岩本家物語
岩本家の歴史は、Wikipediaから削除された自分語りの記録。ここには掲載しないが、Wikipediaには本のページスキャンや一般人の家族写真まで貼り付けてあった。これはいけない。
岩本家の歴史[編集]
先祖の伝承[編集]
岩本家は、源流をBC117年に遡る。後漢書東夷伝によれば、中国の秦の遺民(燕国)が馬韓の東に移住し、12ケ国を建国、言葉は秦語に似ており、それゆえ、秦(辰)韓と称していた、その辰韓12ケ国の1つ斯盧国の六部族長(新羅六村長)の1人楊山村長李謁平を始祖とする。その血統には、新羅王家、高麗王家、そして、蒼き狼成吉思汗の血統も入っている。第77代の玲雄那(1983-)迄に、日本、韓国、モンゴル、中国の血が体内に流れている。(後漢書東夷伝・韓伝、魏志韓伝、梁書新羅伝{新羅者其先本辰韓種也})
岩本の姓の由来[編集]
岩本の姓の由来は、慶州李氏の始祖の李謁平が韓国慶州市の瓢岩峰(ピョアムボン)に降臨したという“三国遺事”の伝承に由来する。(韓国慶州市北川沿い、四面仏石と脱解王陵の間に瓢巌碑、同祠あり。慶州市東川洞SAN16番地、慶尚北道記念物NO.54慶州瓢巌)なお、慶州市では、毎年3月中丁、瓢巌祭り、陰暦8月7日6部村長祭り開催。現在も韓国に一族が50,900名(2000年度)存在する韓国屈指の名族、載寧李氏咸安諸派の徳皐君(DokKoGun)を源泉とする韓国渡来の家である。
新羅時代(BC 57年 - 935年)[編集]
紀元前117年韓国慶州瓢巌峰に降臨したとされる新羅建国の元勲 瓢 巖 公李 謁 平(命日:3月中丁、瓢 巖祭。慶州李氏始祖追慕祭、陰暦8月7日六部村長祭典、慶州重要民俗文化年例行事一覧による。謁平は新羅6村長代表、新羅初代王朴赫居世の末妹の婿 、(墓所所在、 :慶州市 東川洞 SAN16番地、顕彰碑建立: 西紀 1979年 11月 1日、慶州李氏中央花樹會 總裁 三星財閥総帥 李 秉喆建立)は新羅建国の元勲で、軍事を司り、位階は聖骨王族・真骨王族の五頭品の大阿飡。新羅王の妹を娶り、政策決定機関である和白会議の議長であった。 第36代真骨王族蘇判公李居明は中興の祖である。38代 金書 は、三重功臣中原太守にして、新羅最後の王、敬順王(927-35)の三女を妻とした。敬順王の妃は高麗太祖王建の長女楽浪公主であり、金書はその娘(神鷲宮夫人)を妻としたことで、新羅と高麗両王家の血統が 、その子潤弘に受け継がれた。(外曽祖父が高麗太祖王健)
鼻祖瓢 巖 公廟は、慶州の、瓢巌峰にあり、国宝。瓢 巖 公末裔12系統の花樹会総裁であった、韓国最大財閥三星総帥李 秉喆氏寄贈の記念碑及び博物館も併設されている。(慶尚北道記念物第54号)
高麗時代 (916年 - 1392年)[編集]
初代より42代をへて高麗中期に高麗王(顕宗?)の婿(駙馬)であり補祚功臣門下侍中(現在の総理大臣)李 (Li U-Jin:11世紀初頭の人))が載寧郡(現在の北朝鮮)を封土され、載寧君(君:功臣に与えられる爵位)に封じられた。父周復の弟周佐が穆宗(980-1009)尚州記室参軍であった故、次王顕宗(992-1031)の附馬[女婿] と考えられる。
(載寧:1217年(高宗4年)、契丹乱の侵攻を阻止した功績で載寧と名を改め、県に昇格した)(高宗:高麗23代 1213-1259年)
これ以降本家である慶州李氏(現在約120万人)より分家し載寧李氏となった。(2002年現在50,900人)
高麗末期の56代 小鳳は駙馬純誠補祚功臣上将軍として高麗恭愍王(1351-74)の娘を娶った。(上將軍: 新羅時代 大將軍の下の武官職、高麗時代、朝鮮時代初期の各軍営での将帥で正3品の武官職.
載寧君墓所は、元来の場所は領地であった黄海道載寧郡鋤山 庚向にあり、 載寧君齋舍が存在するが、南北統一以前では、行くことができない。よって、慶尚南道密陽市サンナム面チョウム里ミョンソンマウルにあり、廟の名を景德祠という。
朝鮮時代(1392年 - 1910年)[編集]
58代午は高麗杜門洞節臣(高麗王に殉じた臣下。杜門洞集落で朝鮮太祖の王位に反対、太祖の焼き討ちにより、72人が焼死)とよばれ、高麗三絶(全国で3人しかいないの意味)の一人であったが、高麗の滅亡を予見し、高麗遺臣として高麗に忠節を尽くすため、隠遁地を探していたが、慶尚南道 茅隠(朝鮮南東部)に紫微花(百日紅)が咲いているのを見つけ、ここを隠遁地にした。(紫微壇は現在古跡文化財)(高麗王に忠節をつくす証として、村全体を茅の塀で覆い、朝鮮の食物は食わない宣言、そこを高麗の里とし称し朝鮮太祖王に不服従をつらぬいた。子孫には「決して朝鮮王に使えてはならぬ」と遺言した。太祖は、始め午を滅ぼそうとしたが、午に人望のあるのを知り矛をおさめた。午の死後、兵曹参議の位を追贈した。号は、茅隠。成均進士。兄の申は高麗朝持平で、李成桂の朝鮮王推戴に反対、配流の途上死去(高麗史列伝巻第30参照)。孫の仲賢の代になって、初めて仕官した。孫の代は朝鮮臣民であったから。兵曹參議: 朝鮮時代軍隊を統括した官庁の正3品の官職. (紫微花とは、唐代長安の紫微(宮廷)に多く植えられたため、紫薇と呼ばれるが、比較的長い間紅色の花が咲いていることから、百日紅ともいう。)
59代 介智(1415-1487)は、父親 午の遺言「朝鮮王に仕えてはならない」を守り、朝鮮王の招聘にも応じず、晴耕雨読の生涯を終えた。 死後 贈従二品戸曹参判の位を王より与えられた。
60代仲賢(1449-1508):1476年に生員進士に合格 弘文館副提学、1490年に通政大夫(堂上官、正三品)、譲陽府使として騒動を鎮圧、王の特命で嘉善大夫(従二品)に昇格、1508年死去に際し1000人ほどが葬儀に参列した。
61代 徳皐府君李珷(16世紀初頭の人)NHKチャングムの誓い(原題:大長今)中宗(1506-1544) の時代の人。当初内禁衛〔王の宮中護衛〕後、1506年の中宗反正に参加、靖国原従一等功臣(原従功臣とは、 正功臣以外の小さな功を立てる人に与えた功臣称号.)に封じられ、正四品昭威将軍水軍慮候。岩本家は、慶州李氏42代に中移(分籍)した載寧李氏の徳皐君派に属している。
よって、初代より第61代の朝鮮水軍慮候徳皐府君李珷を直接の先祖とする。李珷は、1506年の宮中クーデター(中正反正)に参画、原従靖国功臣に列せられている。
(靖国原従一等功臣:1506年暴君燕山君を追放し、中宗を擁立した宮廷クーデター中正反正に貢献した家臣に与えた功績)
(李朝500年間の科挙合格者;19名)
系譜[編集]
上級貴族として、新羅時代は、真骨王族(両親のいずれかが王家の出身、高麗時代は、始祖より、38代、三重功臣中原太守、金書が敬順王(927-35) と高麗太祖の娘の楽浪公主との間にできた三女を妻としたことで、新羅・高麗王家の血統が流入。
42代門下侍中載寧君 禹称が高麗王家の王女と結婚。始祖より第56代上将軍小鳳が高麗第31代恭愍王(きょうびんおう(1351-74)の娘と結婚、恭愍王は元皇室との血縁が深く、ここに岩本家は、先祖が恭愍王の娘と結婚したことで、蒼き狼チンギス汗の血統が流入した。恭愍王の5代前の忠烈王1236年 - 1308年(妻は、元のフビライ皇帝娘クツルガイミシ)以下5代に渡り、高麗王は、元帝国王族の娘を妻とした。恭愍王の妻は、魯國大長公主 寶塔失里。(韓国時代劇、辛旽に詳細あり)
(各世代)
新羅時代(BC57- AD935)
鼻祖(初代BC117):新羅建国の元勲李謁平(瓢巌公、新羅6村長代表)は、朴赫居世新羅王(BC57-AD4)の妹を妻とし、楊山村長として、他の5村長と、BC57年新羅建国の元勲となり、及梁部大人謁平と呼ばれた。{増補文献備考}の{帝系考}では、{居世干王家}の次に記載されている程の新羅王朝建国の大功臣。身分は五等大阿飡で軍務を掌っていた。以後、真骨王族(母親が王家出身)として、新羅滅亡までに、38代を迎えた。
AD32年、儒理王(24-57)により、李姓を下賜された。
36代 蘇判公李居明は宮城の守護、真骨王族で中興の祖といわれた。
37代 金現:兵部令(軍務大臣) 新羅の各部の長官. 高麗時代には三位~九品の官職、 朝鮮時代には従五品の官職
38代 金書 新羅朝末期、三重功臣中原太守、新羅最後の王、敬順王(927-35) と高麗太祖の長女の楽浪公主との間の三女を妻とした。
高麗時代(918 - 1392)
39代 潤弘:兵正(母は、新羅敬順王と高麗太祖の長女楽浪公主の間にできた娘)
40代 承訓 門下侍郎(正二品左大臣)
(門下侍郞平章事): 高麗時代に門下府に所属する正二品の官職
41代 周復 左司諌(正六品)
(左司諫: 高麗時代、門下府に所属した官職. 後に、左獻納と改称.
高麗朝中期(高宗時代1213-1259)
42代 門下侍中(太政大臣)高麗王駙馬(高麗王の女婿)、載寧君(北朝鮮の載寧を領地とした)に封じられ、慶州李氏より、分籍:以後。載寧李氏と称す(門下侍中とは、国政を総括する門下省を掌握する従1品の官職、最高官)
44代 昌赫
54代 元英 工部尚書(建設大臣)(尙書 : 高麗時代 6省の正3品の官職)
55代 根仁 令同正(正八品)
56代 小鳳 上将軍、高麗恭愍王(1351-74)の駙馬(女婿) 上將軍 :新羅時代は大將軍の次位の武官職、高麗時代、朝鮮初期では正3品の武官職
57代 日善 司宰令
58代 午:4男、高麗杜門洞節臣 高麗三絶(全国で3人しかいないの意味)の一人、高麗の滅亡を予見し、高麗に忠節を尽くすため、慶尚南道 茅隠(朝鮮南東部)に隠遁。死後、朝鮮王朝の太祖(李成桂)に召しだされ、兵参議を追贈された。号は、茅隠。成均進士。兄の申は高麗朝司憲府持平(役人の不正監査)で、李成桂の朝鮮王推戴に反対、配流の途上死去(高麗史列伝巻第30参照)(持平): 高麗時代は正5品の官職、朝鮮時代は司憲府に所属した 正5品の官職.
朝鮮時代(1392-1910)
59代 介智(1415-1489):贈従二品戸曹参判
60代 仲賢(1449-1508):1476年生員進士 王の諮問機関である弘文館副提學、従二品嘉善大夫
(嘉善大夫): 朝鮮時代の官職で従2品 . (副提學): 朝鮮時代の国立図書館(弘文館)の正3品の官職.
61代 珷 (15世紀末ー16世紀初)靖国原従一等功臣正四品朝鮮水軍虞候
62代 景成(1511-1583) 贈従二品兵曹参判、従六品庇仁縣監
夫人に逸話あり。姑が病気になり、アワビ(鰒魚)を食したいと願った時、孝行な夫人が神に祈った所、家の井戸から鰒魚が現れた(咸州誌記載)
63代 沔 従六品掌樂院主簿 (薇村公派)
64代 而栢 (1568-1580?)従八品承仕郞、文学と徳行で世間の名望家
65代 烱 (1595-1642) 德翁 正五品通徳郎
66代 洪鍾 (1616-?) 贈軍資監
67代 載祺 (?-1699)
68代 慶培 (1670-1725)朱書彙要箸義理講釈7書帰一説 編纂
69代 文望
70代 能益 (1720-1724の間に誕生)(養子:兄文武望(1694-1773)の次男)
71代 允文 (1752-1811)
72代 有東 (1805-1875)
73代 壽龜 (1839-1886)
74代 鉉琪(二男)1876-1948)
75代 範浩(壬生)(1912-1976)
76代 健治 (1944-) 室 竹島美知子
76代 岩城とし子、山田千恵子、岩本武男、小野成子、横井静子
77代 玲雄那 (1983-) 梨雨子(1977―)
(静岡系統)
74代 鉉爽 (3男)
75代 仁浩(1923-2007)、養子:鉉爽の兄、鉉斗(長男、1870-1947)の次男)
76代 竜男 (1959- ) 、 英一 (1961-)
77代 将樹( 、弘樹(
岩本家のアジア各王朝との血流[編集]
祖(初代BC117):新羅建国の元勲李謁平(瓢巌公、新羅6村長)は、朴赫居世新羅王(BC57-AD4)の妹を妻とし、楊山村長として、他の5村長と、BC57年新羅建国の元勲となり、及梁部大人謁平と呼ばれた。以後、真骨王族(母親が王家出身)として、新羅滅亡までに、38代を迎えた。→各世代の妻は新羅王家の出身
38代 李金書 三重功臣中原太守、新羅最後の王、敬順王(927-35)の三女を妻とする。
高麗中期
42代 李禹称 門下侍中(太政大臣)高麗王附馬(女婿)、載寧君(北朝鮮の載寧を領地とした)に封じられ、慶州李氏より、分籍:以後。載寧李氏と称す。 →ここで、高麗王朝の血統流入
高麗末期
56代 李小鳳 上将軍、妻は恭愍王の娘 高麗恭愍王(1351-74、第31代最後の高麗王、忠烈王1236年 - 1308年以下、7代に渡り、蒙古帝国皇帝の娘を妻とし、韓民族の血統は1%以下) → ここで、 チンギス汗の血統流入。
(参考)
敬順王の娘(けいじゅんおう ? - 978年、在位927年 - 935年)は新羅第56代国王。本名は金傅。46代文聖王の6世孫に当たる。
927年甄萱により景哀王が殺害された後、敬順王は甄萱により王位に就いたが、各地に群雄が割拠し、領土が日に日に少なくなると、高麗に国土を譲渡することを決定し、935年高麗に降伏し、妹を太祖の妃に差し出した。高麗の太祖王建は、長女楽浪公主を嫁して正承公に封じ、地位は太子の上とした。また慶州を食邑として与え、そこの事審官に任命した。
高麗は第25代忠烈王1236年 - 1308年の時代より元の属国となり、忠烈王の后はフビライの娘忽都魯掲里迷失(クツルガイミシ)
上将軍 李小鳳の妻は恭愍王(きょうびんおう、1330年 - 1374年 在位1351年 - 1374年)の娘
恭愍王(きょうびんおう、1330年 - 1374年 在位1351年 - 1374年)は第31代の高麗王。忠肅王の子。姓は王、名は祺。蒙古名は伯顔帖木児。諡号は恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王。妃は元の魏王、魯國大長公主 寶塔失里[1]他の妃としては恵妃李氏、益妃韓氏、定妃安氏、愼妃廉氏等が記録上にある。幼少時は元の宮廷で育ち、元の支援を背景にして即位した。しかし、元の衰えと明の台頭を見て、親明政策を取り始めた。
モンゴルは、高麗を支配しました。
司令官を駐屯させて、王子を人質としてモンゴルに幽閉しました。
この王子が忠烈王です。
忠烈王が帰国する時、モンゴルの皇帝は娘と結婚させました。
つまり高麗王はモンゴル皇帝の婿になりました。
その後、7世代に渡って、モンゴル女性と結婚しています。
交配1代目 モンゴル血統の含有率 50%
交配2代目 モンゴル血統の含有率 75%
交配3代目 モンゴル血統の含有率 87.5%
交配4代目 モンゴル血統の含有率 93.75%
交配5代目 モンゴル血統の含有率 96.875%
交配6代目 モンゴル血統の含有率 98.4375%
交配7代目 モンゴル血統の含有率 99.22875%
最後の高麗王の韓民族の血統は1%以下です。
また、高麗王はモンゴル人の名前を名乗っていました。
忠宣王はIjiribuka。
忠肅王はAratotoshiri。
忠惠王はBudashiri。
そして髪型もツングース系の髪型「辮髪」でした。
ttp://www2s.biglobe.ne.jp/~xuan-he/benpatu/pic/ranglingwang.jpg
衣服も「胡服」(Kofuku)というモンゴル人の服を着ていました。
ttp://rainboweyes.org/nijiniji/images/zaregoto/m_ware.jpg
血統、名前、髪型、衣装…全てがモンゴルでした。
後期の高麗は「モンゴル人の国」でした。
始祖廟[編集]
始祖の廟は、慶尚南道密陽市サンナム面チョウム里ミョンソンマウル(村)にあるが、ここに、始祖の廟景德祠と峰南緒派の先祖、載寧公の墓がある。
景德祠の正式名は、追遠齋という。
墓所の元来の場所は載寧、黄海道載寧郡ソオ山にあるが、南北統一以前では、行くことができない。
載寧李氏は、慶州李氏の分派で、新羅、蘇判公, 李居明の7代孫で、諱を といい、高麗朝の補佐功臣門下侍中(総理大臣)を勤め、黄海道載寧を領地(綠邑)として与えられ、載寧君に封じられた。よって、子孫が載寧を本貫とした。載寧は、別名、安陵、または、漢忽、安盤、息城という。特に、安陵は、載寧と同じく、現在にいたるまで、呼ばれている。
載寧李氏は、月城李氏の分派であったが、その内域に、車城、陜川、平昌、加平、原州、牙山、羽溪、興陽、そして、載寧李氏、星山、牛峰李氏も月城を 根源とすると伝えられている。 月城は、慶州、または、鷄林という。
載寧李氏は、特徴ある由来、1000年間に偉大なる人物を沢山)輩出した。高麗朝の史跡は、文献が不足しており、詳細には判明していないが、族譜、乘等によれば、載寧君以降、多くの名官、学者や節臣を輩出しているばかりか、赫々たる家門であった。例えば、工部尚書公(元英)、上将軍(小鳳)、文献公(日祥)と司宰令( 日善)は兄弟で、仕官した。又、清徳で有名な、申、午、兄弟は、博徳と志節で有名で、高麗朝に忠節をつくした。
朝鮮朝になっても、名臣、淸宦や忠臣、義士、そして、特に文人、学者が多く輩出された。高麗朝に忠節をつくした、申、午の兄弟の影響(朝鮮朝に仕官してはならぬ、の遺言のため)で世祖末から成宗初期になってやっと、出世の糸口である科挙に応募した。その後、粛宗(1674-1720)20年(1694年)、いわゆる、甲戊政変で、老論(党)が勢力を得た後、老黨の専横にもかかわらず、文科に及第した。しかし、本貫が載寧李氏とわかって(申が、李成桂の朝鮮王推戴に反対し、配流の途上死去したため)、合格を取り消されてしまった例もある。そこで、朝鮮朝で、文科に合格したのは、たったの、15名にすぎなかった。
しかし、文科生員、進士に合格した者は少なくない。 そして、科挙に通らない陰職または、学生をとして推薦され、出世したり、または、山林で学問でひたすら徳行を積み、著書に専念した学者は、実に数えきれない。
文化財専門委員 廷燮 宗親―宗報2号―)
本貫始祖 は、司諌公周復の子供で、一説には、 というが、門下侍郎 の弟であるという。経術譜(1850年)の凡例にあるが、一理があるという1つの明白な根拠はなく、全ての族譜では、 となっている。墓所は黄海道載寧郡鋤山 庚向にあり、 載寧君齋舍が存在する。慶尚南道密陽市サンナム面チョウム里の景德祠で、祭享をしている。始祖からコンミン王(1351-74、元から独立)の附馬(娘婿)で知られている、上将軍まで約400年の状況は確実ではない。
息城君(文禄慶長の役時、李舜臣将軍幕下で活躍した名将。宣武3等功臣、水軍統制使)家譜で記録されている、上将軍(小鳳)の兄で安陵君に封じられた大鳳がいたという説もあるが、跡継ぎが、いなくて、確認できないが、もともと、2人の子供が宗綱と嗣綱で、宗綱は、霊死として封君され、その子が、日明であり、嗣綱は大臣柳璥の婿養子になった。(丙申譜凡例)。しかし、現在載寧李氏族譜は、上将軍小鳳のみ、記録されており、コンミン王の娘を娶り、2人の子をなし、長男は、日祥、次男は日善であり、この二人の後孫が現在の載寧李氏の全部である。中始祖に該当する上将軍は、始祖 の15世であるという説がある。 考証はないが、慶州李氏の世系図と比較すると、世代が一致する。 瓢巖公, 휘 謁平より数えて、遠代孫として、記録されている蘇判公(新羅真骨王族に与えられた位階で、上から3番目の位。王城守備職) 휘 居明まで約900-1000年間の失傳記録が現在慶州李氏をはじめとして、陜川李氏の族譜で、詳細に記録されているが、蘇判公は、瓢巖公の36世孫である。よって、我が載寧李氏の始祖 載寧君は、 瓢巖公の42世孫である。 しかし、載寧君より、約400年の上系は一部派譜に掲載されている系図によるが、まだ考証されていない部分ではある。(戦乱等で焼滅した記録もあり)
載寧李氏の諸派は、17派に分類され、各派別に刊行されている、族譜(派譜)が大体17-24種類あり、その中にもまた、支派がある。全体的に分類されていた17箇派として、分類しているのは、族譜を探すのに役立っていると思う。よって、現在17箇派の族譜(派譜)が刊行されていると思ってよろしい。2000年に刊行された、族譜(全7巻)は、最初、大同譜を計画したが、参加しなかった派が多かった。
壬申倭乱で活躍した人物 (抜粋)
陸軍:李瀟 (沔の三弟):軍資監判官
海軍:李雲龍 正二品嘉善太夫三道水軍統制使 : (1552-1610)朝鮮時代の水軍総司令 世界史上の名提督 李瞬臣に「私の代わりができるのは李雲龍だ」と言わしめた名将。(孤将(原題刀歌)蓮池薫訳)
李瀞(沔の四弟): 小西行長軍と戦い、敵陣に取り残された味方を救出。昌原の戦いで戦功。勇猛果敢でしられた、官職、知中枢府事 中枢部の正二品の武官
遺跡・墳墓[編集]
仁山斎
徳山斉
翼心斉
紫薇亭
鰒井
紫薇壇(古跡文化財)
高麗田
栗潤亭
志真斉
茅隠先生、栗潤先生、蔓村先生の墓所に付属の祭閣あり。
茅隠先生と夫人(淑人)宜寧南氏の墓は一対になっている。
茅隠先生が高麗末期に感安郡茅谷に隠居し、高麗が滅亡するやいなや、洪晩隠(洪載)、趙典書(悦)の2先生が三嘉雲ガに集まり、互いに吊問して、酒と歌をしたが、その時、キシの恋秀歌と伯夷の採薇歌を披露した。三嘉の雲ガ書院、感安の仁ガ書院と開城杜門洞の表節祠で祭享をしている。文集一巻あり。
栗潤公
栗潤先生と夫人(貞夫人)扶余白氏の墓は合葬。栗潤先生の諱は仲賢号は遵聖。成宗朝の文科に合格、弘文館副提学、兵曹参知等歴任。外職として、江原監司に派遣された。燕山君時代に権臣を弾劾して、寧海府使に左遷された。
徳山斎
参判公墓所に従う祭閣あり。 参判公夫人は普陽河氏の墓は一対になっている。
参判公の諱は介智公の晩年、病中にある時、観斎公が帰省時に薬を賜り、戸曹参判に受任された。夫人普陽河氏は将来を見通す見識があった。寒岡鄭先生感州誌に記載されている。
高麗宗宅
今から600年前、高麗末期、茅隠先生が官職を捨てて、初めてこの地に来て、居住した住居だ。現在まで、その住所にそのままの状態で建っている。圭章閣 忠烈録(写本)
李午は載寧の人。号は茅隠、科挙は進士合格。高麗滅亡後感安に住む。
紫薇亭 茅隠先生が平素居住した居宅。
鰒井事実
ビ仁県監公の夫人(貞夫人)はレイ州李氏の出である姑に真心こめて仕えること甚だしく、姑が病気中に、鰒を食したいと願った時、夫人が空に向かって、お祈りしたところ、文徳泉(井戸)の中から鰒が出てきたという奇跡が起きたという事実を寒岡鄭先生が感州誌に書き、慶州監司(ユタクキ)が大邸郷試で文題で出した例がある。
紫薇檀
紫薇檀は茅隠先生の遺跡である。高麗末期に茅隠先生が最初ここで隠居した時、茂みの下に紫薇花が満開であるのを見て、詩を読んだ。
喬木如存可仮花 王春維到暮山家
以後、この紫薇花は載寧李氏と一緒に栄えるように植えた。後に寒岡鄭先生が州誌でこの花と李氏の盛衰は同じと書いた。 蔓庵先生(諱玄逸)が光陽にいた時、そこに来た茅渓先生(諱命培)を見て、まず、紫薇花が今も満開であると尋ねた。今を去る300年前、に茅渓先生が再度築いて記文を書いた。檀紀4303年庚ジュの年に再度改修し、韓国古跡文化財に指定され登録された。
翼心斎
徳コ公、ピ仁県監公、薇村公、右ユン公、承仕郎公、徳翁公、茅渓公、薇軒公の墓所に付属する祭閣。
徳コ公と夫人(淑夫人)草渓鄭氏の墓が一対。徳コ公諱武号は徳コ。中宗朝の内禁衛で、靖国原従一等功臣. 官位は、昭威将軍慶尚道水軍オ侯。夫人は貞淑に夫に仕えた。
ピ仁県監公: 夫人(貞夫人)レイ李氏と合葬。 公の諱は景成。官職はピ仁県監兵曹参判に贈職。父母の心を喜ばせる孝行であった。夫人は、姑に誠心誠意つかえ、井戸から鰒が出現した奇跡の伝説を持つ。
薇村公 夫人宣人完州催氏と合葬。 諱は、沔。字は汝浩。号は薇村。官職は掌楽院主簿。遺稿がある。
承仕郎公 夫人配位普陽姜氏の墓と一対。 諱は而栢。 字は幹甫。官職は承仕郎。文化と徳行で世間の名望を集めた。
徳翁公 夫人は配位普陽鄭氏の墓と合葬。 諱は烱。 字は子悔。号は徳翁。官職は通徳郎。
高麗田 高麗末期に茅隠先生がこの地に初めて来て農業を始めた。その農地を現在も宗孫が、そのまま、農業を続けている。
高麗岱 高麗末期に茅隠先生がこの地に来て、隠居した場所。
栗潤亭 栗潤先生が官職を辞職され、儒学を講義された亭子。
先祖関連人物[編集]
咸安士<モチォン里程>[編集]
才と行実が共にすぐれる
かつて漢江(寒岡) 庭球(鄭逑)が咸安軍需で赴任して選定を施して民たちに称尿を受けて, また郡誌であるハム主旨を編纂して村の良い風俗と文物を後世人々に広く知らせようとした. このように漢江が選定を施してハム主旨を編纂することができたことは当時名望ある咸安の御真士たちが軍需を助けるのに力を惜しまなかったからだ. それではこのような士たちはだれか.
漢江が建てたハム株だ序文に "私が咸安郡で御真人々を求めたが "異称(字 汝宣)は心が寛大で後漢大様な人であり, 剥製である(字 仲思)は隠れた徳行で志操があったし里程(字 汝涵)は才と行実が共にすぐれた. 苗も私が尊敬する友たちで毎度見ても見る度に嬉しかった"としたことを見れば, 異称剥製である里程などが当時咸安を代表する名望ある士たちなのを見当をつけることができる. これらは皆南溟文人で学徳を兼備した士たちだった.
咸安軍需漢江の選定を手伝ってハム株だ編纂に参加した士たちの中でひとりであるモチォン里程.
モチォンは 載寧人で 1541年(中宗 36) 咸安牟谷里で参判 景成の息子に生まれたし寝る 汝涵だ. モチォンが生まれた牟谷里入口に高麗洞と言う(のは)碑石があるのに, モチォンの 5対照集めた 李午が立てた碑石だ.
モチォンの 5対照モウンは高麗が滅びると絶義を守るためにこちら牟谷で下って敷地を取って高麗洞と言った. 彼は自分が高麗の民なのを現わすために町内まわりを土壁で積んでダムバックは朝鮮の領土だがダムアンは高麗の民が住む高麗の地と言った. 朝鮮太宗はモウンを何回呼んだが進まなかったし, 彼の息子に私のどうして新王朝に官吏になることができるか. 私が死んだ後には絶対に新王朝で与える官職名前は使わずに私の子株もこちら高麗洞ダムアンを去って他の所に移してはいけないと早かったりした. モチォンは 5対照モウンの仮装(家長)を書いてその絶義を後世に伝えた.
モチォンは幼いごろから父親から勉強を学んだ. 15才時南溟先生が牟谷で真実公務処理に会いに来てから 4兄弟が仲がいく熱心に勉強する姿を見て褒め言葉を惜しまなかったという記録が年譜に伝える.
19才時南溟先生にひいては弟子になって学問に専念した. 23才時は郷試には合格したが翌年過去に合格することができなかった. 26才時は南溟先生を仕えて玉階掻陣, 葛川イムフンを訪問した. この時角材河港デソホン操縦も栄茂性ハウングも租界有終誌などとともに南溟を仕えて 安陰 玉山洞に間のだ.
32才時南溟が世を去ると弟子の例として上を終えたし, 4年後水牛だ崔ヨン頃角材河港などとともにドックチォンソワンを創建する仕事に参加した.
43才時父親喪にあって 3ニョンサングを終えたし, 45才時角材河港租界有終誌など多くの士たちと真珠の 拱玉台で学問を講論こんにちはだった.
翌年漢江庭球が咸安軍需で赴任してモチォンを訪問した. 47才時は漢江を手伝って動向士である黄曲異称, 黄癌剥製である, たまらないです五雲などと咸安郷土誌であるハム主旨を編纂した.
50才時多くの同志らと往川郷校に集まって水牛だ崔ヨン頃新元素をあげる事を議論した. この時水牛当たりは鄭汝立謀反事件に掛かり合って悔しい獄中生活をしていた. 51才時故郷にモチォンゾングサを立てて多くの士たちと学問を姜マッハだった.
52セドエドン日 4月壬辰の乱が起きると一ヶ月後人 5月咸安で義兵を起こした. この時モチォンは松岩長さなら亡友だクァクゼウなどが義兵を起こしたという消息を聞いてすぐ黄曲異称黄癌剥製であるなどと咸安で義兵を起こして, 招諭使ハックボングキム・ソンイルに文を送って決死抗戦の固い決意を現わした. すぐ咸安召募官の職責を引き受けて多くの義兵たちを募集した.
外敵の侵略が切迫したのに当時咸安軍需 柳崇仁が性を捨ててジンヤン性に行ってしまう事が発生した. この時モチォンは招諭使キム・ソンイルに報告して早いのを "咸安郡も守らざるを得なくて軍事たちに長寿がないことができません. チォングコンデ崇仁が帰って来てまた軍事を指揮するようにしてください"と言った. この時招諭使はモチォンが多い兵士を募集したことを誉めて崇仁にとってまた咸安に帰ってモチォンの指揮を受けるようにした.
6月に真珠に行って招諭使ハックボングキム・ソンイルに会った. 12月に 沙斤道 察訪 かたがた咸安義兵長で除数受けたから, 招諭使が調整の人で任命したのだ.
53才時は招諭使に会って戦争の起こった後おかゆは死骸たちが山と野にそのまま捨てられているのにこれを当然に問うようにしなければならないと請願した. 夜が深くて招諭使が寝床に入ろうとする時この言葉を聞いて起きて座って言うのを "まことに良い言葉だからどうして明日に持ち越すか"と直ちに死んだ兵士らの死骸を埋めるように命じた. 理解 4月真珠で世を去った招諭使ハックボングキム・ソンイルを弔問した.
54才時司憲府 執義を除数受けたが進まないで引き続き単性県監を第荷受だった.
58才時清州牧師に除数されて選定を施したし 60才時は官職を捨てて都落ちして真珠 元塘で居所を移した. 原糖は奥さん 柳氏の故郷だった. 原糖に家を建てて 郷梅窩だと名付けて牟谷にあった赤色白の梅二本を植え替った. 故郷を思う心から湧き出たのだ. ヒャングメワから朝夕方で静かに近くを回りながら詩を詠じて見たり景色を玩賞しながら悠悠自適した生活を送りながら号を 茅村だと作った. またアックヤングのサブアムに家を建てて高麗臣下 韓惟漢の清廉な心を模範としようとした.
62才時常住牧師に除数されたが進まなかった. 63歳に先山軍需, 昌原副詞に除数された. 66才時ドックチォンソワンに行って 書院録を修正したし, 冬にまたドックチォンソワンに行ってズックガック李光優チァングズハジング百穀ジングックギョングなどと頭流山の景色を玩賞こんにちはだった.
以後地域の同窓たちとドックチォンソワン等地で学問を講論している途中 73歳ドエドンして原糖で世を去った. 1710年この地域楡林たちの意味でスゴックの対角書院に配享されたし, 1722年には咸安の道林書院に配享されたりした.
葛庵 李玄逸は行長で早いのを "ボールは徳性が純粋で気象が屈強で親族には親孝行と友愛で称尿受けたし, 公正さは村で現われた. 球が創意して外敵を打ち破る時は全力を尽くして奮闘したし牧民官としては町中人々が心で染み出てほめたたえた. 球のようなこれをどうして淳厚・醇厚して篤い君子とないことがあるか"と言った.
第59代介智[編集]
(参判公墓碑)の諱は、介智、本貫は載寧、父親の諱は、午。贈職は、通政太夫、兵曹参議、祖父の諱は日善で、贈職は通訓太夫、宗簿寺正であり、曾祖父の諱は小鳳で、純誠補作功臣、キョ靖太夫、上護軍であった。 母親は、宜寧南氏で贈職は叔婦人で、嘉善太夫、工曹典書の南毅の娘である。太宗15年(1415年)5月11日、感安の茅谷里で生まれた。公は当地で学問が好きで、郷里で農民に学問を教え官職にはつかなかった。
成人宗教18年(1487年)4月9日せいきょ、73歳であった。1488年成功宗教20年12月20日夫人とともに合葬された。長男の孟賢の推挙により贈職された。天性は温和、純白で誠実、怒りを表情にださなかった。
子弟に詩礼を教えつつ家業もこなしていた。
故に、子弟は尊敬していた。王命を受けて贈職は、通政太夫、兵曹参議。夫人の母親は、
開城府伊姜寿明の娘で、1417年四月15日に生まれた。1486年5月9日死去、
感安大山里徳山に埋葬された。享年70歳。貞夫人の位を贈られた。4男4女をもうけた。長男は科挙に首席合格し黄海
観察使の孟賢。次男が、先祖の仲賢で、寧海府使。1472年成宗3年の生員、進士に合格、1476年成宗7年、
文科に合格した。叔賢は死去、季賢は忠順衛。長女は、署令の李依仁に、次女は内禁衛の金致誠に、
3女は別侍衛の許元質に、4女は忠順衛の安昌恭に嫁いだ。孟賢は7男2女をもうけた。
次男の仲賢の夫人は白啓ブンの娘で、2男をもうけた。長男の包は忠順衛、次男が、慶尚道水軍虞侯、
従靖国一等功臣の武である。夫人は鄭チョンの娘である。
気厳以方、性醇而厚、既筋蕨身、又得嘉偶、篤生賢哲、世無出右、徳不用施、宜其後有
弘治1489年、従二位嘉善太夫 行吏曹参判 陽川 許チム 記す。
59代 贈通政大夫〔正三品、堂上官〕介智、60代 栗潤公(仲賢)行状記[編集]
第59代介智(参判公墓碑)の諱は、介智、本貫は載寧、父親の諱は、午。贈職は、通政太夫、兵曹参議、祖父の諱は日善で、贈職は通訓太夫、宗簿寺正であり、曾祖父の諱は小鳳で、純誠補作功臣、キョ靖太夫、上護軍であった。 母親は、宜寧南氏で贈職は叔婦人で、嘉善太夫、工曹典書の南毅の娘である。太宗15年(1415年)5月11日、感安の茅谷里で生まれた。公は当地で学問が好きで、郷里で農民に学問を教え官職にはつかなかった。
成人宗教18年(1487年)4月9日死去、73歳であった。1488年成功宗教20年12月20日夫人とともに合葬された。長男の孟賢の推挙により贈職された。天性は温和、純白で誠実、怒りを表情にださなかった。
子弟に詩礼を教えつつ家業もこなしていた。
故に、子弟は尊敬していた。王命を受けて贈職は、通政太夫、兵曹参議。夫人の母親は、
開城府伊姜寿明の娘で、1417年4月15日に生まれた。1486年5月9日死去、
感安大山里徳山に埋葬された。享年70歳。貞夫人の位を贈られた。4男4女をもうけた。長男は科挙に首席合格し黄海
観察使の孟賢。次男が、先祖の仲賢で、寧海府使。1472年成宗3年の生員、進士に合格、1476年成宗7年、文科に合格した。叔賢は死去、季賢は忠順衛。長女は、署令の李依仁に、次女は内禁衛の金致誠に、3女は別侍衛の許元質に、4女は忠順衛の安昌恭に嫁いだ。孟賢は7男2女をもうけた。
次男の仲賢の夫人は白啓ブンの娘で、2男をもうけた。長男の包は忠順衛、次男が、慶尚道水軍虞侯、従靖国一等功臣の武である。夫人は鄭チョンの娘である。
気厳以方、性醇而厚、既筋蕨身、又得嘉偶、篤生賢哲、世無出右、徳不用施、宜其後有
(弘治1489年、従二位嘉善太夫 行吏曹参判 陽川 許チム 記す。)
第60代
公の諱仲賢 字遵聖 姓 は李氏。始祖の諱は謁平で、新羅初期の佐命功臣である。高麗時代、諱「ウ称」が載寧君に封じられたので、本貫を載寧に移した。
曽祖の諱「日善」は司宰令で、祖父の諱「午」は進士で、高麗の国運が終わるのを予測し、
咸安の茅谷に隠遁したため、号を「茅隠」とした。
午は、朝鮮王朝より官職につくよう招聘されたが、断り、死後に兵曹参議を贈職された。
子息の「介智」は父親の遺言を守り、出仕せず、農事に専念、学問を好んだ。死後、戸曹参判を追贈された。夫人は晋陽河氏の牧使(知事)敬駿の娘である。
介智の子息、栗潤公は、世宗31年〔1449年〕に出生、才幹と度量に優れ、長ずるに及び、経書、史書、四書は無論、程子、朱子までも読んだ。短期間に策文の数千字を習得した。金宗直は、栗潤公と兄の観斉公(孟賢)を見て、金混玉友(優秀な兄弟の意味か)と呼んだ。
成宗3年〔1472年〕生員進士に合格、成宗7年〔1476年〕文科に抜擢され、朝廷でその才能を評価された。注書に任命され、王前で程子を講義した。王の寵愛を受け、王の親書で、広廷亭で宴の招待を受けた。
その後、正言を経て、副修撰に転任、しばらくして、成均館(王立大学)司成に任命された。成均館の儒生に講義し、後、修撰と知製教(王の教書作成)を兼務した。その後、館閣(弘文館と芸文館)の文字を公に託することが多かった。すぐに経席(経書を講義する役職)に任命され、「大学」を講義した。正心、箴戒に任命され王側に侍った。
後、献納(司諌院正五品)として、君主の徳政を補佐し、当時の弊害を救済する為、数百言を王に進言した。
これより、銓郎(史曹の正郎)、典翰(弘文館の従三品)、台省〔司憲府と司諌院〕の教旨を歴任した。
成宗21年〔1490年〕通政大夫〔正三品、堂上官〕に昇進、三品の清班〔弘文館〕に任命された。礼曹参議を経て、弘文館の副提学に転任、
王の寵愛に応えるべく、人災、地変の警戒と戚里〔王の外戚〕の娶倖〔寵愛を受けた側室〕に対し、王にその是非を忌憚無くのべ、職に未練を持つことなく、正当と操守を通した。王は貧相な束帯の公を見て、「貧しくて興ざめするとはこのことか」とのたまわれ、品帯〔階級を示す帯〕を下賜された。
成宗25年〔1494年〕、成宗が崩御された。公は王の冠服の陳列されている庭で号泣し、やがて、病を得て故郷に隠遁した。
1495年、燕山君が即位、経箴官に任命するとの教旨〔勅書〕に、やむなく、大司諌、兵曹参知に就任、権臣、娶臣が政治を壟断することのなきようと論劾したが、採用されず、故郷に隠遁。「栗潤」の額を門に掲げ、号とした。
兄弟の司議公〔諱、季賢〕と典礼〔法典と礼節〕を討議し、生徒に教え山水間で詩歌を吟じながら、余生を送り、燕山君3年〔1497年〕、突然、寧海府使に任命された。病気故固辞したが許されず、やむを得ず、任地に赴き、政治と文教を行った。
燕山君4年〔1498年〕、史獄〔史草に基づく獄事〕が起き、李克巌、柳子光の徒党が憾情を抱いたことで罪を得た時代の旧類〔ハハン士類〕が互いに誅戮され駆遂された。
金宗直、金宏ビン、鄭汝昌、朴漢柱等が全て残酷な禍を受けた。
公は、若い頃、言官〔諌官〕であった時、朴漢柱達とは同僚であった。又、司諌の金係行とは共に、側室の横暴を諌めたものだが、公はこのとき、外郡〔寧海府使〕であった。公は「禍機を免れることは難しく、 職務も辞職せざるを得まいと思った。」公は、この情報を現地で聞いて、あまたの他の賢人達と一緒に罪人の名簿に記載されないこと知り、残念に思った。そこで、一句作った。
死ぬることはたいしたことではないが、死ぬ時に死なず、おめおめ生き長らえる嘆きは、恥ずかしいことだ。寂しく一人この世で生き長らえて、西方を見れば涙が止めどなく溢れ出る。(一死非難事、偸世反是羞、伶湾独立世、西望涙長流)
これより、病を得て、職を辞し故郷に帰り、門外にでることなく、読書にあけくれたが、時局は公を隠遁のままではおかなかった。
その後、譲陽府に事件が起き、朝廷の公儀が公の才覚と徳望を見込んで府使に任命、公は「事件が無いときは病気であり、どうすることもできないが、事件が起きれば、義理上そのままにはしておけない」と言い残して、赴任した。1ヶ月もしないうちに、刑罰も科すことなく、事件は収拾され、安寧が回復した。監司がその功績を朝廷に伝達、特命で嘉善大夫〔従二品〕に昇進した。
中宗3年〔1508年〕死去したときは享年60歳。
訃報に接するや、王は悲しみ、愛惜しながら、監司に命じて、初喪と葬事に手厚く贈品した。故郷の咸安仁谷の祖父〔茅隠公〕の墓に埋葬した。会葬者は千名におよんだ。
公は兄弟が四人おり、長兄は、副提学公〔号、観斉〕で経学と文章で当世の名声を得ており、臨強大君〔世宗の四男〕の外孫〔婿〕となり王が第宅を下賜し、漢陽〔ソウル〕に居住しており、ころあい良く、祖先の祭祀を公に伝え、公の後孫が今も奉祀している宗孫となった。
公は扶余白氏 別侍衛 啓分の娘を娶り、ニ男ニ女をもうけた。長男の包は忠順衛で、次男の珷は中宗朝の靖国原従一等功臣である。娘たちは、黄協、魚応辰に嫁いだ。包の息子は景裕で、その子供の大亨が壬辰倭乱(文禄慶長の朝鮮の役1592~98)で殉国したことを理由に判決事〔掌隷院の正三品〕に追贈された。
珷の息子は景成で、県監である。景成の息子が4人おり、長男の〔 〕は掌楽院主簿〔従六品〕、次男の〔 〕は右伊、三男の静は執義〔司憲府の従三品〕に任命された。壬辰年の倭乱に義兵を率いた金誠一に従い功績をあげ、牧使になった。四男の粛は郡守で、やはり義兵を率いて功績をあげた。
公は天性が純孝で、両親の死後3年の喪に服した。公の性格は剛直で、権力者、高位者に対しても、諌め後悔することがなかった。
王に申し上げたことが施行されない時は、機転をきかせ施行させ、勇敢であった。
故郷に帰り林泉に隠居しながら、経史の書籍を読み気ままに過ごした。
右議政 文貞公 許探は公の墓誌銘に、「性質は温良、家庭にあっては仁孝、朝廷にあっては忠正」と記載している。
寒岡 鄭文穆公は邑誌〔咸州誌〕で「公は才幹と度量、文章と才華があり、官職を歴任したが、自己の栄達を望まず、人から侮蔑されることは無かった。
(輔国崇禄大夫 前行 史曹判書 陽川 許伝撰述)
栗潤公(仲賢)行状記[編集]
公の諱仲賢 字遵聖 姓 は李氏。始祖の諱は謁平で、新羅初期の佐命功臣である。高麗時代、諱「ウ称」が載寧君に封じられたので、本貫を載寧に移した。
曽祖の諱「日善」は司宰令で、祖父の諱「午」は進士で、高麗の国運が終わるのを予測し、
咸安の茅谷に隠遁したため、号を「茅隠」とした。
午は、朝鮮王朝より官職につくよう招聘されたが、断り、死後に兵曹参議を贈職された。
子息の「介智」は父親の遺言を守り、出仕せず、農事に専念、学問を好んだ。死後、戸曹参判を追贈された。夫人は晋陽河氏の牧使(知事)敬駿の娘である。
介智の子息、栗潤公は、世宗31年〔1449年〕に出生、才幹と度量に優れ、長ずるに及び、経書、史書、四書は無論、程子、朱子までも読んだ。短期間に策文の数千字を習得した。金宗直は、栗潤公と兄の観斉公(孟賢)を見て、金混玉友(優秀な兄弟の意味か)と呼んだ。
成宗3年〔1472年〕生員進士に合格、成宗7年〔1476年〕文科に抜擢され、朝廷でその才能を評価された。注書に任命され、王前で程子を講義した。王の寵愛を受け、王の親書で、広廷亭で宴の招待を受けた。
その後、正言を経て、副修撰に転任、しばらくして、成均館(王立大学)司成に任命された。成均館の儒生に講義し、後、修撰と知製教(王の教書作成)を兼務した。その後、館閣(弘文館と芸文館)の文字を公に託することが多かった。すぐに経席(経書を講義する役職)に任命され、「大学」を講義した。正心、箴戒に任命され王側に侍った。
後、献納(司諌院正五品)として、君主の徳政を補佐し、当時の弊害を救済する為、数百言を王に進言した。
これより、銓郎(史曹の正郎)、典翰(弘文館の従三品)、台省〔司憲府と司諌院〕の教旨を歴任した。
成宗21年〔1490年〕通政大夫〔正三品、堂上官〕に昇進、三品の清班〔弘文館〕に任命された。礼曹参議を経て、弘文館の副提学に転任、
王の寵愛に応えるべく、人災、地変の警戒と戚里〔王の外戚〕の娶倖〔寵愛を受けた側室〕に対し、王にその是非を忌憚無くのべ、職に未練を持つことなく、正当と操守を通した。王は貧相な束帯の公を見て、「貧しくて興ざめするとはこのことか」とのたまわれ、品帯〔階級を示す帯〕を下賜された。
成宗25年〔1494年〕、成宗が崩御された。公は王の冠服の陳列されている庭で号泣し、やがて、病を得て故郷に隠遁した。
1495年、燕山君が即位、経箴官に任命するとの教旨〔勅書〕に、やむなく、大司諌、兵曹参知に就任、権臣、娶臣が政治を壟断することのなきようと論劾したが、採用されず、故郷に隠遁。「栗潤」の額を門に掲げ、号とした。
兄弟の司議公〔諱、季賢〕と典礼〔法典と礼節〕を討議し、生徒に教え山水間で詩歌を吟じながら、余生を送り、燕山君3年〔1497年〕、突然、寧海府使に任命された。病気故固辞したが許されず、やむを得ず、任地に赴き、政治と文教を行った。
燕山君4年〔1498年〕、史獄〔史草に基づく獄事〕が起き、李克巌、柳子光の徒党が憾情を抱いたことで罪を得た時代の旧類〔ハハン士類〕が互いに誅戮され駆遂された。
金宗直、金宏ビン、鄭汝昌、朴漢柱等が全て残酷な禍を受けた。
公は、若い頃、言官〔諌官〕であった時、朴漢柱達とは同僚であった。又、司諌の金係行とは共に、側室の横暴を諌めたものだが、公はこのとき、外郡〔寧海府使〕であった。公は「禍機を免れることは難ししく、 職務も辞職せざるを得まいと思った。」公は、この情報を現地で聞いて、あまたの他の賢人達と一緒に罪人の名簿に記載されないこと知り、残念に思った。そこで、一句作った。
死ぬることはたいしたことではないが、死ぬ時に死なず、おめおめ生き長らえる嘆きは、恥ずかしいことだ。寂しく一人この世で生き長らえて、西方を見れば涙が止めどなく溢れ出る。(一死非難事、偸世反是羞、伶湾独立世、西望涙長流)
これより、病を得て、職を辞し故郷に帰り、門外にでることなく、読書にあけくれたが、時局は公を隠遁のままではおかなかった。
その後、譲陽府に事件が起き、朝廷の公儀が公の才覚と徳望を見込んで府使に任命、公は「事件が無いときは病気であり、どうすることもできないが、事件が起きれば、義理上そのままにはしておけない」と言い残して、赴任した。1ヶ月もしないうちに、刑罰も科すことなく、事件は収拾され、安寧が回復した。監司がその功績を朝廷に伝達、特命で嘉善大夫〔従二品〕に昇進した。
中宗3年〔1508年〕死去したときは享年60歳。
訃報に接するや、王は悲しみ、愛惜しながら、監司に命じて、初喪と葬事に手厚く贈品した。故郷の咸安仁谷の祖父〔茅隠公〕の墓に埋葬した。会葬者は千名におよんだ。
公は兄弟が四人おり、長兄は、副提学公〔号、観斉〕で経学と文章で当世の名声を得ており、臨強大君〔世宗の四男〕の外孫〔婿〕となり王が第宅を下賜し、漢陽〔ソウル〕に居住しており、ころあい良く、祖先の祭祀を公に伝え、公の後孫が今も奉祀している宗孫となった。
公は扶余白氏 別侍衛 啓分の娘を娶り、ニ男ニ女をもうけた。長男の包は忠順衛で、次男の珷は中宗朝の靖国原従一等功臣である。娘たちは、黄協、魚応辰に嫁いだ。包の息子は景裕で、その子供の大亨が壬辰倭乱(文禄慶長の朝鮮の役1592~98)で殉国したことを理由に判決事〔掌隷院の正三品〕に追贈された。
珷の息子は景成で、県監である。景成の息子が4人おり、長男の〔 〕は掌楽院主簿〔従六品〕、次男の〔 〕は右伊、三男の静は執義〔司憲府の従三品〕に任命された。壬辰年の倭乱に義兵を率いた金誠一に従い功績をあげ、牧使になった。四男の粛は郡守で、やはり義兵を率いて功績をあげた。
公は天性が純孝で、両親の死後3年の喪に服した。公の性格は剛直で、権力者、高位者に対しても、諌め後悔することがなかった。
王に申し上げたことが施行されない時は、機転をきかせ施行させ、勇敢であった。
故郷に帰り林泉に隠居しながら、経史の書籍を読み気ままに過ごした。
右議政 文貞公 許探は公の墓誌銘に、「性質は温良、家庭にあっては仁孝、朝廷にあっては忠正」と記載している。
寒岡 鄭文穆公は邑誌〔咸州誌〕で「公は才幹と度量、文章と才華があり、官職を歴任したが、自己の栄達を望まず、人から侮蔑されることは無かった。
(輔国崇禄大夫 前行 史曹判書 陽川 許伝撰述)
載寧李氏[編集]
鼻祖瓢巌公( 謁平)から千年を経た、門下侍中を歴任した補補助功臣で黄海道の載寧の領土を禄邑とする載寧君に封君されることで慶州李氏より分籍したウジンを初代とする。現在全国に約5万名がいる。
各時代の出来事[編集]
瓢 巖 公李 謁 平[編集]
慶州李氏由来
紀元前117年、漢武帝ヲンス6年、突然、天より、瓢巖峰のパクパウイ(巌)に始めて降臨され、楊山村長として、部族民を統率、赫居世(新羅初代王)を養育され、初代新羅王に彼を推戴、6部 村長の議長として、歴史的に有名な、和白会議制度を施行、今日の民主主義の制度を具現された先駆者である。 西暦32年新羅3代王の儒理王9年、ジン韓6村を6部と改称するとき、現在の慶州市一円に該当する 楊山村を及梁部と称し、姓氏を李氏として賜姓され、慶州という地名を付け、慶州李氏と名乗った。
新羅建國の母體である(斯盧の六部の中の閼川陽山村と記録されている。
韓国の大多数の李氏の祖宗として、知られている、慶州李氏は、新羅末に、蘇判という職務を、果たし、眞骨王族(骨品制、聖骨につぐ、王族)の李居明を一世祖として、
世系を継承してきた。
高麗初期より、輝かしい人材を輩出し、閥族の基礎をなし、朝鮮朝になっても、数多くの名賢や学者を輩出した、名門巨族の地位を占めていた。
慶州の地名由来
慶尙北道南東部に位置する地名で、紀元前57年、6村が連合して、古代國家を形成、國號を徐羅伐斯・盧斯・斯羅とし、首都を金城とした。その後、首都名と国名を統一した。西暦65年脱解王9年、始林において、金氏の始祖が誕生、國號)を鷄林と称した。別称として、使用していたが、西暦307年(キロム王10年)最初に国名を新羅とし、
935年(高麗太祖18年)、新羅最後の王である、敬順王が王位を高麗太祖に譲位し、初めて、慶州という名称が生まれた。
987年ソン宗6年)東京と改称し、1008年(モク宗11年)別称として、樂浪郡としたが、1030年(ホン宗21年)、三京の制度が実施されるや、東京を設置し、忠烈王時代、鷄林府と改称された。1413年、朝鮮太宗13年、鷄林府を慶州府に改称、
1835年、慶州郡、1955年より、慶州市となった。
(資料; 慶州李氏ホームページhttp://lys4038.hihome.com/leesijo.htm)
六部の祖[編集]
三国遺事は、上記の前段に「辰韓には昔、六村があった」として説明文を記している。
六村 村長 六部 六姓
閼川の楊山村 謁平 及梁部 (後の中興部) 李氏の祖
突山の高墟村 蘇伐都利 沙梁部 鄭氏の祖
茂山の大樹村 俱(仇)禮馬 漸梁部・牟梁部(今は長福部) 孫氏の祖
觜山の珍支村 智伯虎 本彼部 (今は通仙部) 崔氏の祖
金山の加利村 祇沱(只他) 漢岐部・韓岐部(今は加德部) 斐氏の祖
明佸山の高耶村 虎珍 習比部 (今は臨川部) 薛氏の祖
『晋書』辰韓伝
辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。初有六國、後稍分為十二。
辰韓は馬韓の東に在り、自ら苦役を逃れて韓に進入した秦の逃亡者だと言い、韓が東界の地を割譲したので、ここに城柵を立てて居住した。言語は秦の人に類似しており、あるいはこれを秦韓とも言う。初めは六国あり、後に十二国に細分した。
三国遺事の「辰韓には昔、六村があった」は、上記の「辰韓には初めに六国あり」のことだと思われる。従って、村とは当時の邑落国家、村長とは邑落国家の首長を指している。
三国遺事は六村の説明の文末に、次のような奇妙な一節を記している。
按上文此六部之祖、似皆從天而降。弩禮王九年始改六部名。又賜六姓。令俗中興部為母、長福部為父、臨川部為子、加德部為女、其實未詳。
思うに上記の六部の祖は全員が同じように天から降臨している。弩禮王(儒理尼師今立)の九年の初め、六部を改名。また六姓を賜る。俗に中興部を母とし、長福部を父とし、臨川部を男児とし、加德部を女児とする。その実体は未詳である。
沙梁部と通仙部が除外されているが、六部にも優劣があったのかもしれない。
また、六部の祖は各々が天から降臨したとするが、李氏(瓢嵒峰)、鄭氏(兄山)、孫氏(伊山)、崔氏(花山)、斐氏(明活山)、薛氏(金剛山)と降臨した山名を記しており、おそらくこれが各自の領域を表示しているのだろう。
「卵生型神話」
神話の類型的特長として、北方民族は「日光感精型神話」、南方民族は「卵生型神話」
を持っているとされるが、「卵を割って男児を得た」とする蘿井伝説は南方系の卵生型神話に分類される。ただし、日本の「記紀」神話と同様に下記のように、朝鮮諸国は『盤古神話』の影響を受けた結果として卵生型神話が創作された可能性も考えられ、実際の古伝承では、卵生型神話であったか否かは不明。
『朝鮮の開闢神話』
遠い昔、天と地は互いに混じり合っていたが、やがて天と地が離れると、天からは青い露が降り、地からは黒い霧が湧き出し、その露と霧が合水して万物が生じた。巨大な天皇鶏が頭をもたげ、地皇鶏が翼を広げ、人皇鶏が尾を振って朝を告げるような鳴き声をあげると、闇は払われ、天地開闢となった。
この神話では渾沌宇宙を象徴する鶏子(とりこ)は登場せず、三皇の名を冠した鶏だけが登場する。従って、南方系の卵生神話というより、その類似性から考え、朝鮮半島に道教が伝わってからの創作で、三皇鶏は鳥をトーテムとする高句麗の影響とも思える。南朝の宋と通交していた高句麗の朝貢使が宋から「述異記」を持ち帰ったとすれば、盤古神話との関連性も理解できる。
「ヒョウタン」
瓢箪(ひょうたん)は瓜科の一年草、ユウガオの変種で、果実から干瓢(かんぴょう)を製する。瓢、瓠、葫蘆(ひさご、ふくべ)とも表記される(『広辞苑』)。
神聖な植物と考えられていたのか、世界中の神話に登場する。中国式の星座では北極星を天帝の宮殿とし、その附近にある天帝の果樹園を「瓠瓜」と称している。
三国遺事は「瓠を朴という。そこで姓を朴とした」とするが、現代漢語では、瓠(hu)はユウガオ、葫(hu)と瓢(piao)が瓢箪を意味している。朴は多音字で(piao、po、pu)の三音があるが、瓢(piao)とは同音声である。従って、瓠ではなく、瓢を朴と呼んでいたとも思えるが、おそらく古代の韓訓では、瓠と瓢は同一音だったのだろう。
『洪水伝説』チワン族(壯族)
二人の兄妹が幼い頃、雷神を助け、雷神が御礼にくれた御守を二人で土に埋めた。やがてそれは大木となり、大きな葫蘆(ひょうたん)が実った。あるとき世界に大洪水が発生し、地上の人類は滅亡したが、二人だけは瓢箪の中に逃れて危難を免れた。そこで、兄は瓢箪を意味する「伏羲」と名乗った。
二人が成人すると、伏羲は妹の女媧に結婚を申し込んだ。妹は断りかねて「私を追いかけて捕まえることができたら結婚しましょう」と応えた。二人は大木の周りを走り回ったが、妹に追いつけなかった。そこで伏羲は立ち止まり、逆に廻って妹を捕まえた。
こうして二人は結婚し、妹は出産した。だが、妹が生み落としたのは肉塊だった不思議に思い、それを切り刻んで紙に包み、天界に行こうとすると、風が吹き、紙は破れて、微塵切りの肉が飛び散り、それらが人間になった。こうして二人は人類の始祖となった。
『洪水神話』朝鮮
昔、大洪水が起り、世界は水底に沈んでしまった。ただ一組の兄妹が高い山に流れ着いて生き延びたが、洪水が治まって山を降りると、二人の他に誰一人として生き残っていない。このままでは人間は絶えてしまう。だが、実の兄妹で結婚するわけにはいかない。
二人は悩んだ末に、もし奇跡が起ったら、それは神様が兄妹の結婚を許す意志を示すものと考え、二人は向かい合った二つの山に登り、兄は石臼の凹凸の凸の半分を、妹は石臼の凹の半分を転がした。すると、石臼は人が手で合わせたかのように見事に合体した。さらに二人は青い松葉で作った毬に火を灯した。二つの山から煙が立ち昇ったが、その二条の煙が不思議にも空中で交わって一筋の煙になった。これを見て兄妹は結婚することを決め、子供を産んだ。今この世にある人間は、この兄妹の子孫である。
三皇の伏羲と女媧(じょか)は盤古神話と同様、中華では極めて有名な神話で、蘿井伝説は、朴(赫居世)を伏羲に重複させて創作したことを思わせる。また、文末の赫居世の遺体が分断されて大地に降下してくるのも、女媧の産んだ人類の種となる肉塊をイメージしているのかもしれない。
「斯羅、斯盧」
水野祐氏によると「新羅の古称は斯羅・斯盧・新良であり、更にその元の名は斯(し)であった。羅は国土の意である」とのこと。
『南史』新羅伝
新羅、其先事詳北史、在百濟東南五千餘里。其地東濱大海、南北與句麗、百濟接。魏時曰新盧、宋時曰新羅、或曰斯羅。其國小、不能自通使聘。
新羅、その先祖の事は北史が詳しい、百済は東南に五千余里に在る。その地は、東は大海に沿い、北に高句麗、南に百済に接している。魏の時代には「新盧」といい、宋の時代には「新羅」あるいは「斯羅」と称した。その国は小さく、自からは通使を派遣できなかった。
三国遺事、三国史記では五鳳元年(前57年)甲子とするが、『南史』のいう魏の時代とは三国魏(220年-265年)、宋の時代とは南朝宋(420年-479年)の時代にあたる。
文頭に記したように干支の該当年を倍数する必要がある。従って、甲子年は「前57年、西暦3年、63年、123年、183年、243年、303年」にあたるが、三国魏の時代に該当するのは「243年」である。
『晋書』辰韓伝
武帝太康元年、其王遣使獻方物。二年復來朝貢、七年又來。
武帝の太康元年(280年)、その王は遣使を以て方物を献上した。二年にも再び来朝して貢献、七年(286年)にもまた来た。
太康七年(286年)の朝貢記録があることから、辰韓の六国は統一して斯盧となったが、中国正史に「六国は十二国に細分された」とあり、斯盧は他の辰韓諸国を統一するまでには至っていなかったのだろう。
「雞林国」
初め王は雞井で生まれた。それ故、あるいは雞林国ともいう。雞龍が現れたことは祥瑞である。一説には、脱解王の時、金閼智を得た。而して雞は林の中で鳴いたので、国号を雞林と改めた。後世、この号を新羅と定める。
赫居世は蘿井で卵として発見されたはずだが、唐突に鶏林国の話が登場する。韓国の歴史学者「李鐘恒」氏は半島南部の加那地方について「加那人は倭人である。その領域は、慶尚南道、慶尚北道の南部、及び全羅南道、全羅北道の南部」で、「鶏林国は加那から独立して新羅になった」と解説する(『韓半島から来た倭国』)。
斯廬が慶州盆地の兄山江の上流域に存在したことは史実とされるが、『三国遺事』を編纂した一然も、六世紀初頭に登場する「新羅」が、鶏林国の後裔だという事実を知っており、伝説上の赫居世と鶏林国を結び付けるため、唐突に文章を付加したものと推察する。
「五陵」(慶尚北道慶州市塔洞)
五陵は新羅の始祖朴赫居世王を始め、南解王、儒理王、婆娑王など四名の王と朴赫居世王の王后である閼英王妃の墓だと伝えられている。五陵の南にある崇徳殿は朴赫居世王に祭事を捧げる祭殿とされ、現在も毎年春と秋に五陵保存会が祭祀を行なっている。
ただし、墓は三国時代の古墳に似ており、表面には何の飾りもない平凡な円形古墳であることから、三世紀に建造されたものであれば、朴赫居世の没年を西暦四年とする三国史記や三国遺事の記述とは異なる。
新羅の朴赫居世(ヒョッコセ)神話[編集]
新羅六村(李、鄭、孫、崔、裵、薜)の人々が閼川(アルチョン)の岸辺に集まって会議をしていると、楊山のふもとの林の中に光とともに白馬と大卵が天降り、卵の中から神童が生まれた。彼は赫居世(光り輝く君)と名づけられ、新羅の始祖王となった。
六村の祖先もみな天から降ってきたとされている。
赫居世王は亡くなって昇天したが、その後大地に落ちて五体がバラバラになった。慶州にある五陵の一つが赫居世陵であるといわれる。
新羅建国神話の構成要素1
以下の文は、三国史記 新羅本紀 第一 第一代 始祖赫居世居西干の記事である。
始祖 姓朴氏 諱赫居世 前漢孝宣帝 五鳳元年甲子 四月丙辰 一曰正月15日 即位 號居西干 時年十三 國號徐那伐 先是 朝鮮遺民 分居山谷之間為六村 一曰閼川楊山村 二曰突山高虚村 三曰觜山珍支村 或云干珍村 四曰茂山大樹村 五曰金山加利村 六曰明活山高耶村 是為辰韓六部 高虚村長蘇伐公 望楊山麓 蘿井傍林間 有馬跪而嘶則往観之 忽不見馬 只有大卵 剖之 有嬰兒出焉 則收而養之 及年十餘歳 岐嶷然夙成 六部人 以其生神異 推尊之 至是立為君焉 辰人謂瓠為朴 以初大卵瓠 故以朴為姓 居西干 辰言王 或云呼貴人之稱
「三国史記」の冒頭によると、六村は朝鮮の移民が山間に分かれて作られたものであると書かれている。その六村の(「三国史記」では六村は六部の前身であると記述されている)長の一人である蘇伐公が、楊山の麓 蘿井のそばの林間で新羅の始祖王である赫居世を見つける。
一方、三国遺事 巻一 紀異 第一 新羅始祖 赫居世王の記事には次のように見える。
辰韓之地 占有六村 一曰閼川楊山村 南今曇巖寺 長曰謁平 初降于瓢○峰 是為及梁部李氏祖[弩禮王九年置 名及梁部 本朝太祖天福五年庚子 改名中興部 波濳東山村屬焉]二曰突山高虚村 長曰蘇伐都利 初降于兄山 是為沙梁部[梁讀云道 或作○ 亦音道]鄭氏祖 今曰南山部 仇良伐麻等烏道北廻徳等南村屬焉[稱今日者 太祖所置也 下例知]三曰茂山大樹村 長曰倶[一作仇]禮馬 初降于伊山[一作皆比山]是為漸梁[一作○部 又牟梁部孫氏之祖 今云長福部 朴谷村等西村屬焉]四曰觜山珍支村[一作賓之 又賓子 又氷之]長曰智伯虎 初降于花山 是為本彼部崔氏祖 今曰通仙部 柴巴等東南村屬焉 致遠乃本彼部人也 今皇龍寺南呑寺南有占墟 云是崔侯古宅也 殆明矣 五曰金山加里村[今金剛山栢栗寺之北山也]長曰祗沱[一作只他] 初降于明活山 是為漢岐部裴氏祖 今云加徳部 上下西知之兒東村屬焉 六曰明活山高耶村 長曰虎珍 初降于金剛山 是為比部薜氏祖 今臨川部 勿伊村○仇○村闕谷[一作葛谷]等東北村屬焉按上文 此六部之祖 似皆従天而降 弩禮王九年始改六部名 又賜六姓 今俗中興部為母 長福部為父 臨川部為子 加徳部為女 其實未詳 前漢地節元年壬子〔古本云建虎元年 又云建元三年等 皆誤〕三月遡 六部祖各率子弟・倶會於閼川岸上・議曰 我輩上無君主臨理蒸民 民皆放逸 自従所欲 盍?有徳人 為之君主・立邦設都乎 於是乖高南望 楊山下蘿井傍 異気如電光垂地 有一白馬跪拝之状 尋?之 有一紫卵〔一云青大卵〕馬見人長嘶上天 剖其卵得童男 形儀端美 驚異之 浴於東泉〔東泉寺在詞腦野北〕身生光彩 鳥獣率舞 天地振動 日月清明 因名赫居世王〔盖郷言也 或作弗矩内王 言光明理世也 説者云 是西述聖母之所誕也 故中華人讃仙桃聖母 有娠賢肇邦之語是也 乃至?龍現瑞産閼英 又焉知非西述聖母之所現耶〕位號曰居瑟邯 〔或作居西干 初開口之時 自稱云 閼智居西干一起 因其言稱之 自後為王者之尊稱〕
大まかな内容は「三国史記」とあまり変わらないが、「三国遺事」は辰韓六村の長たちの名前と六村の地(「三国遺事」記述当時)の説明がある。このように記述内容に若干の差異が見られるが、二つの記事に共通する事は、六村の長たちつまり辰韓地方の原住民と初代新羅王朴赫居世との関係は薄いということである。
また新羅には、赫居世王の朴氏以外に第四代昔脱解王、第十三代味鄒王という昔氏、金氏を名乗る王の伝説も存在する。一つの王朝が3つの姓を持つなどという現象は、高句麗・百済には見られない。
赫居世 (カクキョセイ)
新羅(シラギ/シンラ)の建国者
姓は朴(ボク)氏
辰韓(シンカン)の六村の村長が君主となるべき者を求めていたとき天より雷光が落ちた。人々が集まると一頭の白馬が紫色の大卵の前にまるで礼拝するようにひざまついていた。白馬は人が集まるのを察して、一声嘶き天へと昇っていった。
卵を割ってみると中から凛々しい男の子がでてきた。男の子の身体を洗うと光が溢れ、動物、鳥が集い、天地は震動し、太陽と月は光を増した。村長達は男の子に、明るく世を治める者の意味である赫居世と名付けることにした。
人々は赫居世の妻となるべき者を捜した。すると、同日に鶏竜が現れ女の子(閼英)を産んだことを知り、この子を赫居世の妻にすることとした。
人々は王宮を建て二人を育てた。二人が13歳になったとき、赫居世は王となり、閼英は妃となった。
新羅は繁栄したが61年目に王は天へと帰った。帰る途中、身体はばらばらになり地へと降ってきたので、人々は身体の破片を集めたが蛇が邪魔をした。仕方なく五体を別々に葬った。五体を葬った地は五陵と名付けられた。
官職
1. 伊伐飡(飡はにすいに食)
2. 伊尺飡(伊飡)
3. 迊飡
4. 波珍飡
5. 大阿飡 (これ以上は真骨=王族のみが受けられる官位)
赫居世居西干(ヒョッコセ ゴソガン、紀元前69年 - 4年 在位:紀元前57年 - 4年 )は、三国史記に出てくる新羅初代国王。姓を朴、名を赫居世とし、居西干は辰韓語で王もしくは貴人を意味する言葉とされる。
三国史記新羅本紀によれば、辰韓の今の慶州一帯には朝鮮の遺民(どの朝鮮を差すかは不明。三国遺事では天から降りてきたとする)が山合に住んでおり、楊山村(後の梁部もしくは及梁部)・高墟村(後の沙梁部)・珍支村(後の本彼部)・大樹村(後の漸梁部もしくは牟梁部)・加利村(後の漢祇部)・高耶村(後の習比部)と言う6つの村を作っていた。この六つの村を新羅六部と呼ぶ。
その中の楊山村の林に馬(三国遺事では白馬とする)がひざまついているのに気が付いた高墟村の村長蘇伐都利(ソボルトリ、三国遺事では6人の村長とする)がその場所に行くと馬が消えており、大きい卵(三国遺事では紫もしくは青色とする)があった。その卵を割ると男の子が出てきた。沐浴させると体の中から光が出てきた。6人の村長は卵が瓠(ひさご)の様だったので、姓を朴(辰韓では瓠の事を朴と呼んだとする)とし名前を赫居世とした。朴赫居世が生まれたその後十余歳(三国遺事では13歳歳とする)になった時、6人の村長に推戴され、朝鮮半島東南部の徐那伐(ソナボル、三国遺事では徐羅伐(ソラボル)・徐伐(ソボル)若しくは斯(シ))の国王になり、在位61年で亡くなった。
この時代の新羅の重臣に倭人で瓠をぶら下げて海を渡ってきた為に瓠公(ホゴン)と呼ばれていた人物が出てくる。赫居世の朴姓も同じ瓠から取っているため同一人物を差しているのでは無いかと言う説がある。別の説で、赫を新羅語の光明(パルク)、居世を吉支(キシ=大者)とし、光明王(もしくは聖王)の意味とし、赫と朴(パク)は同義とする説がある。
また、徐那伐・徐羅伐は徐伐(ソボル)とも書くため新羅語でソウル(京)を意味し、つまり新羅の首都慶州を差すと言う説がある。
敬順王(けいじゅんおう ? - 978年、在位927年 - 935年)は新羅第56代国王。本名は金傅。46代文聖王の6世孫に当たる。
927年甄萱により景哀王が殺害された後、敬順王は甄萱により王位に就いたが、各地に群雄が割拠し、領土が日に日に少なくなると、高麗に国土を譲渡することを決定し、935年高麗に降伏し、妹を太祖の妃に差し出した。高麗の太祖王建は、長女楽浪公主を嫁して正承公に封じ、地位は太子の上とした。また慶州を食邑として与え、そこの事審官に任命した。また、高麗第5代王は、敬順王の娘を妃としている。( 詳細は高麗王后、高麗王を参照されたい。)
高麗王家と蒙古[編集]
忠烈王(ちゅうれつおう 1236年 - 1308年)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。
姓名は王椹、二十四代目高麗王元宗の子。諡は忠烈景孝大王、諱は王賰、別名は王椹。1260年に世大子となり、 1271年6月に元に婚姻の許諾を得てフビライの娘忽都魯掲里迷失(クツルガイミシ)を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後再び高麗に戻り王位についた。
文永の役・弘安の役においては元に日本侵攻を執拗に進言し、兵力と経費を提供するととともに毎年元に莫大な貢物、奴隷[5]等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊し、これを憂いた臣下によって廃位となったが元の力により復位した。この後更に親元政策を貫き、胡服辮髪の令(1278年)を出すほか、以降の王は 元の宮廷で育ち忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠肅王は「阿刺訥失里」(アラトトシリ)、忠惠王は「普塔失里」(ブダシリ)元風の名を持っている。
高麗王(こうらいおう)とは高麗(918年-1392年)の国王で王氏による。各王の詳細は以下の表で王名(諱)を見られたい。
王建が高麗を建国したが、第22代高麗王高宗の1258年元朝に服属した。後の25代忠烈王の1287年からは高麗王は征東行省達魯花赤を兼ね、元朝の属国となったが、1356年恭愍王の時代に元朝の衰退とともに自主性を回復し独立した。13世紀から14世紀までは元朝の臣が命を受けて行く行省の1つであり、「征東行中書省」が正式名称である。元朝の滅亡までこれは続き、高句麗との混淆を免れるために中国では、王氏高麗と呼んでいる。
恭愍王(きょうびんおう、1330年 - 1374年 在位1351年 - 1374年)は第31代の高麗王。忠肅王の子。姓は王、名は祺。蒙古名は伯顔帖木児。諡号は恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王。妃は元の魏王、魯國大長公主 寶塔失里[1]他の妃としては恵妃李氏、益妃韓氏、定妃安氏、愼妃廉氏等が記録上にある。
幼少時は元の宮廷で育ち、元の支援を背景にして即位した。しかし、元の衰えと明の台頭を見て、親明政策を取り始めた。まず、高麗国内の親元勢力を排除として、元の外戚として権勢を振るう奇氏(奇皇后の実家)を討ち、次に軍備を増強した。李成桂をはじめとする武人を登用し、元に奪われた領地の奪回を果たした。また100年以上続いた胡服弁髪令をも廃止した。
しかし、治世後半は中国から紅巾軍、南から倭寇の侵攻に悩まされるようになり、一時は紅巾軍に首都を奪われるまでに至った。 僧侶出身の辛旽が政治を一任されるようになるとその政策に不満を持つ人々の反感を買うようになったという韓国MBCの歴史劇が最近話題になっている。 1368年、中国で明朝が成立し、元をモンゴル高原に退けると、恭愍王は明に属することを表明したが、親元派の宦官に殺された。
王の治世は、衰退する元から独立し、台頭してきた明に属する親民政策をとった。これが親元派の暗殺を呼び込み続く後廃王 の世では、親元派が政権を握った。彼の治世に将軍として元討伐や倭寇討伐で活躍した李成桂は、続く、前廃王、後廃王を殺し、王位に就き、次の李氏朝鮮王朝を築き上げた。
高麗王室と蒙古帝国との婚姻関係
25 中宗
忠烈景孝大王 王賰
王昛/王椹 1274年-1298年
復位1298年-1308年
王倎
斉国大長公主
忽都魯掲里迷失 元
26 憲宗
忠宣憲孝大王(太尉王) 王璋
益知禮普花 1298年
復位1308年-1313年
王賰
薊国大長公主
寶塔實憐 元
27 太宗
忠肅懿孝大王 王燾
阿刺訥忒失里 1313年-1330年
復位1332年-1339年
王璋
曹國公主 金童、
濮國長公主: 亦憐眞八刺、
慶華公主:伯顔忽都蒙。 元
28 孝宗
忠惠獻孝大王 王禎
普塔失里 1330年-1332年
復位1339年-1344年
王燾
元国関西王焦八の娘
德寧公主 亦憐眞班 元
29 繼宗
忠穆顯孝大王 王昕
八思麻朶兒只 1344年-1348年
王禎
12歳で死亡につき妃は無し 元
30 哀宗
忠定大王 王蚳
迷思監朶兒只 1349年-1351年
王禎王燾
14歳で死亡につき妃は無し 元
31 武宗
恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王 (恭愍王) 王祺
伯顔帖木児 1351年-1374年
王燾
魯國大長公主 寶塔失里
紅巾軍の高麗侵入[編集]
1358年、紅巾軍は元の上都開平に進撃したが、反撃を受け遼陽へ向かい、59年に4万、61年に10万の大軍で高麗に侵入した。一回目の侵入では西京(平壌)をあくる年の1359年まで占領したが、崔瑩、安裕、李芳実らを中心とした高麗軍は反撃を行い、紅巾軍をほぼ全滅させた。二回目の侵入では首都開京を翌年1362年の初めまで占領し、江原道まで侵入したため、王は福州(慶尚南道)に避難したが[1]、崔瑩を総指揮官とする高麗軍が開京を奪還し、紅巾軍を北方に退けた。
蒙古の侵略に徹底抗戦した三別抄が元宗に鎮圧された後、高麗では忠烈王・忠宣王・忠粛王・忠恵王・忠穆王・忠定王と蒙古に忠誠を誓った6代の王が続いた。果敢に反元政策を推し進めた恭愍王の時代に一人の英雄が現れた。崔瑩将軍である。倭寇の討伐で頭角を現した崔瑩は恭愍王を警護する于達赤(護衛隊員)に昇格、鴨緑江西の八城を収覆するなど数々の戦功を上げた。
1359年12月、紅巾賊が4万の大軍で西京・平壌を侵攻した時、また開京を侵攻した1361年、賊軍を撃退し一等功臣になった。
1363年、恭愍王の命を狙った「興王寺の変」で乱を鎮め、1364年、元の奇皇后が恭愍王を除去しようと崔儒に1万の軍勢を与え鴨緑江を越えてきた時にも李成桂と義州で敵軍を殲滅させた。
1376年7月、三南地方に侵入した倭寇討伐に向かった朴元模が惨敗した後、崔瑩は出兵を志願し「鴻山の戦闘」で倭寇を壊滅した。1374年に恭愍王が暗殺された後も崔瑩は六道都統使(総司令官)に任命され、1388年には守門下待中(首相)になり高麗王朝を最後まで支えた。
1388年2月、元を滅ぼした明は高麗に使臣を送り鐡嶺衛より北の領地を差し出すように脅迫してきたが、崔瑩は屈することなく断固反対し瑀王に遼東出兵を促した。
1388年5月7日、李成桂の率いる軍隊は鴨緑江の中洲・威化島に至るが「小国が大国を討つことは難しい、農繁期に百姓を戦争に駆り立てるのは望ましくない、軍隊を移動させれば倭寇に狙われやすくなる」などの条件を並べ軍隊を引き返してきた。
八道都統使として王と平壌に残った崔瑩は、開京に戻り城門を閉め反乱軍と戦ったが敗れて李成桂に逮捕された。高陽(ソウルに隣接する地)に流され合浦に移された崔瑩将軍は開京に戻され「攻遼罪」で斬首された。剛毅にして清廉潔白、高麗の忠臣で守護神であった老将軍・崔瑩の死が伝えられると民衆は家の門を閉め、涙を流して喪に服したと伝えられている。
杜門洞の忠臣たち
紅巾賊が4万の大軍で押し寄せたが、崔瑩将軍の活躍で平壌城をみごとに守りぬいた
李成桂の易姓革命以後、高麗王朝に仕えた忠臣たちは「二君に仕えず」として職を辞して命を絶つ者、落郷して百姓になる者、商人に身を転じる者など「忠孝」の精神を余す所なく発揮した。
非業の最期を遂げた鄭夢周・崔瑩ばかりでなく開城には「杜門洞精神」として文臣72人と武臣42人の話が伝えられている。不朝峴の峠で満月台の王宮に向かいいっせいに礼を上げ、そのまま萬寿山・西杜門洞に向かった文臣72人、賓鳳山・東杜門洞に向かった武臣42人は朝鮮王朝に対する非協力を貫き、村から出ず李成桂の呼びかけには決して応じなかった。
彼らは不屈の精神を後世に伝えるため、手工業で生計を立て、後には全国に広がる商道を創設し「松房」の基礎をつくると同時に簿記と都家法(商工会議所のような制度)をつくった。
商業や農業・工業に縁のない彼らではあったが、李朝に屈さないためにも経済的な樹立をするために生活の基盤を整えた。
李成桂の度重なる入朝勧告にも動かなかった麗臣に対し最後通告がきた。2カ所に出口を作り、東西の杜門洞を山のような薪で囲み火をつけたのだ。文武両斑114人正座したまま、燃え尽きたことが後にわかった。
李成桂は朝鮮王朝の太祖となったが、高麗王朝の忠臣たちを取り入れることはできなかった。
また、高麗王朝に忠誠を尽くした忠臣たちの精神は朝鮮王朝の士大夫たちにも継承された。(文-洪南基、写真-文光善記者)
[朝鮮新報 2008.7.23]
中宗反正[編集]
中宗(チュンジョン、ちゅうそう)は、李氏朝鮮の第11代国王である(在位:1506年9月2日 - 1544年11月14日)。諡は恭僖徽文昭武欽仁誠孝大王、略して中宗恭僖大王。第9代成宗の次男で、第10代燕山君の異母弟。
1494年、6歳で晋城大君(チンソンデグン、しんじょうたいくん)に冊封された。1506年9月2日朴元宗(韓国語版)(パク・ウォンジョン、ぼく げんそう)、成希顔(韓国語版)(ソン・ヒアン、せい きがん)、柳順汀(韓国語版)(ユ・スンジョン、りゅう じゅんてい)らが宮廷クーデターによって燕山君を廃位、追放し、18歳の晋城大君を擁立した。史上、中宗反正(チュンジョンバンジョン、ちゅうそうはんせい)と呼ばれる。中宗はクーデター勢力に擁立された王権の脆弱性を打開するため、燕山君に弾圧された士林派を引き入れ革新を図ったが、土地兼併禁止、均田制実施などを主張する趙光祖ら急進的な士林勢力を押さえることができず、政局は混乱に陥った。
1519年、反正功臣らは過激な士林派に反逆罪をかぶせて粛清を行い、士林派の中心人物であった趙光祖も帰郷を命じられた後、王命により賜薬(死薬)を飲まされて毒死した。これを己卯士禍と言い、この時粛清された学者たちを後世、己卯名賢と呼ぶようになった。1521年、己卯士禍の余波で辛巳誣獄(신사무옥)が発生して安処謙などの士林派がまた首切りされた。その後にも政局はもっと混乱し、1524年、権臣金安老(韓国語版)(キム・アルロ、きん あんろう)の罷職、1525年、尹世昌(윤세창)の反逆事件、1527年、東宮の灼鼠の変(中国語版)が相次いで発生した。結局犯人で指を受けた敬嬪朴氏と彼女の息子李嵋が宮廷を退出させられた後、処刑された。
1531年、その間政界で疏外された金安老がまた復権すると政界はさらに混乱し、金安老に対抗するため中宗の外戚である尹元老(韓国語版)(ユン・ウォルロ、いん げんろう)と尹元衡兄弟が登場して、政界は勳臣と戚臣の対立が激化して、結局金安老が追放された。このような戚臣の擡頭は、1545年に乙巳士禍が発生する原因になった。
また1510年には南部で三浦の乱が起こり、北方からは女真の侵入が相次ぎ、社会不安が絶えなかった。
38年2ヶ月在位した後、1544年11月14日に長男の仁宗に譲位し、翌日56歳で薨去した。墓は「靖陵」とよばれる。
壬辰倭乱・丁酉再乱[編集]
韓国では、豊臣秀吉が引き起こした文禄の役と慶長の役を、それぞれ壬辰倭乱および丁酉再乱と呼ん でいる(これら二つの戦乱を壬辰倭乱の名で総称する場合もある)。 博物館のパンフレットによれば、壬辰倭乱・丁酉再乱とは以下のような戦争だった。
日本軍は総勢20余万の兵力で1592年4月14日朝鮮に上陸し壬辰倭乱を起こした。釜山鎮城と東莱城を陥落させた日本軍は20日余りでソウルを占拠、それからまた二ヶ月ほどで平壌、咸鏡道地域まで至った。宣祖王は義州に避難し明国に救援軍を要請した。 翌年の1593年1月、明国から救援軍が到着し朝鮮軍と協力して平壌城で日本軍を撃退、以後、戦勢は反転し始めた。また、朝鮮各地で義勇軍が立ち上がり日本軍に莫大な打撃を与えたことだけでなく、海では李舜臣の率いる水軍が連勝を続けていた。だんだん窮地に追い込まれた日本軍は、慶尚道の南海の方に後退し、4年間余りの講和会議を行った。
しかし、豊臣秀吉の無謀な要求で講和会議が決裂し、1597年再び日本軍が侵略し、丁酉再乱が勃発した。日本軍は全羅道をすぎ稷山まで進んだが、朝鮮と明の連合軍に敗れて再び南海に城を築き立てこもった。そのうち、1598年8月豊臣秀吉が死んで名分無く戦争に動員された日本軍の撤収により7年間に渡った戦争は幕を閉じた。
16世紀末、2度行われた豊臣秀吉の朝鮮侵略。日本では文禄・慶長の役、朝鮮では壬辰・丁酉の倭乱という。1592年、朝鮮に侵攻した倭軍は平壌まで進んだが、朝鮮の義兵の抵抗と明の援軍によって反撃を受け、さらに李舜臣指揮の朝鮮水軍によって補給路を断たれたため苦戦、一旦講和した。1597年に再び侵攻し、朝鮮南部で朝鮮・明の連合軍と戦った。98年、秀吉の死によって撤退し、戦争は終わったが豊臣政権は間もなく倒れ、朝鮮の国土は荒廃し、明もまた間もなく清によって滅ぼされる。またこのとき捕虜となって日本に連行された朝鮮人によって、日本の朱子学の興隆、陶芸技術の飛躍的発展などがもたらされた。
1592(文禄元)年に始まる第1次の出兵である文禄の役=壬辰の倭乱は、1594年末に一旦講和し、1597(慶長2)年1月、第2次出兵の慶長の役=丁酉の倭乱が行われた。翌98年8月の秀吉の死により、倭軍は撤退に転じ、12月までに戦闘が終了した。戦場となったのは朝鮮半島全土であって、特に第2次では朝鮮南部が大きな被害を受けた。
戦争の呼称と意義 日本での文禄・慶長の役は、当時は「唐入り」、戦前には「朝鮮征伐」といわれていたが、その実態は侵略戦争であった。朝鮮(李朝)では壬辰・丁酉の倭乱といわれ、明(時の皇帝は万暦帝)では秀吉を「平秀吉」とよび、最近ではこの戦争を「抗倭援朝戦争」と呼んでいる。
戦争に大義名分はなく、戦国時代の日本を統一した豊臣秀吉が、更なる領土拡張をめざして朝鮮を侵略したものであり、さらに秀吉の構想では明を征服し、天皇を北京に移すというものだった。豊臣秀吉の個人的な野望から始まり、その死によって終わった無謀な侵略戦争であったが、結果として領土の変更は何一つなく終わった。
しかし、この戦争は16世紀末の東アジアに大きな影響を与えた。日本ではこの戦争が成果無く終わったことから豊臣政権が急速に崩壊に向かい、中国においても明の衰退が進み、清に王朝の座を明け渡すこととなる。何よりも戦場となった朝鮮では国土の荒廃、人口の激減という後遺症が残った。
なお、この戦争は「やきもの戦争」といわれるように多くの陶工が日本に連れ去られ、その他にも織物や金属活字、儒学などが日本にもたらされるという「文化の伝承」という側面があったが、実態は「文化の略奪」であって、朝鮮の陶芸や出版は一時停滞せざるを得なくなるなどの被害を受けた。
16世紀末の東アジア情勢
1585年に関白となった豊臣秀吉は、1590年までに戦国時代の争乱を終結させ、九州、関東、東北を平定し、統一政権を樹立した。その間、1587年にはキリスト教禁教令(バテレン追放令)を出してヨーロッパ勢力の進出を抑える姿勢を示した。とくに1588年には検地と刀狩りによって封建支配体制を作り上げる同時に、海賊停止令を出して倭寇取り締まりを強化して、明に対する勘合貿易の再開を迫った。さらに1591年8月には身分統制令を出して最下層の武士まで百姓になることを禁じて兵員を確保した上で、9月に朝鮮出兵を各大名に命じた。その前線基地として、黒田孝高(如水)に命じ、肥前名護屋城を築城させた。
豊臣秀吉軍(以下、倭軍という)の侵攻の始まった1592年は朝鮮(李朝)が李成桂によって創始(1392年)されてからちょうど200年目にあたっており、高度な文明を維持していたが、儒教(朱子学)の大義名分観によって政治は形式化し、支配階層である両班は東人派と西人派に分かれて党争を繰り返していた。朝鮮の宗主国を以て自認する明は万暦帝の時代にあたり、国力は衰退期に入っていて東北方面からの女真(後の清)の侵攻に苦しんでいた。しかし明は、豊臣政権をかつて永楽帝が日本国王に冊封した足利義満の幕府を倒したものであり、その正統性を認めていなかった。明は豊臣政権の朝鮮への派兵は、自国領への侵攻と捉え、軍の派遣を行った。朝鮮も明軍の支援を要請したが、その兵糧を負担しなければならず、大きな負担でもあった。
そのころ西欧では、1580年にはスペインがポルトガルを併合して全盛期を迎えたが、1588年に無敵艦隊がイギリス海軍に敗れ、海外進出の主役がスペインからイギリス・オランダへと変化する転換期を迎えていた。
豊臣秀吉の朝鮮侵略 文禄・慶長の役
出兵の理由 豊臣秀吉は朝鮮への出兵にあたり、朝鮮国王に示した国書で、自分は母が身籠もったとき日輪が懐中に入った夢を見て生まれた「日輪の子」である、と述べ、この奇瑞によって百戦百勝し天下を治めている。しかし、これで満足しておらず、大明国に入り、日本の風俗を中国の四百余州に及ぼしたい。自分が明へ兵を出すときは、士卒をひきいて軍営に臨むように、と求めた。自らを「日輪の子」と称した秀吉は、国書を「予の願は他に無し、ただ佳名を三国(日本、中国、天竺=インド)に顕(あらわ)さんのみ」と結んだ。このように秀吉の朝鮮出兵は、まったく個人的な野心から発したことであったが、その背景には天下統一によって部将たちが新たな恩賞を得ることができず、不満が生じることを恐れた事が考えられる。豊臣政権は戦争を継続して新たな恩賞を与えることで成り立っていた。
宣教師の目 当時日本で布教にあたっていたポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス=フロイスはその報告書『日本史』のなかで、秀吉の朝鮮出兵に対して、次のような観察をしている。
(引用)このような仕事が進み、すべての人がこの征服事業の準備に忙殺されていた間に、次のような噂が広くひろまった。すなわち、関白はこの事業を結局は成就し得ないであろう、そして高麗へ出陣するに先立って、日本中いたるところで大規模な叛乱が惹起されるだろう、というのである。じつは人々はひどくこの征服事業に加わることを嫌悪しており、まるで死に赴くことを保証されているように考えていた。それがために、婦女子たちは孤独の境地に追いやられたことを泣き悲しみ、もはや再び自分たちの父や夫に相見えることはできまいと思っていた。その多くは後には現実のこととなり、事実、日本中に不安と慨歎が充満し、そのために誰か強力な武将がかならずや関白に向かって叛起するに違いないと感じられていた。そして一同はそのように希望し、誰かがそれを実行することを期待していたのであるが、結局は、猫の首に最初の鈴を付けることを自ら名乗り出る鼠は一匹も現われはしなかった。<ルイス=フロイス/松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史 5』2000 中公文庫 p.153>
フロイスは、朝鮮出兵の先陣を切ったキリシタン大名小西行長(洗礼名アゴスチイノ)から、かなり詳しい情報を得ていた。その『日本史』は宣教師の見た貴重な同時代史料となっている。
文禄の役 1592~96年の文禄の役は15万の大軍で行われ、加藤清正、小西行長らに率いられた倭軍は朝鮮の都漢城を落とし、さらに平壌まで進んだ。しかし、朝鮮の民衆も加わって抵抗が激しくなり、両班層や僧侶が指導する義兵が挙兵して抵抗し、明が李如松の指揮する援軍を派遣して平壌を奪還したため、前進が止まり、苦戦に陥った。碧蹄館の戦いで勝った倭軍は戦線を持ちこたえたが、戦線は膠着し、長期戦に転じた。その間海上では李舜臣の指揮する朝鮮水軍が豊臣方の水軍を各地で破り、制海権を握ったため、豊臣軍は補給に苦しむこととなった。明も戦争の長期化を避けようとして、94年から講和交渉に応じ、一旦停戦が成立したが、豊臣秀吉は朝鮮各地に城を築かせ部将を配置して、朝鮮南部の領有をはかった。1596年、明の使節が秀吉と折衝したが、秀吉は明の降伏と皇帝の娘を天皇に嫁すること、朝鮮の南半分を割譲することなどをもとめたので決裂し、再出兵を決意した。
Episode 朝鮮に降伏した日本武将沙也可
秀吉の朝鮮侵略で出兵した倭軍のなかに、沙也可という武将がいて、朝鮮で重く用いられ、金忠善の名を与えられ、その子孫が今も韓国で続いているという話は、司馬遼太郎が『街道をゆく2 韓(から)のくに紀行』でふれてから有名になった。戦前からその存在は知られていたが、金忠善が書いたという『慕夏堂文集』は偽書とされ、沙也可なる人物の存在も疑わしいとされていた。日本の朝鮮植民地支配のもとで、日本人が朝鮮に降伏したなどということは“不都合な真実”とされたからであり、存在したとしても売国奴としてかたづけられていた。そのようななか、1933(昭和8)年に沙也可は実在の人物だと実証した歴史学者がいた。その名は中村栄孝。その論考は戦後『日鮮関係史の研究』上下として刊行されている。日本側の史料で誰にあたるかは諸説あり、最近では、北島万次氏は『豊臣秀吉の朝鮮侵略』のなかで加藤清正の配下であった岡本(または阿蘇宮)越後守と推定している。また同氏の著作によれば、ほかにも多数の降倭(朝鮮に投降した日本兵)が存在した。沙也可は『慕夏堂文集』によれば、朝鮮が礼儀の国であることを知り、投降を決意したという。そして彼の子孫は今でも慶尚北道の友鹿洞で暮らしているという。司馬遼太郎の紀行文は、友鹿洞の沙也可の子孫の村を訪ね、詳しく報告している。<北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』1995 吉川弘文館 p.1,230-231/司馬遼太郎『街道をゆく2 韓のくに紀行』1971 p.117-153>
慶長の役 1597~98年にかけて秀吉は再度派兵を敢行、慶長の役となった。明が14万の援軍を送り、朝鮮民衆の抵抗も激しかったので倭軍の活動範囲は朝鮮南部に限られ、苦戦が続いた。加藤清正軍が籠城した蔚山城では多大の犠牲が生じ、倭軍からも投降する者が多かった。李舜臣は亀甲船を用いて倭の水軍を圧倒した。秀吉は和平交渉を行いながら増派を続け、島津義弘などの大名は多数の朝鮮人捕虜を獲得した。しかし、諸将の間には加藤清正と小西行長の対立など、内紛が続き、国内にも厭戦の気分が強くなるなか、98年8月に豊臣秀吉が死去し、後を任された徳川家康ら五大老は朝鮮からの撤退を決定した。戦闘はなおも続き、朝鮮軍の攻勢が強まったが、同年末までには島津軍など主力はすべて撤退し、戦いは終わった。
(載寧李氏族譜巻之一に掲載の漢文より翻訳)
秦韓[編集]
中国政府のシンクタンクである中国社会科学院は新羅について「中国の秦の亡命者が樹立した政権」であり、「中国の藩属国として唐が管轄権を持っていた」と記述している[7]。また、中国の歴史学者の李大龍は、新羅の前身である辰韓は秦韓とも呼ばれ、中国の秦の人が建てた国だから、新羅は中国民族が建てた国だと主張している。
なお、『後漢書』辰韓伝では、以下のように記載される。
辰韓、耆老自言秦之亡人、避苦役、適韓國、馬韓割東界地與之。其名國為邦、弓為弧、賊為寇、行酒為行觴、相呼為徒、有似秦語、故或名之為秦韓。
辰韓、古老は秦の逃亡者で、苦役を避けて韓国に往き、馬韓は東界の地を彼らに割譲したのだと自称する。そこでは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒を行觴(酒杯を廻すこと)と称し、互いを徒と呼び、秦語に相似している故に、これを秦韓とも呼んでいる。
『三国志』魏書辰韓伝では、以下のように記載される。
辰韓在馬韓之東、其耆老傳世、自言古之亡人避秦役來適韓國、馬韓割其東界地與之。
辰韓は馬韓の東、そこの古老の伝承では、秦の苦役を避けて韓国にやって来た昔の逃亡者で、馬韓が東界の地を彼らに割譲したのだと自称している。
『晋書』辰韓伝では、以下のように記載される。
辰韓在馬韓之東、自言秦之亡人避役入韓、韓割東界以居之、立城柵、言語有類秦人、由是或謂之為秦韓。
辰韓は馬韓の東に在り、苦役を避けて韓にやって来た秦の逃亡者で、韓が東界の地を割譲したので、ここに居住したのだと自称している。城柵を立て、言語は秦人に類似しているため、あるいはこれを秦韓とも言う。
これらの中国資料によると、新羅は古くは辰韓=秦韓と呼ばれ、秦の始皇帝の労役から逃亡してきた秦人の国という。
また、『北史』新羅伝には、
新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。
新羅とは、その先は元の辰韓の苗裔なり。領地は高句麗の東南に在り、前漢時代の楽浪郡の故地に居を置く。辰韓または秦韓ともいう。相伝では、秦時代に苦役を避けて到来した逃亡者であり、馬韓が東界を割譲し、ここに秦人を居住させた故に名を秦韓と言う。その言語や名称は中国人に似ている。
との記述がある。
また水谷千秋は、辰韓の民の話す言語は秦の人に似ており、辰韓は秦韓とも呼ばれていたため、実際に中国からの移民と考えて間違いない、と述べている。当初は様々な書き方をしていたのを6世紀に正式に「新羅」という表記に統一した。
歴史を紡いで[編集]
岩本家物語は、76代岩本健治が、自身のルーツを調べる中、何もわからないところから、1990年から2010年にかけての長い年月を大変な作業の中、岩本家の家譜を77代、 2000年間の先祖の名前、身分、官位成年没年を探索した。ネットでは、岩本家 の名前の由来と本貫が載寧としか出てこない。鼻祖についても新羅六部として簡単に 記載されているだけだ。鼻祖 閲平から42代で分家した門下侍中(宰相)爵位載寧君ウジ ン(我々は初代ウジンから35代)以降、清官、学者、武人を出した赫赫たる家門で、子孫に誇れるルーツであることを、記録しておきたい。人名辞典に載寧李氏系の岩本姓あり。本貫載寧としか掲載されていない。本貫は載寧に間違いないが、本来は慶州人。載寧は、慶州李氏42代に分家した、始祖の門下侍中高麗王朝の総理大臣であった李ウジンの領地(現在の北朝鮮の黄道載寧郡)にすぎない。彼は載寧君の爵位をもらっていた。たしかに、墳墓は領地であったかの地にあった。我が系統は、新羅王家、高麗王家、フビライ皇帝の血流が入っている。朝鮮時代は、60代従2位下弘文館(王の諮問機関、優秀な官吏がなる)李仲賢などおり、一族の歴史上でも、李申(李朝に反対して流刑死亡)李雲龍(水軍節度使、李瞬臣将軍の下で活躍、韓国映画{閑山島海戦}で雄姿を見ることができる。新羅時代は、真骨王族、高麗、朝鮮時代は清官、学者をあまた出している名門である。
わがルーツは、蒼き狼成吉思汗の血統であり、清官、学者、武人を出した赫赫たる名門であり、子孫に誇れるルーツであることを、後世の岩本家の子孫たちに残すべくWikipediaに記載することにした。2026年8月、76代(静岡系統)岩本英一にて、Wikipediaに岩本物語として掲載、編集した。我が岩本家の子孫たちには、岩本家の歴史を紡いで、誇れるルーツであることを永遠に語り継がれるよう、このWikipediaに追加記載されるよう願いたい。← Wikipediaの目的外利用であることは言うまでもない。
脚注[編集]
出典[編集]
参考文献[編集]
1606年初版、1969年再版、載寧李氏族譜巻之一、二、三
韓国の歴史書三国史記Ⅰ 井上秀雄 訳注 平凡社
三国遺事 李民樹著 ウルユ文化社
探しあてた二千年前のルーツ 李家正文著 徳間書店
古代朝鮮 井上秀雄著 NHKブックス
韓国の神話・伝説 黄泪江 著 東方書店
人物韓国史(上下)麗羅 徳間書店
孤将(原題刀歌)蓮池薫訳(作者 金薫)新潮社
載寧李氏族譜(1969年刊行:德皐公16世孫、弘変謹序)
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載寧李氏: www.rec.com.ne.kr