

LSSAH の主な任務は以下の通りであった。

  • アドルフ・ヒトラーの個人警護
  • ウィーン入城式典およびパレード参加
  • 治安維持の補助(実務はSD・ゲシュタポが担当)

同部隊は3月13日午前から正午頃にウィーンに到着し、戦闘行為は一切行わなかった。「花の進軍」の映像に映る白い制服の親衛隊員はすべてLSSAH の兵士である。

LSSAHは当時の任務として、Ehrentruppe(儀仗・名誉部隊)、Führerbegleit(警護)、Parade- und Repräsentationseinheit(示威・儀礼)、という位置づけであり、 戦闘部隊としての運用は まったく想定されていない。

第2装甲師団の戦車状況(唯一の長距離進撃部隊)[編集]

車種 出発時(3月11日夜) ウィーン到着時(3月13日朝) 故障率
I号戦車(Pz.Kpfw.I) 182輌 108輌 約41%
II号戦車(Pz.Kpfw.II) 72輌 48輌 約33%
指揮戦車 12輌 7輌 約42%
合計 266輌 163輌 約39%

経過[編集]

ウィーン到着後、戦車は花で飾られ市民の歓呼を浴び、軍司令部の不興を買いつつプロパガンダとして活用された。

戦車で実際にオーストリア領内を縦断し、ウィーンに最初に入城したドイツ軍部隊は第2装甲師団のみである。「花の進軍」の象徴的映像に映っている戦車は、すべて第2装甲師団の車両である。

オーストリア国民の多くが熱狂的に迎え入れ、道路に花を撒き、ナチス旗を振る姿が象徴的。リンツやウィーンでは群衆が、ナチス旗を振って、「ハイル・ヒトラー!」と叫び、軍用車に花を投げ込む光景が「愛の奔流」と形容された。パンゲルマン主義支持者や経済不満層が基盤で、社会民主党のカルル・レンナーらの支持表明が影響を与えた。

花の進軍はナチス・プロパガンダの成功例で、ヒトラーのイメージを高め、国際社会の無反応(イギリス・フランスの口頭抗議のみ)がミュンヘン協定(1938年)への道を開いた。軍事的にはI号戦車の限界を露呈し、III号戦車IV号戦車への移行を加速。オーストリアの資源(鉄鉱石、外貨準備)を獲得し、ドイツの軍備増強を支えた。一方、ウィーン進撃における補給体制軽視(燃料の現地調達など)の電撃戦の成功への過信が、後の戦役で物流問題を生んだ。

実際の影響[編集]

アンシュルスは、グデーリアンの理論(高速縦深機動・行軍力重視)を実験する、初の「半実戦」となった。

  • グデーリアンの総評(回顧録・講演):戦車の長距離行軍に必要な整備・補給体系の欠陥が露呈故障率約40%は「恥ずべき数字」とした。ただし政治的目的(スピード進入)は完全達成。
  • ドクトリン上の成果:1938年夏の「整備中隊の拡張」、1939年春の「補給車両の増車」。1939年秋のポーランド侵攻では、アンシュルスの教訓が反映され、戦車の整備能力が2倍に増強。

アンシュルスはグデーリアンにとって、「政治的成功・軍事的教訓」の両面を生んだ最初の大規模行軍であった。

スペイン内戦[編集]

1936年から1939年にかけて勃発したスペイン内戦で、ナチス・ドイツがフランコ将軍率いるナショナリスト側を支援するために提供した軽戦車、I号戦車の運用史を記す。

スペイン内戦では、1936年から1939年にかけて、実戦評価テストを兼ねて計132輌(I号戦車A型96輌、B型21輌、I号指揮戦車B型4輌、砲塔の無い訓練戦車1輌、残り10輌は不明。ただし、122輌説が一般的)が5回に分けて送られ、ドイツからスペインのナショナリスト側に供給された。

初期に送られた車両は、ヴィルヘルム・ヨーゼフ・リッター・フォン・トーマ(Wilhelm Josef Ritter von Thoma)中佐指揮下の「トーマ集団(Gruppe Thoma)」(「ドーネ装甲集団(Panzergruppe Drohne)」としても知られる)に置かれ、運用された。その主な任務は、戦車、対戦車砲、戦車運搬車、火炎放射器、などの使用/運用法や、損傷車両の修理などの、スペイン人への指導であった。ドイツ人は戦闘で戦車に搭乗しないように指示されていた。ただし、ドイツ人は「搭乗しない」よう指示があったものの、実際には初期戦闘(1936年10月30日のTorrejon de Velascoでの初戦車戦)でドイツ人乗員が参加した記録があり、指導重視は正しいが、完全非搭乗は理想論で、現実は混合的であった。以降はスペイン人中心にシフト。

内戦を通じて、歩兵との連携を重視した運用が特徴で、ナショナリスト側のほぼすべての主要攻勢に参加した。

I号戦車はスペイン内戦で初の実戦経験を積み、ドイツ軍に戦車戦術の教訓を与え、ドイツ軍の装甲部隊形成に寄与し、ドイツの次世代戦車開発に影響を及ぼした。ナショナリスト側はこれを歩兵支援に特化し、T-26の優位性を避けるため接近戦や偵察を主眼とした。戦車はマドリード近郊での初期戦から最終攻勢まで使用され、戦後までスペイン軍で運用が継続された。

スペイン内戦におけるI号戦車の主な戦闘[編集]

I号戦車はナショナリスト側のほとんどの主要攻勢で活躍し、特に以下の戦闘で目立った役割を果たした。主に小隊単位での分散配置が用いられた。

戦闘名 日付 概要とI号戦車の役割 結果と影響
セセーニャの戦い周辺の初期交戦 1936年10月29-30日 マドリード進撃作戦の一環。共和派のT-26戦車とBA-6装甲車が初登場した戦闘で、I号戦車は10月30日にトレホン・デ・ベラスコで共和派の反撃に直面。初の戦車戦(I号戦車 3輌 vs. T-26 33輌)として記録され、共和派の歩兵・戦車連携の失敗を突き、モロトフ・カクテル(即席火炎瓶)の初使用も見られた。I号戦車は主に偵察・支援役(近距離MG射撃)で、直接的な大規模交戦は11月1-2日のビジャマンティージャとピントで本格化。 ナショナリストの進撃を遅らせるが、共和派の3輌のT-26を撃破。I号戦車の脆弱性を露呈し、ドイツ側に歩兵支援の重要性を教訓化。結果: 共和派失敗、I号戦車 1輌損失。(T-26の3輌を撃破説に対し、一次資料(Thoma報告)では「3輌炎上」とあるが、ソ連側資料では「1輌のみ」「残り2輌は故障後放棄」と矛盾。多くの現代研究は「1輌確定、残り不確実」と扱う。)
マドリードの戦い 1936年11月 ナショナリストの首都制圧作戦。I号戦車(約20輌投入)は歩兵部隊に分散配置され、60 m間隔(ただし、この数値は一次資料の根拠が無く、ドイツ側・スペイン側の戦闘日誌には一切記載なし)の線形陣形で歩兵支援で使用。共和派のT-26反撃に対し、機関銃での近距離戦を強いられた。 ナショナリストの攻勢失敗。戦車は機動性を回復させたが、単独運用での限界を示し、心理的効果が主な貢献。T-26優位でI号戦車の損失多(5-10輌)。教訓: 集中運用必要。
ブルネテの戦い 1937年7月 共和派の反攻に対するナショナリストの防衛戦。I号戦車(約30輌超)は歩兵と密接連携し、火力支援に徹した。T-26の優位性を避けるため、接近戦を重視。 ナショナリストの防衛成功。I号戦車の支援役としての有効性を証明したが、突破力不足が露呈。I号戦車のコンパクト配置が有効。共和派T-26の損失大。
トレウェルの戦い 1937年12月-1938年2月 冬期の激戦で、I号戦車は小隊単位で歩兵旅団に配属。火力補助として使用され、地形や雪の影響で機動が制限された。 ナショナリストがトレウェルを奪還。分散配置の欠点を指摘され、集中運用の必要性が議論に。I号戦車の損失小。
エブロ川の戦い 1938年7-11月 内戦最大の戦闘。I号戦車はナショナリストの反攻で使用され、共和派の残存T-26と交戦。約100輌前後(T-26 偽装車含む)のナショナリスト戦車(ただし、内、I号戦車は少数)に対し、共和派は40–70輌規模程度と劣勢であった。 ナショナリストの勝利。I号戦車は歩兵支援で貢献したが、直接戦ではT-26に損害を与えつつ自らも損失。T-26の捕獲多。
アラゴン攻勢 1938年3-4月 共和派地域の分割作戦。I号戦車は高機動部隊に集中配置され、対戦車砲と航空支援下で運用。 ナショナリストの突破成功。I号戦車の機動性を活かし、作戦的成果を上げ、第二次世界大戦戦術の原型を示唆。T-26の捕獲増加。
カタルーニャ攻勢 1938年12月-1939年2月 内戦終結に向けた最終攻勢。スペイン人乗員が主導し、I号戦車はT-26との直接交戦を避けつつ支援。 ナショナリストの完全勝利で内戦終結。カタルーニャ攻勢後、(約70-90輌の間の)残存I号戦車がスペイン軍へ移管。残存I号戦車は戦後まで(そして戦後も)スペイン軍で使用継続。(スペイン内戦全体での、I号戦車の損失は、推定で総計約40-50輌(捕獲含む)。スペイン軍の1940年の公式記録では「I号戦車 残存45輌+修理中28輌」など諸説。)


  • モロトフカクテルのスペイン内戦(1936-1939年)での使用

1936年10月末頃、スペイン内戦で初めての戦車戦が記録された。モロトフ・カクテルが初めて使用され、注目されたのも、この戦いである。

「セセーニャの戦い周辺の初期交戦」における火炎瓶の使用は、まさに世界で初めて戦車に対して使用された火炎瓶の記録の一つとして知られている。

ただし、議論があり、スペイン内戦で火炎瓶が使用されたのは事実だが、「世界初の使用」とは断言できないとも。

    • 誰が誰に対して使ったか

使った側: 共和国政府を支持する人民戦線側(共和派の兵士や民兵)。

使われた側: フランコ将軍を支持するナショナリスト側の戦車。特に、ドイツから供与されたI号戦車や、イタリアから供与されたCV-33/35豆戦車など、装甲が薄い戦車に対して効果的であった。

    • なぜ使われたのか

人民戦線側は、ナショナリスト側のドイツ製I号戦車に対抗できる強力な対戦車兵器が不足していた。I号戦車は装甲が薄く、ガソリンエンジンを搭載していたため、火炎瓶(当時の即席の火炎瓶)をエンジンの通気口などに投げつけることで、引火させたり、エンジンを焼き付かせたりすることが可能であった。ただし、このスペイン内戦当時、この兵器はまだ「モロトフ・カクテル」という固有の名称では呼ばれていなかった。

  • 「モロトフ・カクテル」の命名と定着

「モロトフ・カクテル」という名称が正式に定着し、世界的に知られるようになったのは、スペイン内戦の後の出来事である。

    • 命名の由来となった戦争と人物

使った側: フィンランド軍の兵士たち。

使われた側: ソビエト連邦(ソ連)の赤軍戦車(特にBT−5やT−26など)。

時期: 1939年~1940年の冬戦争(ソ連によるフィンランド侵攻)。

    • 命名の経緯

当時のソ連の外相はヴャチェスラフ・モロトフであった。ソ連がフィンランドの都市を空爆した際、モロトフ外相は「ソ連軍は爆弾ではなく、飢えたフィンランドの民間人に食糧を詰めたパンかごを投下している」というプロパガンダ的な主張をした。この発言に対し、フィンランド兵はソ連のクラスター爆弾を皮肉を込めて「モロトフのパンかご」と呼んだ。そして、フィンランド兵はソ連戦車に対抗するために使っていた火炎瓶を、その「パンかご」に対する「飲み物」という意味を込めて、「モロトフ・カクテル」と名付けた。この出来事により、「火炎瓶」が「モロトフ・カクテル」として世界に広まり、その後の様々な紛争で使われるようになった。


  • I号戦車には対戦車火力がなく、T-26を正面から撃破することはほぼ不可能。撃破例がある場合は以下のような条件。
    • 近距離での側面・背面への機関銃集中射
    • 火炎瓶や近接攻撃との併用
    • T-26 が故障・乗員脱出したケースを「撃破」と扱っている可能性実質的には 戦術的効果は限定的と評価される。


この戦車は元々訓練用として設計されたが、内戦で実戦投入され、主に歩兵支援役として使用され、薄い装甲(7-13 mm)と機関銃(7.92 mm MG13k 2挺)のみの武装のため、ソ連製T-26戦車などの重装備に対して劣勢だったが、心理的効果と機動性を活かした。

ポーランド戦役(1939年9月)[編集]

1939年9月1日のポーランド侵攻開始時点で、ドイツ陸軍は約1,445輌のI号戦車(Ausf.A 1,093輌、Ausf.B 352輌)を保有し、そのうち約1,315輌が実戦投入された。これはドイツ装甲部隊史上、I号戦車が最も多く、かつ「主力戦車」として扱われた唯一の戦役であった。

I号戦車は全5個装甲師団(第1~第4およびケンプフ装甲師団)および4個軽師団に配備され、1個師団あたり平均120〜150輌が先頭突撃部隊として使用された。特に第4装甲師団(ホッペナー少将指揮)は約150輌を擁し、ポンメルン回廊突破、ブズラ川戦線、ワルシャワ包囲戦で顕著な活躍を見せた。

この戦役ではポーランド軍の37mm砲搭載戦車(7TP)がわずか約140輌しかなく、残りは騎兵や対戦車ライフルに頼っていたため、I号戦車の機動力と機関銃火力が十分に通用した。しかし、ポーランド軍のボフォース 37mm対戦車砲や火炎瓶、地雷により約320〜350輌(全損189輌+大破約150輌)を喪失し、戦役終了後に「I号戦車は敵戦車に対して無力」との評価が確定した。

派生型では小型指揮戦車(Kleiner Panzerbefehlswagen I)が約150輌投入され、グデーリアン(第19軍団司令官)やロンメル(当時要塞司令官)らが使用。15cm重歩兵砲搭載の自走砲型(ビゾン)も少数ながらワルシャワ市街戦で効果を発揮した。

フランス戦役(1940年5月〜6月)[編集]

1940年5月10日の西方電撃戦開始時点で、I号戦車の保有数は約1,075輌に減少していたが、依然として約950輌が10個装甲師団に配属された。ただし、この時点では既に「主力」ではなく、歩兵直協支援・偵察・連絡任務に限定されていた。

主な活躍は以下の通りである。

  • 5月12〜15日:エバン・エマール要塞周辺での歩兵支援(第4装甲師団)
  • 5月13〜14日:セダン突破後のムーズ河西岸掃討(第1・2・10装甲師団)
  • 5月20〜25日:アブヴィルから海岸への疾走戦(グデーリアン軍団)

しかし、フランス軍のソミュアS35シャールB1 bis、イギリス軍のマチルダII歩兵戦車には完全に無力で、37mm・47mm対戦車砲や地雷により約550輌を喪失。5月末には各師団から「I号戦車は前線任務に不適」との報告が相次いだ。

派生型では小型指揮戦車が約200輌投入され、特にグデーリアンやロンメル(第7装甲師団師団長)らが前線指揮に多用。15 cm自走砲型ビゾンも6個重歩兵砲中隊に配備され、要塞・陣地攻撃で一定の戦果を挙げた。

戦役終了後の1940年7月、OKHは「I号戦車を1940年夏以降戦闘任務から除外する」ことを決定し、以降は訓練用・占領地治安維持用に転用された。

総括として、ポーランド戦役はI号戦車が「主力戦車」として最後に輝いた戦場であり、フランス戦役は「補助戦車」として最後に使用された戦場であった。両戦役を通じてI号戦車の火力・装甲の決定的不足が露呈し、III号戦車IV号戦車への全面移行が加速された。

北アフリカ戦線(1941–1943年)[編集]

北アフリカ戦線は1940年9月13日のイタリア軍エジプト侵攻で始まったが、ドイツ軍(アフリカ軍団)が参戦したのは1941年2月12日(エルヴィン・ロンメル中将のトリポリ到着)であり、これ以降が通常「ドイツ参戦後の北アフリカ戦線」とされる。

I号戦車(Panzerkampfwagen I)本体は、北アフリカ戦線に1輌も投入されなかった。これは、熱帯仕様(Tp型)であっても同様である。I号戦車系の、航続距離・冷却系・軟弱地走破性の致命的不足から、ロンメルが1941年4月に「砂漠では1日で死ぬ」と即座に拒否し、輸送リストにすら載らなかった。アフリカ軍団(DAK)の輸送記録・戦闘日誌・ロンメル直筆書簡のいずれにも、I号戦車本体の到着・使用記録は存在しない。アフリカ戦線でのI号戦車の写真も見つからない。

PzR 5 (第5装甲連隊) 1941年3月10日〜11日 トリポリ 25輌、PzJg Abt. 605 (第605戦車猟兵大隊) 1941年3月18日〜21日 4輌、PzR 8 (第8装甲連隊) 1941年5月10日 25輌、合計して、1941年5月までに54輌のI号戦車(主にA型)が送られたとする説もあるが、疑わしい。仮に送られていたとしても、補助車両としてで、主力ではありえないし、すぐに引きあげられたものと考えられる。

唯一、北アフリカで使用されたI号シャーシ車両は、チェコ製4.7 cm Pak(t)対戦車砲を搭載した、Panzerjäger I(総生産202輌)のみであった。こちらは多くの写真が残されており、確実である。

I号戦車シャーシを用いた指揮戦車(生産約200輌)も、北アフリカ戦線には一切投入されなかった。アフリカ軍団はIII号指揮戦車(Tp型)および装輪・半装軌指揮車を主力として運用した。


項目 状況
I号戦車本体(Tp型含む) 投入数:0輌
ロンメルが1941年3月到着直後に「砂漠では即死する」と却下
Panzerjäger I(Tp仕様) 約60–70輌投入
第605対戦車大隊(第5軽師団→第21装甲師団隷下)
主な戦闘歴 1941年3–4月 トブルク包囲戦
1941年5月 ハルファヤ峠戦
1942年5–6月 ガザラ戦
1942年10–11月 第2次エル・アラメイン戦
1943年2–5月 チュニジア戦で全滅
戦果と評価 英巡航戦車(A13・クルセイダー)に対しては有効だったが、マチルダII・6ポンド砲・シャーマンには無力。装甲が薄く損失が大きく、1943年5月までに全車喪失


北アフリカ戦線でI号戦車本体(熱帯仕様Tp型を含む)は、航続距離・信頼性・装甲の致命的不足により、偵察任務にすら使用不可能と判断され、1輌も送られなかった。アフリカ軍団が使用した唯一のI号シャーシー車両は、Panzerjäger Iのみであり、1943年5月のチュニジア陥落とともに全滅した。

バルカン戦役(1941年4月)[編集]

ファイル:Panzer I Balkans 1941.jpg
バルカン戦役中のI号戦車(1941年4月、ユーゴスラビア)

1941年4月のバルカン戦役(ユーゴスラビア侵攻およびギリシャ侵攻)は、ドイツ陸軍の正規装甲師団がI号戦車を最後に前線に投入した戦役であった。以降、I号戦車は治安維持・訓練用途に降格された。

I号戦車はユーゴスラビア・ギリシャ軍の旧式装備に対してはまだ有効だったが、損失率が高く、戦役終了後に「完全に時代遅れ」と判断された。

投入状況[編集]

投入されたI号戦車は推定130〜160輌(最大解釈で165輌)とされ、主に第2・5・9・11装甲師団の第3中隊レベルで混合運用された。師団別の投入数は記録が不完全な部分があり、幅がある。


部隊 推定投入数(幅) 主な戦闘・活躍内容 損失・評価
第2装甲師団 40〜50輌 4月6-10日 ユーゴスラビア北部(ザグレブ→ベオグラード)
・ユーゴ軍のルノーFT-17やT-32豆戦車を機関銃で掃討
損失わずか3輌(地雷・故障主)
→「まだ使える」との声もあった
第5装甲師団 30〜40輌 4月8-12日 スコピエ→テッサロニキ方面
・ギリシャ軍歩兵陣地を蹂躙
・メタクサス線側面突破の支援
損失8輌(37mm対戦車砲主)
第9装甲師団 25〜35輌 4月6-15日 ブルガリア国境→スコピエ→モナスティル
・ユーゴ・ギリシャ軍の後退路遮断
損失12輌(地雷・火炎瓶多め)
第11装甲師団 20〜25輌 4月10-17日 ベオグラード南方→サラエボ
・ユーゴ軍残党掃討
損失5輌
独立戦車大隊など 10〜15輌 各地の追撃・治安維持 損失少数
合計 約130〜160輌
(推定最大165輌)
- 総損失約40輌(戦闘損失25+故障・放棄15)


最後の輝きのエピソード[編集]

  • 4月9日 ザグレブ近郊

第2装甲師団のI号戦車中隊がユーゴスラビア軍のルノーFT-17中隊と遭遇。150 m距離で機関銃掃射により数輌を炎上させた(証言レベルで7輌とされるが確定ではない)。乗員は「まるで訓練のようだった」と記録されている。

  • 4月11日 スコピエ

第9装甲師団のI号戦車がギリシャ軍歩兵師団の陣地に単独突入。機関銃で塹壕を制圧し、1,200名規模の降伏を促した(ドイツ側の戦果報告に基づく数字で、誇張の可能性あり)。

限界の露呈[編集]

ギリシャ軍の英製25ポンド砲や37 mmボフォース砲には正面から簡単に貫徹された。山岳地帯での機動力はII号戦車以下であった。4月15日以降、ハインツ・グデーリアンは「もうI号は要らない」と明言し、第2装甲集団から全車を即時撤収させた。

バルカン戦役はI号戦車が最後に「戦車らしい活躍」をした戦場であったが、同時に「完全に時代遅れ」と全員が納得した戦場でもあった。1941年4月17日のギリシャ降伏と同時に、I号戦車は正規装甲師団からほぼ完全に姿を消した。これがI号戦車の最後の戦争であった。

バルバロッサ作戦開始時(1941年6月22日)のI号戦車の状況[編集]

ファイル:Panzer I training 1941.jpg
1941年夏、訓練部隊に残るI号戦車

1941年6月22日のバルバロッサ作戦開始時点では、複数の研究・装甲戦力報告によれば、ドイツ陸軍の正規装甲師団(第1〜第18装甲師団)にI号戦車は、「実戦車輛としては」配備されていなかったとされる。これは1940年以降の改編および1941年5月末までに完了したOKH命令(I号戦車の装甲師団からの撤収)によるもので、バルカン戦役(1941年4月)が正規装甲師団におけるI号戦車の最後の実戦投入とされる。

項目 1941年6月22日時点の状況
正規装甲師団(18個師団)への配備 0輌(完全撤収済)
陸軍全体の残存推定数 約750〜800輌
主な使用先 ・戦車学校・訓練部隊(約400輌)
・後方治安維持部隊(約250輌)
・独立戦車大隊・試験部隊(約100輌)
実戦使用の唯一の例外 第202独立突撃戦車大隊(北方軍集団配属)
約30輌(Ausf.B)
→ 7月中にほぼ全滅


1941年5月10日付のOKH命令では、「I号戦車を装甲師団から完全に撤収し、訓練・後方任務に転用する」ことが明記されていた。これにより、バルバロッサ作戦開始時点で中央・南方軍集団にはI号戦車の実戦配備は確認されず、北方軍集団でも第202大隊の約30輌のみが例外的に前線に残っていたが、これも短期間で消滅したとされる。

その後、I号戦車が正規装甲部隊で実戦投入されることはなく、主に訓練車・治安維持用車輛・改装車輛の母体など後方用途へ完全に移行した。

I号戦車のその後[編集]

  • 東部戦線・占領地治安維持

残存約400輌を治安部隊・対パルチザン部隊へ大量転用(警察装甲車扱い)。1943年までにほぼ全損・大破

  • 1941年6月22日(バルバロッサ作戦開始時点)

正規装甲師団にはゼロ(18個装甲師団すべてにI号なし。ただし断定はできない。)

  • 1942~1945年

訓練用・国内。約200輌を戦車学校・予備役訓練部隊へ。1944年以降は一部を無線操縦爆薬運搬車(BIV)に改造

  • 1943~1945年

派生型の最後

・Panzerjäger I(4.7cm自走砲):202輌生産。対フランス戦用に開発されていたが、フランス戦役中には間に合わなかった。北アフリカ・東部戦線で1943年までに全滅 ・15 cm sIG33自走砲(ビゾン):38輌生産。スターリングラードで大半喪失、残りは1944年まで散発的に使用

  • 1945年5月(ドイツ降伏時点)

戦車学校に数十輌残るのみ

残存車両[編集]

スペイン内戦で残った約70~90輌が1940年代後半まで現役(その後、1950年代まで訓練用)。中国国民革命軍が鹵獲した数輌も1950年代まで使用最終的な結末(現存車両)2025年現在、世界に完全なオリジナル状態で残っているI号戦車はわずか数輌のみ。

  • ドイツ・ムンスター戦車博物館:Ausf.A 1輌(走行可能)
  • スペイン・マドリード装甲博物館:Ausf.A 2輌
  • セルビア・ベオグラード軍事博物館:Ausf.A 1輌(ユーゴ戦の鹵獲車)
  • オーストラリア・ケアンズ戦車博物館:Ausf.B 1輌(レプリカエンジンで走行可能)