篠原泰之進
篠原泰之進(しのはらたいのしん、文政11年(1828年)10月10日-1911年6月13日は幕末の新選組の隊士である。
新選組前[編集]
筑後国生葉郡高見村の石工業者である篠原元助の長男として1828年に生まれた。幼名を泰輔という。家業に背を向け、実家から10里も離れた久留米城下に出て久留米藩の森兵右衛門や種田宝蔵院流槍術師範に槍術と剣術を学んだ。弘化2年(1845年)、18歳で良移心倒流柔術師範の下坂五郎兵衛に柔術を教わる。1858年(安政5年)5月、主人の有馬右近の江戸藩邸勤番に伴って江戸に出て、6月に赤坂の藩邸についた。その翌月の33歳の時、桜田門外の変の影響から藩邸を脱出し、尊王攘夷の志を抱いて水戸に滞在した。文久元年(1861年)、土江戸に戻り、揚心流柔術師範・戸塚彦介のもとに潜伏した。尊皇攘夷の志士と交流した。 文久三年(1863年)正月からは神奈川奉行所に雇われ、横浜で外国人居留地の警備をする。 この頃、後に[御陵衛士]]となる服部武雄や加納鷲雄、佐野七五三之助と出会い交流を深めた。加納鷲雄の紹介で北辰一刀流の道場を開く伊東甲子太郎に出会い、意気投合した。伊東が浪士隊に入隊したとき、同行した。
新選組後[編集]
篠原は大阪の谷道場にしばらく滞在した後、慶応元年(1865年)に新選組に加入した。1865年(慶応元年)7月頃に作成された隊士名簿「英名録」に「筑後 久留米 篠原泰之進」と書かれる[1]。序列は134名中の17番目で、『壬生浪士始末記』によれば、「諸士調役兼監察」・「柔術師範」を務めた。近藤は篠原を高く評価していたとみられる。『泰林親日記』(筑後之住秦林親称泰之進履歴表)によれば、伊東ら5名と大和奈良出張中に5名の浪士と斬り合いになったとき、篠原は1人で2名を引き受けて1名を斬り、もう1名を柔術の技で組み伏せて退散させたという[2]。 慶応三年(年)3月13日、伊東甲子太郎は近藤、土方と会談し、孝明天皇の御陵衛士となり新選組とは別行動を取ることとした。3月22日、五条の善立寺を経て6月に月真院に本拠地を移動した。新選組はこの行動を表向きには了承したが、脱隊を原則違反とする新選組の近藤勇、土方歳三らは11月18日、伊東甲子太郎を油小路で謀殺し、遺体を引き取りに来た御陵衛士を待ち伏せし3名を斬殺した。篠原泰之進、三樹多門(三木三郎)、加納鷲雄、富山弥兵衛の4名は逃れて薩摩藩邸に潜んだ。 同年12月18日、近藤勇が伏見街道を乗馬で進行しているとき、篠原らは民家に潜伏して近藤を銃撃した。弾丸は近藤の右肩に命中し、近藤は剣を使うことができなくなる重傷を負った。 「鳥羽伏見の戦い」後は相楽総三が率いる赤報隊に属し戦うが、赤報隊は偽官軍の汚名を着されて相楽は斬られ。篠原らは獄に入る。妻女らの助命活動により後に許され、以後は薩摩軍に属して軍曹として越後方面に転戦し、北越戦争、会津戦争などで戦功を挙げた。
明治維新後[編集]
明治維新後は篠原泰之進は秦林親と改名した。戊辰戦争の活躍により永世士族の身分と終身八人扶持、250両の恩賞金を得る。1869年(明治2年)に弾正台少巡察、1872年(明治5年)に大蔵省造幣使の監察役となるが、1873年(明治6年)に篠原泰之進は「二卿事件」への関与が疑われて官職を追われた。京都時代に妻として萩野がいたが、分かれて28歳下のチマと再婚し、泰親と弥三郎(1888年(明治21年)に誕生)の2名の男子をもうけた[3]。長男の篠原泰親は建築家になった。
埋葬等[編集]
1911年(明治44年)6月13日に東京市青山の自宅にて死去する。享年84歳。墓は青山霊園に建てられる。
参考文献・注[編集]
- ↑ 新選組隊士名簿 英名録霊山歴史館
- ↑ 新人物往来社編(1993)『新選組史料集』新人物往来社
- ↑ 新人物往来社編(2003)『新選組銘々伝』新人物往来社