日本のヒップホップ

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日本のヒップホップ(にほんのひっぷほっぷ)では、日本におけるヒップホップ・ミュージックの受容とその後の展開について概説する。

歴史[編集]

当時、下北沢にあるクラブや、代々木にあったクラブ「チョコレートシティ」辺りを中心にEAST ENDMELLOW YELLOWRHYMESTERスリーボールの4組がクラブイベントを開催していて、当時客はおよそ100人程だった。

特に当時、アメリカヒップホップの文化に憧れたこの4組のメンバーは、渋谷にあったレコードショップ・シスコタワー・レコード辺りを中心に洋楽のヒップホップの新譜をクラシックを探して回っていた。

当時日本人が洋楽のヒップホップに関する情報を集めるというのが、容易い時代ではなかった。歌詞を翻訳できるような機械も、今程容易く目の前にある訳ではなかったので、特にこの4組のメンバーは実際の所、洋楽ヒップホップの、オリコンチャートの順位などは、把握できるが、その「曲」や「アルバム」といった作品自体の善し悪しを判断するというのが難しい状態ではあった。何を言っているのか分からないし、そもそも英語であるしといった話である。そこで、彼らはタワー・レコードにいつも置いてあったTHE SOURSE MAGZINGという洋楽ヒップホップの雑誌にいつも目を付け、その雑誌の最後の方に載っている音楽評論家が評論した洋楽ヒップホップの「曲」や「アルバム」の善し悪しをマイク5本がMAXで、マイクの数で評論するページが常に掲載されており、つまり、この「アルバム」はマイク3本。この「アルバム」はマイク5本といったような音楽評論家が付ける評論。これが彼らの洋楽ヒップホップの「アルバム」や「曲」の善し悪しを判断する基準になっていった。

数年経つと、この4組が開催していたクラブイベントも終わり、その後、池袋にてジャパニーズヒップホップの歴史の中では、とても重要で大きなイベントとなる「FGナイト」が開催され、後に結成されるKICK THE CAN CREW、やRIP SLYMEのメンバーも、このイベントに出入りするようになる。

特にこの当時、現地アメリカではNasが大きな力を持つと共に、ジャングル・ブラザーズや、ア・トライブ・コールド・クエストQティップ等、大きく流行っていた時期であった。

この辺りの時期に、日本では東京薬科大学の当時学生であった、土屋、中川大雅、Ryoにて初期のケツメイシが結成される。特に発足当初このグループはクイーン・ラティファ等の影響を強く受けていたと言われている。

そして、1994年8月「EAST END×YURI」名義で発売された楽曲「DA.YO.NE」が、週間オリコンチャート7位。年間オリコンチャート33位を獲得し、この辺り一体の関係者が腰を抜かす程驚く共に、日本のヒップホップの業界に、オリコンチャートにランクする大きな希望の光を与える事になる。

この時期にRIP SLYMEが結成される。特にこのグループは結成された当初、2パックが当時組んでいたグループデジタル・アンダーグラウンドのような楽曲を作り出そうとしていたと当時の関係者は話す。

この辺り一体のグループとは当時少し別サイドから入っていたキングギドラが、1995年12月に、アルバム「空からの力」を発売する。このアルバムがまだ日本のヒップホップ業界内で「押韻」が確立されていない時期に初めて「形」として「押韻」を確立させたと言える程、日本でヒップホップを志すアーティスト達に大きな影響を与える。

1997年にロックバンドDragon Ashが結成される。このバンドが日本のこのような流れを持ったヒップホップのシーンに強く感銘を持ち、「ロック」と「ヒップホップ」を組み合わせた新しい音楽ジャンル「ミクスチャー」という音楽ジャンルを打ち立て、1999年3月に発売された楽曲「Let yourself go,Let myself go」が週間オリコンチャート4位。年間オリコンチャート22位を獲得する。この辺りで特にヒップホップというものの存在を日本の一般の人々が少しずつ認知し始める。

更にその2ヶ月後に、Dragon AshがキングギドラのメンバーZEEBRAAcoをフューチャリングに迎え発売した楽曲「Grateful Days」か週間オリコンチャート1位。年間オリコンチャート13位を獲得する。同じ日に発売されたDragon Ashの楽曲「I LOVE HIP HOP」も週間オリコンチャート4位。年間オリコンチャート33位を記録する。

更にその2ヶ月にDragon Ashが発売したアルバム「Viva La Revolution」が週間オリコンチャート1位。年間オリコンチャート13位。売り上げ枚数200万枚超えの大ヒットを記録する。

その後もDragon Ashの勢いは止まらず、次作のシングル「Deep Impact」が週間オリコンチャート2位。年間オリコンチャート35位。その次のシングル「Summer Tribe」が週間オリコンチャート2位。年間オリコンチャート84位を記録。後の楽曲「Amploud」「静かな日々の階段を」が収録されたシングル「Lily's e.p.」も週間オリコンチャート2位。年間オリコンチャート35位を記録する。

その後、2001年に発売されたアルバム「LILY OF DA VALLEY」が週間オリコンチャート2位。年間オリコンチャート28位。売り上げ枚数300万枚超えの大ヒットを記録する。この辺りで日本中にヒップホップというものが完全に広まる事になる。特にRIP SLYME等のアーティストも当時Dragon Ashのライブ・ツアーに一緒について回り、LIVEを披露する等行っていた。

代表的なアーティスト[編集]