田川精三

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田川 精三(たがわ せいぞう、1911年2月14日[1] - ?)は、教育心理学者[2]。

経歴[編集]

兵庫県出身[1]。1932年東京高等師範学校卒業[3]。1936年広島文理科大学教育学科心理学専攻卒業[4]。宮崎県立宮崎中学校を経て、1939年愛媛県女子師範学校教諭。同年招集され、中国に出征。1946年復員[5]。愛媛師範学校教授を経て[1]、愛媛大学教育学部助教授。1958年8月1日および2日、愛媛県教育委員会主催の小中学校教員研修会の受講者に対する愛媛県教員組合等による受講阻止のための実力行動に参加し、受講拒否を呼びかけたとして、1959年6月8日付で懲戒戒告処分を受けた。7月3日に人事院に不利益処分の審査を請求、東京地裁に戒告処分無効の行政訴訟を提起。1963年6月28日に人事院は懲戒戒告処分は妥当であると判定し、7月2日にこれを公表した。裁判は松山地裁に移ったが、1969年4月5日に大学側との和解が成立し、訴訟を取り下げた(田川事件)[6]。1971年愛媛大学教育学部教授[7]。1976年退職[3]。広島電機大学教員養成課程教授[8]。

1950年2月日本共産党に入党。入党前から日ソ親善運動に従事[9]。日ソ協会松山支部長[10]、日ソ協会愛媛県支部連合会理事長を務めた[11]。1960年に日ソ協会派遣の文化親善使節団員としてソ連を訪問[12]。1965年8月にソ日協会の招待で妻の田川あき(1963年に日ソ協会の訪ソ代表団員として訪ソ)の訪ソが決定したが、党の県委員会が反対した。田川あきは離党届を提出したが、党規律違反で除名された。田川あきは9月下旬から1ヶ月間、日ソ協会とは別に単独で訪ソし[11]、帰国後に新日本婦人の会愛媛県本部会長を解任された。田川精三は1965年9月に共産党に離党届を提出し、1966年に共産党を除名された。日ソ協会を脱会し、1967年5月に愛媛日ソ親善協会を発足させた[13]。

『保坂浩明 自伝と追想に寄せられた感想書簡集』(保坂典代編集・発行、1986年)において、田川精三は「実は家内も松山時代に二十数年にわたって日ソ親善の運動を手つだって参りました。訪ソ経験も二度あります。今も仲々のソ連派です」と述べている。田川あきは「日本のこえは最初から最後まで読者でした」と述べている。

著書[編集]

  • 『愛媛教育残酷物語――これが勤評の実態だ』(編、明治図書[教育問題新書]、1963年)
  • 『不屈の教師たち――その後の愛媛教育』(明治図書[教育問題新書]、1967年)
  • 『転落の「大学」――田川事件顛末記』(蒼人社、発売:勁草書房、1983年)

出典[編集]

  1. ↑ a b c 『愛媛年鑑 昭和51年版』愛媛新聞社、1976年
  2. ↑ 田川精三『転落の「大学」――田川事件顛末記』蒼人社、発売:勁草書房、1983年、221頁
  3. ↑ a b 田川精三『転落の「大学」――田川事件顛末記』蒼人社、発売:勁草書房、1983年
  4. ↑ 「心理学教室五十年史」編集委員会編『心理学教室五十年史』広島大学教育学部心理学教室、1979年、171頁
  5. ↑ 田川精三「悪夢の歩兵第三七連隊」、明石市芸術文化センター編『私の戦争体験記』明石市芸術文化センター、1980年
  6. ↑ 『愛媛大学教育学部百年史』教育文化出版教育科学研究所、1984年、671-680頁
  7. ↑ 『四国年鑑 昭和47年版』高知新聞社、1971年、666頁
  8. ↑ 広島電機学園編『五十年の軌跡』広島電機学園、1977年、483頁
  9. ↑ 田川精三『転落の「大学」――田川事件顛末記』蒼人社、発売:勁草書房、1983年、182-183頁
  10. ↑ 『愛媛現代史資料 no.2 (資料愛媛の安保闘争 第1集 1958年12月-1959年5月)』近代史文庫、1970年、62、128頁
  11. ↑ a b 田川精三『転落の「大学」――田川事件顛末記』蒼人社、発売:勁草書房、1983年、190-191頁
  12. ↑ 田川精三編『愛媛教育残酷物語――これが勤評の実態だ』明治図書、1963年、137頁
  13. ↑ 田川精三『転落の「大学」――田川事件顛末記』蒼人社、発売:勁草書房、1983年、194-195頁

関連項目[編集]

関連文献[編集]

  • エヒメ集団教育研究会編『集団指導99の相談』(明治図書出版[教師のための相談選書]、1958年)
  • 勝田守一、伊藤忠彦、成田克矢、竹内良知、阿部進、真保潤一郎編『戦後教員物語Ⅱ』(三一新書、1960年)