I号戦車
I号戦車(いちごうせんしゃ、ドイツ語: Panzerkampfwagen I)は、ドイツ国防軍が1930年代に開発・採用した軽戦車である。第二次世界大戦初期において、ドイツ軍の機甲部隊を構成する主力戦車の一つとして運用された。
概要[編集]
第一次世界大戦後、ヴェルサイユ条約によって軍備を厳しく制限されていたドイツは、極秘裏に戦車の開発に着手した。I号戦車は、公式には農業用トラクターとして開発が進められ、秘匿名称「ライヒトトラクター」(軽トラクター)と呼ばれた車両の系譜に連なるものである。しかし、その実態は軍用車両であり、将来的な本格的な戦車開発のための訓練用車両、および歩兵支援用の軽戦車としての役割を担うことが期待された。
開発は1930年代初頭に始まり、クルップ社が設計を担当した。最初に試作された車両は、武装として機関銃を2挺装備するのみであり、装甲も薄かった。これは、ドイツが当時の国際情勢において大規模な軍備を持つことを避けるため、また技術的に未熟であったためという側面もある。1934年に生産が開始され、1935年には部隊への配備が始まった。
開発と生産[編集]
I号戦車の開発は、ドイツ共和国がヴァイマル共和政下にあった1932年に、クラウス=マッファイ社(車体)とクルップ社(砲塔)に原型車両の製作が発注されたことに始まる。この車両は「Landwirtschaftlicher Schlepper」(農業用牽引車)という名目で開発が進められた。1933年にヒトラーが政権を握り、再軍備が本格化すると、開発は加速した。
最初の量産型はI号戦車A型(Panzerkampfwagen I Ausführung A)と呼称され、1934年に生産が開始された。A型は、空冷のクルップM305水平対向4気筒ガソリンエンジンを搭載し、武装は7.92mmMG13機関銃2挺であった。サスペンションはリーフスプリング式で、比較的シンプルな構造であった。
A型の運用経験から、より強力なエンジンと改善された走行性能が求められた。これに応える形で登場したのがI号戦車B型(Panzerkampfwagen I Ausführung B)である。B型は、液冷のマイバッハNL38TR直列6気筒ガソリンエンジンを搭載し、車体後部が延長された。これにより、エンジンの冷却性能が向上し、航続距離も延伸された。また、転輪の数も変更されている。B型は1935年から生産が開始され、A型と並行して配備された。
I号戦車の生産は1937年まで続き、A型とB型合わせて約2,000両が生産されたと推定されている。これは当時のドイツ国防軍にとって、多数の戦車兵を育成し、機甲部隊の編成を可能にする上で極めて重要な意味を持った。
バリエーション[編集]
I号戦車には、基本型であるA型とB型の他に、様々な派生型が存在する。
- I号戦車A型(Panzerkampfwagen I Ausführung A): 初期生産型。空冷エンジン搭載。
- I号戦車B型(Panzerkampfwagen I Ausführung B): A型の改良型。液冷エンジン搭載、車体延長。
- 指揮戦車I号(Kleiner Panzerbefehlswagen): 無線機と地図を搭載し、砲塔をダミーに変えた指揮官用車両。通信能力の向上を図った。
- I号戦車C型(Panzerkampfwagen I Ausführung C): 空挺部隊向けの偵察戦車として開発された型。武装は2cm機関砲と機関銃各1門。機動性が向上しているが、生産数は少ない。
- I号戦車F型(Panzerkampfwagen I Ausführung F): 強力な装甲を持つ歩兵支援戦車として開発された型。I号戦車としては異例の重装甲を備える。武装は機関銃2挺。生産数はごくわずか。
- 対戦車自走砲I号(Panzerjäger I): I号戦車B型の車台に4.7cm対戦車砲PaK36(t)を搭載した対戦車自走砲。フランス侵攻やバルバロッサ作戦初期において活躍した。
- 自走重歩兵砲I号(Sturmpanzer I Bison): I号戦車B型の車台に15cmsIG33重歩兵砲を搭載した自走砲。限られた数しか生産されなかった。
- 火炎放射戦車I号(Flammpanzer I): I号戦車B型から砲塔を取り外し、火炎放射器を搭載した型。東部戦線で短期間使用された。
戦歴[編集]
I号戦車は、第二次世界大戦開戦以前からドイツ国防軍の訓練において重要な役割を果たした。
- スペイン内戦(1936年 - 1939年): 義勇兵として派遣された「コンドル兵団」の一部として、I号戦車A型およびB型が投入された。旧式化した戦車や対戦車兵器との戦闘において一定の戦果を上げたが、より重装甲のソ連製戦車(T-26やBT戦車)に対しては苦戦を強いられた。この経験は、ドイツ軍がより強力な戦車の開発を進める上で貴重な教訓となった。
- ポーランド侵攻(1939年): 第二次世界大戦の緒戦であるポーランド侵攻において、I号戦車はドイツ機甲部隊の主力を構成した。しかし、その軽装甲と機関銃武装では、ポーランド軍の対戦車砲や対戦車ライフルに対して脆弱であることが露呈した。
- フランス侵攻(1940年): フランス侵攻時にも多数のI号戦車が投入されたが、より強力なルノーB1bisやソミュアS35といったフランス軍戦車、およびマチルダII歩兵戦車などのイギリス軍戦車に対してはほとんど通用しなかった。この頃には、既にI号戦車は旧式化しており、より強力なII号戦車、III号戦車、IV号戦車への更新が急務となっていた。
1942年以降、I号戦車はほとんどが第一線部隊から引き揚げられ、訓練用車両や各種自走砲の車台として転用された。最終的に少数の車両が終戦まで警備任務などに使用されたものの、その役割は限定的なものとなった。
評価[編集]
I号戦車は、ドイツがヴェルサイユ条約の制限下で秘匿裏に戦車開発を進めた結果生まれた、過渡期的な車両である。武装と装甲は脆弱であり、本格的な戦闘には不向きであった。しかし、その存在意義は、ドイツ国防軍に多数の戦車兵を育成する機会を与え、機甲師団の編成を可能にした点にある。I号戦車で得られた運用経験と戦訓は、その後のIII号戦車やIV号戦車といった、より強力で洗練された戦車の開発に大きく貢献した。I号戦車は、ドイツ機甲部隊の礎を築いた「練習用戦車」として、その歴史的意義は大きい。
豆知識[編集]
- I号戦車は、その小ささと軽武装から、一部の兵士からは「ねずみ駆除車」と揶揄されることもあった。
- スペイン内戦では、ソ連から供与されたT-26軽戦車との初の戦車対戦車戦闘が発生し、I号戦車の劣勢が明らかになった。この経験がドイツの戦車開発に大きな影響を与えた。
- I号戦車の車体は、後のII号戦車やIII号戦車の設計にも影響を与えている。
関連項目[編集]
参考書籍[編集]
- マイク・スペンサー著, 中村安昭訳, 『第二次世界大戦の戦車』, 大日本絵画, 2000年.
- グランドパワー編集部編, 『グランドパワー 2003年1月号 ドイツI号戦車』, ガリレオ出版, 2003年.
- 斎藤孝太郎著, 『ドイツ機甲部隊の全貌』, 学習研究社, 2002年.